礼拝でのお話
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ワーシップ
メッセージ




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シティーチャーチ
メッセージ20100606    
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求めなさい。そうすれば受けるのです。 
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、全能者、創造主、力ある神。今も生きておられる方です。
この方を覚えて御言葉を聞いて参りましょう。

さて、では、いつものように聖書の通読箇所から見て参りましょう。
聖書の通読箇所は、
旧約聖書が列王記第二から歴代誌
新約聖書がヨハネの福音書です。

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6月6日(日)[ ]U列王11-13 /[ ]ヨハ15
6月7日(月)[ ]U列王14-15 /[ ]ヨハ16:1-16
6月8日(火)[ ]U列王16-17 /[ ]ヨハ16:17-33
6月9日(水)[ ]U列王18-19 /[ ]ヨハ17
6月10日(木)[ ]U列王20-22 /[ ]ヨハ18:1-18
6月11日(金)[ ]U列王23-25 /[ ]ヨハ18:19-40
6月12日(土)[ ]T歴代1-2 /[ ]ヨハ19:1-22
6月13日(日)[ ]T歴代3-5 /[ ]ヨハ19:23-42
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列王記は、ユダ王国の滅亡と、バビロン捕囚によって終わります。
そして、その歴史をアダムからもう一度たどるのが歴代誌です。

しかし、起こった出来事の記録としての列王記に対し、歴代誌は人と神様との関係が記録されていると言える面があります。
ヤベツの祈りなども、このところに出てきます。
ぜひ、これらのところお読みください。

また、新約聖書はヨハネの福音書です。
こちらは、お話の中で見て参りましょう。

では、このヨハネの福音書から、本日は16章です。
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【 聖書箇所 】ヨハネの福音書16章23-33節
・新改訳Up196(贈呈p174、英対p321)
・新改訳Vp214、英対p239(贈呈p199)
・口語訳p169
・新共同訳p201 (贈呈p201、英対p307)
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では、司会者お読み下さい。
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【 聖書箇所のテキスト 】
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになり
ます。
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
16:25 これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
16:27 それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
16:28 わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」
16:29 弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。
16:30 いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」
16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
16:32 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったので
す。」
ヨハネの福音書16章23-33節
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では、主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
あなたがたはわたしの名によって求めるのです。
ヨハネの福音書16章26節
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はい。ありがとうございます。
では、今日はこのところから、
「求めなさい。そうすれば受けるのです。」
と、題しまして、御言葉をともに開いてまいりたいと思います。

さて、まず、今お読みいただいた箇所の冒頭、この御言葉から見て参りましょう。
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23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになりま
す。
24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
ヨハネの福音書16章23-24節
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この箇所は、求めれば受けるという、信仰の基本の一つがはっきりと書かれています。

では、祈って与えられる。それは何のためでしょうか?
神様の栄光の為、そいういう風にも考えられます。
それは、素晴らしいことです。
でも、ここでは、こう書いてあります。

「それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」
喜びが満ち満ちたものとなる。

この箇所を見るとき、主が祈りに答えて下さる一つの理由に、わたしたちが喜ぶためということがあるとわかります。
自分のために祈るなんて神様に対して失礼だとかおっしゃるかたもおられます。

しかし、この箇所を見るとき、神様は、あなたを喜ばせるために、祈りに答えてくださるのだと言うことがわかります。
神様の栄光の為、伝道のため、そういう理由でなくても、子どもが欲しがるものを親が与えるようにして、あなたの求めるものを主が与えてくださる。
そして、そのとき、あなたが喜ぶのを見て主は喜ばれるのです。

わたしたちは、わたしたちの一般認識の中や、感覚の中から、神様に対するあやまった認識を追い出さなければなりません。
それは、大変重要な事です。

人々はよく、教会は道徳を教えるところだとか、愛を教えるところだとか勘違いをしてしまいます。
教会という言葉、教えるということからそういうふうになるのかもしれません。
もちろん、聖書は高い水準の道徳が書かれており、一人子イエス様さえお与えになった神様の究極の愛を示しています。
しかし、教会は、道徳を教えるところではありません。

もちろん教会において、神様の戒めを教えることは大切です。
しかし、なにより大切なのは、神様との関係です。

そういう意味で、教会は神様とわたしたちの関係を正す所だといえるかもしれません。
わたしたちは、共に集まり、神様に礼拝を捧げます。
そこにおいて、わたしたちは、わたしたち全体と、神様との関係、また、わたしたち一人ひとりと神様との関係を正し、整えているのです。

祈ったら与えられる。

皆さん。この言葉を聞いて本当にそうだと思いますか?

