礼拝でのお話
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ワーシップ
メッセージ
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シティーチャーチ
メッセージ20100530
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わたしは光として世に来ました
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>
皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主イエス様は、世の光、救い主です。
この方を覚えて御言葉を聞いて参りましょう。
まずは、今日も、いつものように、聖書の通読箇所から見て参りましょう。
旧約聖書が列王記第一から第二
新約聖書がヨハネの福音書です。
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5月30日(日)[ ]T列王20-21 /[ ]ヨハ12:1-19
5月31日(月)[ ]T列王22 /[ ]ヨハ12:20-36
6月1日(火)[ ]U列王1-2 /[ ]ヨハ12:37-50
6月2日(水)[ ]U列王3-4 /[ ]ヨハ13:1-20
6月3日(木)[ ]U列王5-6 /[ ]ヨハ13:21-38
6月4日(金)[ ]U列王7-8 /[ ]ヨハ14:1-21
6月5日(土)[ ]U列王9-10 /[ ]ヨハ14:22-31
6月6日(日)[ ]U列王11-13 /[ ]ヨハ15
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この列王記は、ダビデからソロモンに王位が継承される所からはじまりました。
この最後のところで、イスラエルの王アハブとユダ王ヨシャパテの連合軍が、アラムと戦い大打撃を受けます。
そして、イスラエルの王アハブは死んでしまいます。
この列王記の最後のほうに、預言者エリヤが登場します。
ところで、この預言ということの意味は、占いや、これからのことを言い当てるというような意味とは違います。
聖書の預言は、予め言うとう預言ではなく、預かった言葉という意味です。
神様から預かった言葉を語る。それが、預言者のつとめです。
そして、いま、イエス様を信じるものは、広い意味で、みな預言者です。
この神様の言葉、福音の言葉を、神様から預かり、宣教するという使命が与えられているからです。
新約聖書はヨハネの福音書。
こちらは、お話の中で見て参りましょう。
では、そのヨハネの福音書の中から、今日は12章を開きましょう。
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【 聖書箇所 】ヨハネの福音書12章37-50節
・新改訳Up188(贈呈p168、英対p309)
・新改訳Vp206、英対p230(贈呈p191)
・口語訳p162
・新共同訳p193 (贈呈p193、英対p296)
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では、司会者お願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
12:37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。
12:44 また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。
12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。
12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
12:47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
12:48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
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ありがとうございます。
では、主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。
ヨハネの福音書12章44節
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では、この所から、
「わたしは光として世に来ました」
と題しまして、御言葉を共に見て参りましょう。
イエス様は、世の光としてこられた。
このことは、福音書に何度も出てきますが、
ヨハネの福音書では、1、3、8、9、12の5つの章にこの事が書かれています。
中で、このヨハネの福音書の最初を見てみましょう。
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1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネの福音書1章1-5節
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イエス様は、神の言葉です。そして、この方は、世の光としてこられたかたです。
このところで、はじめにこの方が神と共におられたというそのことをよく見ておいてください。
また、この方が全てを造られ、この方によらないものはないと書いてあります。
この方には、いのちがあり、それは、光であった。そして、闇はこれに打ち勝たなかった。
イエス様は、光としてこられ、闇に打ち勝たれました。
さて、このヨハネの福音書の最初と創世記の最初は、非常に関連の深いところです。
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1 初めに、神が天と地を創造した。
2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。
創世記1章1-4節
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ヨハネの福音書では、神の言葉であるかたが、全てを創造されたと書いてあります。
そして、ここで、神の言葉によって、光が創造されます。
神様の創造された最初の光として、わたしたちがイメージするのは太陽の光でしょうか?
しかし、この光、これは、太陽をさしているのではありません。
火によって生じる光、雷のように、電気によって生じる光、エネルギーがその存在を表すものとしての光。
その究極は、神様ご自身の光です。
黙示録を見るとこう書いてあります。
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22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
黙示録21章22-25節
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これは、新しいエルサレムの様子です。
そこには太陽も月もいらない。
神ご自身の栄光が、都を照らし、子羊があかりだと書いてあります。
人々は、神ご自身の栄光の輝きの中をあゆむのです。
そして、そこには、夜がありません。
人々は、いつも光の中をあゆむのです。
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もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
黙示録22章5節
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ともしびの光も、太陽の光もいりません。
神ご自身がいつもわたしたちを照らされるのです。
さて、今回の箇所にもどりますが、こうかいてありました。
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46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
ヨハネの福音書12章46-48節
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主は、世の光として、こられました。
そして、それは、だれもやみのなかに留まらないためだと主は、言われます。
それでは、このやみとは何か、この箇所では、それは、罪をさしています。
闇の中、罪の中にとどまらないために、イエス様は、世の光として、来てくださいました。
そして、イエス様は裁くために来たのではないといわれるのです。
皆さん。光は、暗闇を照らします。
西牧野に住んでいたとき、古い家でしたので、虫がたくさんいました。
夜中に台所で電気をつけると、あわてて物陰に隠れる姿を目にします。
それらのものは、光の中には出てきません。
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20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
ヨハネの福音書3章20-21節
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光が照らされると、隠れていた悪いものが見えます。
そして、あるものは、隠れようとして、物陰に向けて走ります。
しかし、わたしたちにとって、大切なのは、かくれることではなく、主の前に出ることです。
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46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
ヨハネの福音書12章46-48節
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なぜなら、イエス様は、光で照らして、悪いところを見つけて裁くためにこられたのではありません。
この箇所にかいてあることに驚きませんか?
