礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20100117
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あるものは百倍
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>

さて、皆さん。
本日は、阪神・淡路大震災から15年目のその日です。
6434人の命が奪われた大変な災害であり、
私たち関西に住むものには、非常に衝撃を受けた体験でした。
ご家族や、ご親戚、ご友人を無くされた方もおられるかも知れません。

また、日本の高い技術であった、新幹線。高速道路。ビル。
それらが無残に打ち壊された地震でもありました。

建物も道路も、元通り、いやそれ以上に復興したかもしれませんが、
人々の負った心の傷はどれほど癒えたでしょうか。

その直後にオーム真理教によるテロがありました。
そして、神戸で起こった殺人事件。それにつながる様々なそれまでになかった犯罪。
それらは、人々の心に地震が与えた大きなインパクト、不安、傷の結果ではないかと思えなくもありません。

今一度、皆さん。
この地震の復興を覚えて祈りましょう。
人々の心に本当の平安が与えられるように。
そのことが、イエス様との出会いにつながるように。
そのために、教会が用いられるように。
お祈りしましょう。

<いのり>

では、いつものように聖書の通読箇所から見ていきましょう。
聖書の通読箇所は、
旧約聖書が創世記から出エジプト記
そして、新約聖書はマタイの福音書です。

創世記の最後は、ヨセフのお話になります。
このヨセフと、兄弟との和解。
それは、非常に美しい物語です。
また、つづいて、出エジプトへと入ります。
是非、皆さんお読み下さい。
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1月17日(日)[ ]創39-40 /[ ]マタ12:1-28
1月18日(月)[ ]創41-42 /[ ]マタ12:29-50
1月19日(火)[ ]創43-44 /[ ]マタ13:1-30
1月20日(水)[ ]創45-46 /[ ]マタ13:31-58
1月21日(木)[ ]創47-48 /[ ]マタ14:1-21
1月22日(金)[ ]創49-50 /[ ]マタ14:22-36
1月23日(土)[ ]出エ1-3 /[ ]マタ15:1-20
1月24日(日)[ ]出エ4-5 /[ ]マタ15:21-39
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マタイの福音書は、イエス様のなさった様々なみわざと様々な教えが続きます。

是非皆さん。聖書をお読み下さい。

では、このマタイの福音書から、今回は21章です。
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【 聖書箇所 】マタイの福音書13章1-9節 
・新改訳Up22(贈呈p20英対p36)
・新改訳Vp24英対p28(贈呈p24)・口語訳p20
・新共同訳p24 (贈呈p24英対p35)
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では、司会者お読み下さい。

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【 聖書箇所のテキスト 】
マタイの福音書13章1-30節
13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」
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では、主題聖句をいいましょう。
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【 主題聖句 】
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
マタイの福音書 13章8節
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では、このところから、
「あるものは百倍」
と題しまして、御言葉を見てまいりましょう。

今回のタイトルはあるものは百倍。
神の祝福ということが今回のテーマです。
ところで、先ほどもお祈りしましたが、今日は、阪神淡路大震災の15年目です。

聖書の中に、大きな災害の中でなにもかも失い、それでも主を信じ、祝福を受け取ったお話が出てきます。

ヨブ記です。

すこし、今回の聖書箇所に入る前に、ヨブ記を見てみたいと思います。
まず、ヨブはどんな人か。
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1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。
1:2 彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。
1:3 彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。
1:4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。
1:5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯
し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。
ヨブ記1章1-5節
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ここに神様を信じるヨブの姿があります。
そこで、主はヨブについてこういわれます。
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1:6 ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。
1:7 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
1:8 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
ヨブ記1章6-8節
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ところが、サタン。すなわち悪魔は、このヨブを苦しめようとします。

その様子がこれです。
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1:13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
1:14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
1:15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするので
す。」
1:18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
1:19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」
ヨブ記1章13-19節
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ヨブは全てを失いました。
さあ、この知らせを聞いたら、あなたならどうしますか。