ときおり、十分の一の献金のお話をすることがあります。
これは、聖書にこう書いてあります。
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8 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によ
ってである。
9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。
10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあ
なたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。マラキ3章10節
マラキ書3章8-10節
こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。
レビ記27章30節
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十分の一をささげる。それは、これほど明確にさだめられた戒めです。
わたしたちは、全ての収穫の十分の一を、主にお返しするのです。
それは主のものなのです。

ところが、そのようなお話をすると、ときどき、それは、無理ですとのお答えが帰ってきます。
なぜなら、そのようなお金がないからだとおっしゃるのです。

しかし、一方で、祈ったら与えられると信じますか?
との問いには漫然と信じますとお答えになります。そして、祈っているとも言われるのです。

もし、祈って与えられるのなら、そのことを信じているのなら、わたしたちは、信仰をもって捧げることが出来るはずです。
ところが、それが出来ないのは、信じていないからです。
そしてそれゆえに、じつは祈っていません。
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2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないから
です。
3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
ヤコブの手紙4章2-3節
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人は、ほしがっても手に入らないと、人殺しまでするのだと、聖書に書かれています。

ところで、細かなことですが、ここで注目しておいて欲しいのが、この「自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うから」というところです。
これを読んで、そうだ自分のために祈ることはいけないのだと考えるならおおきな間違いです。
なぜなら、その前の箇所で、欲しがっても、うらやんでも、これは、個人の要求です。そして、それについて、
「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」
と書いてあります。
個人的な事柄も、私達は祈ってよいのです。

また、ここで悪い動機について、はっきりと「自分の快楽のために使おうとして」
と、書いてあります。
自分の快楽のため。
そのときの快楽のために私たちが求めるものには、私たちの人生を破壊するものもあります。
時に健康をそこなうお酒やタバコ。もっと極端なものとして、中毒をおこすような薬物は、人生を破壊してしまいます。
神様は、あなた以上に、あなたのことをご存知で、あなたがあなたを愛する以上にあなたのことを愛しておられ、あなたがあなたを大切にする以上にあなたを大切にされます。
ですから、例えば危険な薬物を求めても、主はお与えにならないでしょう。

イエス様は言われました。
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7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
マタイの福音書7章7-10節
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求めるものに主はお与えになります。
主は、あなたにとって良いものがなにかをご存知で、あなたにとって良いものを与えてくださるのです。

そして、こう書いてあります。
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21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、
海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
マタイの福音書21章21-22節

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
マルコの福音書11章24節
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この箇所に何でもとあります。
主は、あなたのために、なんでも与えてくださいます。
この意味を、変えてしまおうとすることが不信仰です。
そして、信仰とは、ここに書かれた御言葉を、アーメンとそのままに自分のものとしていくことです。

求めるものは受ける。
このことを、あなたは信じますか?
祈るなら与えられる。
このことを、あなたは信じますか?

これは、信じるものの特権です。
そして、多くの方は、非常に簡単な方法、簡単な言葉ででこの特権を放棄しておられます。
それは、祈ってもねえとか、祈ってもどうにもならない、という言葉です。

あなたは、信じて祈っておられますか?
一度声を出して、そのことを言ってみただけですか?
神様がお答えになると信じ、信仰をもって主の前に出る。

祈りは、神様から何かもらう自動販売機に入れるお金ではありません。
しかし、神様は、必ず祈りに答えてくださいます。
そして、この方は天地全てを見ておられ、全てにおいて最善のことをあなたになして下さるのです。

自動販売機は、人格がありません。だから、お金を入れてボタンをおせば、金額さえあえば、希望の品物が出てきます。
でてこなかったら故障か売り切れです。

しかし、神様は、人格を持っておられます。
ですから、神様は人間にとって一番良いものを、一番喜ばしい時に与えてくださるのです。
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神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道者の書3章11節
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わたしたちにわからなくても神様は良いことをしてくださいます。
また、あなたの失敗も、神様は益と変えてくださるです。
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神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙8章28節
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ですから、わたしたちは、安心して、この神様にゆだねるのです。
それゆえに祈るのです。

ここにフランクリングラハム大会の祈りのポスターがあります。
一に祈り、二に祈り、三に祈りとかいてあります。
それは、彼の父であるビリーグラハム師の言葉ですが、わたし達が、2や3で祈ることの困難さを教える言葉でもあります。
教会の中でも、最初に祈ってはじめても、そのあと問題の解決は自分で考えようとしてしまいます。
神様は、そこに答えをもって祈るのを待っておられます。

わたしたちは、主に期待して、時には答えを見るまで祈り続ける必要があります。

また、このことを、最初に、最後にそして、間でも祈ると言う意味に捉えることも出来ます。
教会は、集まったとき、はじめに祈りましょう。といいます。
そして、最後に祈ります。
ところが、その途中、何かの必要が話題になったときすぐに祈ろうとするでしょうか?
何か作戦を考えようとしないでしょうか?それは、個人にもいえることです。

一に祈り、2に祈り、3に祈る。
そのとき神様は、ご自身の手によって素晴らしいことをなしてくださいます。
お祈りしましょう。

<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。 
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・フランクリングラハム大会の為に。


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シティーチャーチメッセージ20100606 求めなさい。そうすれば受けるのです。
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