わたしの言うことを聞いて、それを守らなくても、わたしはその人を裁きませんと書いてあるのです。
そんな馬鹿なと思われるかも知れませんが、確かにイエス様の言われた言葉です。
主は、わたしたちを裁くためではなく、救うためにこられた。
だからこそ、わたしたちにとって問題になるのは、この方を拒むことです。
クリスチャン同士の中で、時に、そんなことをしてると裁かれて地獄にいきますよなどという言葉を聴くことがあります。
しかし、それは、大変な間違いです。
主は、信じるものに対し、だれも裁かないと言われるからです。
確かに、光がともされると、悪いものが見えてきます。
太陽のつよい光がさしこむと、空中を舞うほこりさえはっきりと見えるように、ひかりはわたしたちの悪いところをあきらかにします。
しかし、それは裁くためではないとイエス様はいわれるのです。
聖書を読むと、わたしたちは、自分の悪さ、たらなさ、弱さを知ります。
そうして、ある方は落ち込むと言われます。
読む気をなくしたり、祈る気をなくす。あるいは、教会に行きたくなくなる。
しかし、主は裁くためにそのことをされるのではありません。
聖書を読むと、神の言葉はわたしたちを照らします。
そして、その光によって私達は、自分の罪をあきらかにされます。
それは、裁かれるためではありません。
赦されるため、救いが完成するためです。
コリント人への手紙にも、こうかいてあります。
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31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
コリント人への手紙第一11章31-32節
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わたしたちが聖書を読むなら、聖書の言葉は、わたしたちの心の中を照らします。
そのとき、その罪を認め、そのことを主の前に持ち出して、赦しと聖めをうければいいのです。
また、御言葉は、その歩みを照らします。
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あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
詩篇119篇105節
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光によって、時には、いやなものが照らしだされるかも知れません。
しかし、そこで、光を消して、もういちどそれを闇の中に隠そうとしてはいけません。
あなたの暗闇隠れたものが見えるからといって、それが見えなくなるために、聖書を読むのをやめてはならないのです。
その光はあなたの中を照らします。
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すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
ヨハネの福音書1章9節
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そうです。このイエス様の光で、私達は、しっかりと照らされなければならないのです。
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私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
コリント人への手紙第二 3章18節
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主が、父なる神様の栄光を表されたように、私達は、この主の栄光をあらわすのです。
みなさん。この間、数年に一度と言う天体ショーがありました。
金星と月がまじかに見え、絵に描いたような光景でした。
さて皆さん。わたしたちが夜空を見上げて、一番光っているのはなにですか?それは月です。
また、次に光っているのはなにですか?それは金星です。
そして、そのほかの星が光っています。それらは、太陽と同じに、それぞれ、光を出しています。
実は、太陽以上に明るい星もあります。
しかし、わたしたちの目に見えるところにおいては、一番光っているのは月、そして、金星です。
どちらも、ただ、太陽の光を反射させているに過ぎません。
自分では光っていないのです。
また、月は、私たちの目にする天体の中では一番小さいのです。
この地上において、その才能、その努力で光っておられるかたがおられます。
しかし、あなたの才能がどうであっても、あなたは、イエス様の光を反射させてなによりも光ることが出来るのです。
そして、その光はまた、わたしたちを明らかにし、光に変えます。
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13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
エペソ人への手紙5章13-14節
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光のもとで闇から光にかわるのです。
イエス様の光は、あなたの中の闇を光に変える光です。
ですから、私達は、イエス様の光に照らされましょう。
聖書を読み祈り、イエス様の光の中をあゆませていただきましょう。
フランクリン・グラハム大会の為に、先日、藤野先生と祈りの時をもちました。
そのとき、藤野先生から改めて祈ることの大切さを教わりました。
それは、フランクリン・グラハムの父であるビリー・グラハム師の言葉である。
「1に祈り2に祈り3に祈り」という言葉にも通じます。
私達は、教会ですから、一番目には祈ります。
しかし、第二、第三に祈っているでしょうか。
ただただ、神様の御力により頼み祈る。
そのようにならせていただきましょう。
お祈りしましょう。
<祈り>
[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・フランクリングラハム大会の為に。
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シティーチャーチメッセージ20100530 わたしは光として世に来ました
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