ヨブはこうしました。
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1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
ヨブ記1章13-22節
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このヨブの告白が、賛美となります。
主はあたえて主はとられる。主のみなはほむべきかな。
なんと激しく、なんと、力強い信仰でしょうか。

しかし、ヨブの苦難はこれで終わりません。
サタンはまたやってきます。
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2:7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
2:8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
2:10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すよ
うなことを口にしなかった。
ヨブ記2章7-10節
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ヨブは決して神に対して愚痴をいいませんでした。
これは、非常に困難なことです。
しかし、同時にこれは、私たちが神様から祝福を受け取るための一つの大きな鍵です。

彼は、黙って灰の中に座ったのです。

詩篇にはこういう詩があります。
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私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
詩篇62篇1節
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だまって神様を待ち望む。

この苦難を通して、ヨブは本当に神様にお会いしたのです。
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42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。
ヨブ記42章5-6節
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ここで、ヨブはいいます。
神様のうわさを聞いていた。
しかし、今、この目であなたを見ました。

ヨブは神様を真剣に信じていました。
しかし、神様がどんな方か知らずにいたのです。

そして、ヨブは悔い改めました。
ヨブは、自分の小ささを知って、神様の前にへりくだり、悔い改めたのです。
自分の立派さで神様の前に立とうとしていたその間違いを悟らされ、悔い改めたのです。

神様はどんな方ですか?
神様などいないと言う方もおられるかも知れません。
しかし、神様がいると言われる方。
神様はどんなかたですか?
全能なる方。創造主。力ある方。
しかし、最も知らなければならないのは、これです。
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私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
ヨハネの手紙第一4章16節
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神様は愛です。

その愛は、御子さえ与えてくださった愛です。
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神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書3章16節
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詩篇にはこう歌われます。
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主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。
詩篇116篇5節
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そして、この神様は、私たちに良いことをしてくださる神様です。
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神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙8章28節
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しかし、このことが現実のこととなるために必要なのは信仰です。
だからイエス様は言われます。
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それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
マタイの福音書8章13節
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信じたとおりに。告白したとおりになります。

だから、あなたは決して、最悪だとか 終わりだといってはなりません。
それは、あなたを助けてくださる神様から目を離した結果です。
だから、あなたは目を主に向けましょう。
もし、主に目を向けているといいながら、それでも もうだめだと言われるなら、それは、あなたが目を向けている主を信じていないということです。

神には出来ないことはないのです。
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イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
マルコの福音書10章27節
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そして、私たちは、主がよくしてくださることを信じます。

主はよい方だというとき、良い方とは、正しいかた、公正な方、という意味もあります。

しかし、あなたが一番信じていなければならないのは、主はあなたに良くしてくださる方だということです。

それゆえに聖書はいいます。
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16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケ人への手紙第一5章16-18節
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これは、主を信じるものの態度として大切です。
しかし、この態度が生じるのは、あなたが主に信頼した結果なのです。
告白も、その信頼から出てきます。
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約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
ヘブル人への手紙10章23節
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これらを確認して、今回の聖書箇所にもどります。

今回の聖書箇所は、このあと、イエス様ご自身の解説が続きます。
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13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
マタイの福音書13章11-13節
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ここで、持っているものは与えられ豊かになり、とあります。
では、私たちは何を持っているのですか?
それは、信仰です。
信仰は、信仰へと進むのです。
信仰は、さらに豊かな信仰へと進むのです。

イエス様は、ここで、種まきのたとえを説明されます。
ここには、よっつの種が出てきます。
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18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
マタイの福音書13章18-23節
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四種類の種。それは、道端に蒔かれる種、岩地に蒔かれる種、いばらの中に蒔かれる種、良い地に蒔かれる種。

道端に蒔かれる種は、御言葉を聞いても受け入れないものです。
まず、御言葉が語れたとき、私たちは、それを受け入れなければなりません。
たとえば、先ほど、神には出来ないことは無いと聞いたとき、どう応答しますか。
いや。こんな困難な状況はいくら神様でもと言われる方もおられるかも知れません。
神様は良い方だと聞いたとき、どう応答しますか。
神様が良い方なら何故こんなことが起こるのですかと聞きなおされる方もおられるかも知れません。
神様はあなたに良くしてくださると聞いてどう応答しますか。
私みたいな悪いものになど、良くして下さらないでしょうと言われる方もおられるかも知れません。

