君が代について


橋本知事が維新の会を率いて、大阪府議会において、君が代に関する条例を可決させた。
大阪府に住むものとして、これは大きな問題であり、自分の考えをいったんまとめたいと考える。

まず、私は日本を愛し、毎日祈っている。また、日本の政治家リーダーの為にも日々祈っている。
地域の為の活動も行っていると私自身も考えるし、私を知る人もそのように言って下さると思う。

もう一度いうが、私は、日本を愛している。であるから、いまからの文章は国家としての日本をいい加減に考えるからではない事を、これを読む方は、心に留めておいて頂きたい。

第二次世界大戦以前においては、天皇は現人神とされており、国民主権でなく、天皇主権であった。そして、現人神としての天皇を礼拝するための歌が国歌とされ、それが君が代であった。
つまり、第二次世界大戦以前の日本において、間違いなく君が代は現人神である天皇を礼拝するための歌であった。

キリスト教徒にもいろいろな立場、信仰があり、いちがいにはいえないが、私の信じる聖書には、出エジプト記のモーセの十戒の中に、本当の神以外を神としてはならないこと、他の神々があってはならな
いこと、偶像をつくってはならない事が書かれている。
天皇を現人神とすることは、聖書から見る時、聖書の神以外を神とすることであり、偶像礼拝である。
であるから、私は、天皇を礼拝するための行為の名残である君が代斉唱を行うことが出来ない。

これは、自分自身の信仰に由来する。そして、天皇主権でなく、国民主権であり、信仰の自由の認められている日本においては、この私の立場そのものは問題がないと考えている。
また、私は、聖書の教えは、非常に心を豊かにし、人を人の為に生きさせ、それは国家の為にもなると信じている。
ところが、今回の条例は、国歌斉唱を強制する力を持つものである。
私の立場においては、これは、偶像礼拝を強制されるのと同じである。

ここまでは、私の信仰についての個人的な話と捉えていただいてもよい。
私のようなものがどう考えても、国家になんの影響もないかもしれない。また、この条例の可決された大阪府においてもなんの問題もないかもしれない。

しかし、先ほど延べたように、聖書の教えは、非常に心を豊かにし、国家の為になると考える。歴史の中においても、多くのキリスト教徒が、その信仰のゆえに社会に貢献した。これは、歴史に刻まれた事
実である。
私が知る若者の中には、そのような教えの中にあって、心豊かに育ち、教職を目指すような者たちもいる。
ところが、今回の条例は、そのような純粋な聖書信仰にある若者たち、キリスト教会に通い、そのような、聖書の教えによって培われた若者たちを、偶像礼拝へ同意出来ないという信仰上の理由により、教
育という場から締め出す可能性のあるものである。

教育という場は、これを可決した大阪府だけでない、日本の将来を担う子どもたちを育てる場である。
そのことを思うと、この条例は、日本の将来に対し、大きな損失を与えるものであると考える。

君が代を強制的に歌わせようとするような事柄の背景には、人々を統率しようとする考えがあるのだろうと思う。
それは、この国を良くしようという心からであるかもしれない。
しかし、このようなトップダウンの強制力によって支配しようという方向に世が動いているとすれば、それは、やがて教育の場だけに留まらず、じわじわと全ての面に広がっていくのでは無いだろうか。

聖書に照らすとき、国民は大阪府民は神の前に悔い改めなければならない。
それは、私自身にも言えることだと思う。
しかし、世が改まるのは、人間が人間を強制する方法、ましてや、信仰をさえ曲げさせるような方法であってはならないと考える。

最後に、笑止と言われる事を覚悟で、愚かしい提案をさせていただく。

私は、国歌として、「ふるさと」がふさわしいのではないかと考えている。
この日本をふるさととし、この国にくらし、また、世界にも出て活躍しようとする日本国民にとって、古のこの国の風土を歌い、父母を敬い、友を思うこの歌は、日本人の心の歌である。

どうぞ、神様の哀れみと導きが橋本知事と維新の会に、大阪府議会に、大阪府に、そして、日本にありますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。



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