礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20091227  
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いのちの書
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、力ある方全能なる方、王の王主の主なる方です。
この方を覚えて、共に御言葉を聞いてまいりましょう。

本日で、今年の礼拝も最後です。
主が、この一年、私たち一人一人を守り導いて下さった事を感謝します。
主は私たちを愛して下さっておられます。
この主の愛に留まり新しい年も共に歩ませていただきましょう。
そのために、私たちにとって、主ご自身である御言葉に触れること、
その御言葉のはじめから終わりまでを読むことは大切な事です。
皆さん共に聖書を通読しましょう。

来年のカレンダーの御言葉として、ヘブル人への手紙12章2節を選びました。
「イエスから目を離さないでいなさい。」

私たちは、まず、この基本に戻り、しっかりと聖書に根ざした信仰を築いていきたいと思います。
それは、私たちが、本当の意味でリバイバルに備えるためでもあります。
なぜなら、聖霊様の圧倒的な働きが起こったとき、聖書にしっかりと根ざしていない信仰は、
簡単にふっとんでしまうかも知れないからです。

また、しっかりと御言葉によって成長したクリスチャンが真の証し人となることが出来ます。

一年の聖書通読もようやく終わりです。
ユダヤ人は、トーラーを一年で読むそうです。

トーラーはこのような巻物で、文字を手でさわってはいけません。
それで、これを巻きながら、棒で場所をしめしながら読むのだそうです。

その最後の日に、最後のページを読んだ後、すぐに全部巻き戻すそうです。
それは、律法の朗読が、永遠に続くことを意味するそうですが、私たちの聖書の通読も、そのように、毎日毎日、毎年毎年続いて参ります。
そして、それは、主とお会いする日まで続くのです。
皆さん。共に聖書を読みましょう。

さて、今週の通読箇所ですが、
旧約聖書が、ゼカリヤ書、マラキと続きます。そして、1月1日から創世記です。

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12月27日(日)[ ]ゼカ6-8 /[ ]黙18
12月28日(月)[ ]ゼカ9-11 /[ ]黙19
12月29日(火)[ ]ゼカ12-14 /[ ]黙20
12月30日(水)[ ]マラキ1-2 /[ ]黙21
12月31日(木)[ ]マラキ3-4 /[ ]黙22
1月1日(金)[ ]創1-3 /[ ]マタ1
1月2日(土)[ ]創4-6 /[ ]マタ2
1月3日(日)[ ]創7-9 /[ ]マタ3
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ゼカリヤ書は、ほかの小預言書と比べると14章あり、比較的長いところです。
そして、そこには、世の終わりに関する預言、キリストに関する預言も出てきます。
特に、11章には、イエス様が銀30枚に値積りされることも預言されています。

マラキは、主が来られることを預言しました。
そして、その前に、預言者エリヤを使わされることも預言しています。
このマラキ書で、主は、私たちに悔い改めを迫っておられます。

新約聖書は黙示録、そして、またマタイの福音書から通読が始まります。
皆さん聖書を読みましょう。

では、黙示録から本日の聖書箇所を開きましょう。
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【 聖書箇所 】 ヨハネの黙示録20章7-15節
・新改訳Up458(贈呈p399英対p763)
・新改訳Vp499英対p553(贈呈p454)・口語訳p406
・新共同訳p477 (贈呈p477英対p702)
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では、司会者お願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
ヨハネの黙示録20章7-15節
20:7 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
20:8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
20:9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、こ
れらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
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では、主題聖句を言いましょう。

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【 主題聖句 】
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。
ヨハネの黙示録20章10節
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今日は、この所から、いのちの書と題しまして、御言葉を開いて参りましょう。

今回の箇所、いよいよ、世の終わりについて、書かれたところです。
最後の戦いが起こり、悪魔は、火と硫黄の中に投げ込まれました。

これが、悪魔の最後、悪魔に従うものの最後です。
死もハデスも、同じ火の池になげこまれます。

悪魔の最後、そして、悪魔に付き従うものの最後がどのようになるのかがここにはっきりと書かれています。
彼らは永遠に苦しむのです。
わたしたちは、はっきりとこの御言葉を心にとめておかなければなりません。

そして、命の書に名の記されたものは、天の御国に入るのです。

さて、そのように、ここに命の書が出てきます。

今回の聖書箇所は聖書の中で特に命の書についてなんども書かれた所です。

この命の書はどんなものなのか、少し見てまいりましょう。
まず、この命の書ですが、ピリピ人への手紙に一回、黙示録に6回登場します。
また、詩篇の中でも、ダビデはこう歌います。
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彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。
詩篇69篇28節
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旧約聖書では、他に、イザヤ書にも登場します。

この命の書について、黙示録の20章12節で、こう書いてあります。
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また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。
また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。
死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
黙示録20章12節
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この箇所を見ると、数々の書が開かれ、人々はそこに書かれた内容によって裁かれました。
しかし、命の書は、別な書物だと書いてあります。

人々は行いによって裁かれました。

それらの書が開かれると、海も、死も、ハデスもその中の死者を出したと書いてあります。
すべての死者が、その前に出されました。

また、命の書に名のないものは、神の都に入ることが出来ませんでした。
その書に名が記されているかいないかで、その死者の行き先がはっきりと決まったのです。
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しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。
黙示録21章27節
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命の書に名のあるものだけが、神の国に入ることが出来るのです。