しかし、神様には出来ないことはありませんときいたら、そうです。
良い方だと聞いて、そのとおりです。
良くして下さると聞いて、そのとおりです。
そう応答し、それを信じて受け入れることから全ては始まるのです。

次に、岩地に蒔かれる。
ですが、それは、御言葉を聞いてすぐに喜んで受け入れる。

たとえば、神様が祝福して下さる。癒して下さる。
すぐに、ああ、神様は良い方だと喜んで受け入れる。
しかし、その意味が何かを考えていません。
キリストの十字架の代価、その犠牲の大きさもよく考えていません。
そして、すぐに、次の日には、その恵みを忘れてしまう。
いや、ひどいときには、大きな集会で、恵まれたといいながら、帰りの電車では、何を受け取ったか忘れてしまう。
どんな、御言葉を受け取ったか忘れてしまう。

皆さん。私たちは、神様の御言葉、神様の約束をしっかりと受け取らなければなりません。

そして、いばらの中の種。
それは、受け取った御言葉に対して、妨げてくる、世の惑わしや誘惑です。
しかし、それは、単に環境の問題ではありません。
あなたがどこに目を向けるのかと言う問題です。

あなたが、信仰をもって主に目を向けるのか、それとも、世の中に目を向けるのか。
この世には、良いものに見えて、あなたを主から遠ざける巧妙なサタンの誘惑がたくさんあります。

わたしたちは、どこまでも主に目をむけましょう。

どうでもいい話ですが、パソコンで、しゅに と入力しようとすると、しゅみ と入力されてしまうことがあるんです。
しかし、 趣味 ではなく 主に 目を向けましょう。

そして、最後に、良い地に蒔かれる種。
それは、御言葉を聞いて悟り、実を結びます。
そして、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶのです。
それは、それぞれの信仰によります。
しかし、主は豊かに恵みを与えてくださるのです。

百倍というと創世記にこう書いてあります。
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12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。
13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
創世記26章12-13節
++++++++++
これは、イサクです。
イサクはどういう人ですか。
従順に自分自身を捧げつくした人です。

アブラハムが、神に捧げたのがイサクです。
しかし、そのときイサクは、小さな赤ん坊ではありません。
十分成長したわかものなのです。
老年の父などはじきとばして逃げることも出来たでしょう。
しかし、彼は、神の前に自分を捧げたのです。

アブラハム、そして、イサクがそれを決意したとき、神はアブラハムを祝福されました。

与え尽くす。
それは、私たちの感覚では、ありえないことです。
命あってだと言います。
しかし、イサクは命を捧げたのです。
そこに神様が働かれます。
そして、イサクの命は守られ、また、祝福を受けたのです。

ですから、私たちは、自分の考えで神様をはからないようにしなければなりません。
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キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
テモテへの手紙第一2章6節
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ご自身をも与えてくださった方が、私たちの主だからです。

ここに私たちの基準があります。

私たちは、捧げること、与えることに対して、気をつけなければなりません。
今のお話、捧げることを律法にするなら、わたしたちは、神様から奪われてしまうように感じます。

しかし、そうではなく、喜んで捧げるのです。

結局しなければならないからでなく。
喜んで捧げるのです。
十分の一も同じです。

無理だと考えるのは、自分のはかりです。
しかし、神様のはかりに載せましょう。
そして、喜んでささげましょう。

そうするなら、主は約束された、百倍。
あふれるばかりの恵みをそそいでくださいます。
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十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあな
たがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
マラキ書3章10節
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そのような祝福の中を共に歩ませて頂きましょう。


<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。 
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・フランクリングラハム大会の為に。


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シティーチャーチメッセージ20100117 あるものは百倍
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