先ほどの詩篇で、
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彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。
詩篇69篇28節
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と、書いてあります。
つまり、そこに名が書かれるのは正しいものです。

しかし、その正しさは、私たちの考える正しさとは違います。

それは、神の御心を行うかどうかです。
どんなに、この地上で立派にすごしても、神の御心を行っていないなら、その人は命の書に名を記されることはありません。
では、それはなんでしょう。

マタイ、マルコ、ルカの福音書に書かれた一つの出来事があります。
ある一人の人が、エルサレムに向かわれるイエス様の元へ走りよって、永遠のいのちを受けるためにどうしたらいいかと聞きました。
ルカの福音書では、彼は役人だったことが書かれており、マタイの福音書では、彼は青年だった事が書かれています。
役人であり、裕福な一人の青年。
マルコの福音書では彼は、ひざまづいて聞いたとありますが、続きがこう書かれています。
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19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことに
なります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
マルコの福音書10章19-20節
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彼は、悲しみながら去りました。

イエス様が今度は弟子たちに言われます。
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23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
マルコの福音書10章23-27節
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このとき、26節で弟子たちが言ったことを見て下さい。
彼らは驚いたのです。

聖書の中で金持ちというと、死んだ金持ちと乞食だったラザロのお話を思い出します。
それで、金持ちというだけで、悪いものだと考えてしまいます。
しかし、それは間違いです。

この若者は、律法を守り、仕事もしっかりとして、役人としての地位ももつ立派な人だったのです。
しかも、天の御国に入りたくて、必死でイエス様にお尋ねしたのです。
ところが、この人をイエス様は、神の国に入るのが難しいといわれたのです。

弟子たちは、それを聞いて、では誰が救われるのかと驚いたのです。
特にこの若者を見るとき、彼は、この世において、地位も、富も持ち、また、律法も守る立派な人物です。
彼が律法を守っているゆえに、神様が彼を祝福され裕福であったと考えても間違いではないでしょう。
まじめで立派な人物。

そのような人物さえ天国に入れないなら、誰が入れるでしょう。

先日、クリスマスキャロルという映画を見ました。
ディケンズの書いた名作で、このたびディズニーが映画化したものです。

主人公のスクルージは、お金への執着が強く、クリスマスを祝うことすら出来ません。
しかし、そんな彼が、幽霊やクリスマスの精霊からいろいろなものを見せられ、自分の最後を知らされて悔い改め、人々に施しをするようになりました。
人に与える、それはクリスマスの心です。
なぜなら、神が私たちに一人子をおあたえになったからです。
クリスマスにプレゼントをするのはその事を覚える為です。
スクルージはこのクリスマスの心の大切さを知り、クリスマスを喜び、人々に施すようになりました。

さて、悔い改めた金持ちとして、聖書には、ザアカイという金持ちが出てきます。
彼は、財産の半分を施すといいました。
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19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
ルカの福音書19章8-10節
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彼は、財産の全部を施すとは言っていません。
しかし、主は、救いがこの家に来たと言われました。

先ほどの若い裕福な役人には、イエス様は、全部売って施して、イエス様についてくるように言われました。

何が違うのでしょう。

ザアカイは、自分が足らないと知っていました。
もちろん、若い裕福な役人も、そのことを知っていたのでイエス様の元へ来ました。

しかし、彼の不足は、彼が自分で払うことの出来るものではありませんでした。
ザアカイは、イエス様が来られたとき、そのことを知り、自分の不足を満たして下さるイエス様にお会いし、イエス様を信じ受け入れたのです。

イエス様は、失われた人を捜して救うといわれました。
それが出来るのはイエス様です。

ザアカイは、喜んで主を受け入れ、そして、救われたのです。

ザアカイが財産の半分を施したのは、救われる為ではありません。
ザアカイは、救われた喜び、イエス様をお迎えした喜びから施したのです。

裕福な役人の青年はイエス様の前にひれ伏しました。
そして、聞いたのです。どうしたら永遠の命が得れるのか、どうしたら、神の国に入れるのか。

しかし、それは彼には行えませんでした。払えませんでした。
人が払うことの出来る代価によって、人は天国に行くことが出来ないのです。

彼に必要なのは、自分では払えないという事実を知り、主の前にへりくだること、そして、イエス様を信じ受け入れることだったのです。

その答えであるイエス様が目の前におられるのに、彼は、どうしたら、と、それが自分で出来るかのように考えたのです。
自分の持っているものでなんとか出来るかのように、考えてしまったのです。

だから、イエス様は、彼の持っているものを取り除くことが必要だとお考えになったのです。

イエス様は言われました。
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14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
ヨハネの福音書3章14-15節
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イエス様は、信じるものが永遠の命をもつために来て下さったのです。

その代価は、ただ、イエス様が払われるのです。

そしてこう続きます。
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16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
ヨハネの福音書3章16-18節
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私たちが、命の書に名を記されるために必要なこと、それは、主の前にへりくだり、主を信じることです。
ただ、それ以外にありません。

そして、そのことの感謝のゆえに、わたしたちは、主に礼拝をささげ、捧げ物を捧げるのです。
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まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
ヨハネの福音書8章47節
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新しい年も、この主の恵みの中に留まっていることが出来るように。

お祈りしましょう。

<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。 
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・フランクリングラハム大会の為に。


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シティーチャーチメッセージ20091227 いのちの書
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