礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20090125
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心を一つにして祈るなら 
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11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は私たちを愛し、私たちを救い、私たちを天の御国へと導いて下さる方です。
この方を覚えて、御言葉を聞いて参りましょう。

では、いつものように、聖書の通読箇所を見て行きましょう。

旧約聖書は出エジプト記
新約聖書は、マタイの福音書です。

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1月25日(日)[ ]出エ6-8 /[ ]マタ16
1月26日(月)[ ]出エ9-10 /[ ]マタ17
1月27日(火)[ ]出エ11-12 /[ ]マタ18:1-20
1月28日(水)[ ]出エ13-14 /[ ]マタ18:21-35
1月29日(木)[ ]出エ15-16 /[ ]マタ19
1月30日(金)[ ]出エ17-19 /[ ]マタ20:1-16
1月31日(土)[ ]出エ20-21 /[ ]マタ20:17-34
2月1日(日)[ ]出エ22-24 /[ ]マタ21:1-22
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出エジプト記は5章から、エジプトの王、パロとの対決が始まります。
また、マタイの福音書は前回同様イエス様の教えが続き、21章で、いよいよエルサレムへ入っていかれます。

皆さん聖書を読みましょう。
意味がわからないままでもかまいません。
とにかく、聖書を読みましょう。
御言葉は、必ずあなたの霊を成長させます。

本日の聖書箇所を開きましょう。
本日の聖書箇所は、マタイの福音書18章です。
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【 聖書箇所 】マタイの福音書18章10-20節
・新改訳Up32(贈呈p30英対p54)
・新改訳Vp36(贈呈p34)・口語訳p29
・新共同訳p35 (贈呈p35英対p52)
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司会者朗読をお願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからで
す。
18:11 〔人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。〕
18:12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
18:14 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
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では、主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
マタイの福音書18章20節
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では、この所から、
心を一つにして祈るなら
と題しまして、御言葉を見て参りましょう。

今回の箇所は、イエス様が語られた譬えです。
非常に有名な譬えで、良く絵にもなっています。

崖でイエス様が小羊を助けておられる絵を見られたことがあるかも知れません。
それは、この御言葉をテーマとしています。

さて、聖書箇所に入る前に、少し前を見ますと、こう書いてあります。
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1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
マタイの福音書18章1-5節
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今回の箇所は、この御言葉の続きです。
これは、イエス様と弟子たちとの一つのやりとりです。
それは、天の御国でだれが一番偉いかという弟子たちの質問でした。

ここで、彼らは、頭の中に、ペテロだろうか、ヨハネだろうか、ヤコブだろうかと、いろいろ考えていたと思います。
天の御国ではというのだから、昔の預言者と自分を比較したかもしれません。
しかし、イエス様は、そこに一人の小さい子どもを立たせ、子どものようでなければと、言われました。

そして、子どものように自分を低くする者が偉いのだと言われたのです。

自分を低くするとはどういうことでしょう。
こどもは、それほどに清らかでしょうか?

お母さん方の中には、自分の子どもは騒ぎ出すと手がつけられない悪魔のようだと言われる方がおられます。
まあ、その告白にも問題があると思うのですが、こどもが、正しい存在だとは言えないでしょう。
ここで、こどもが良いとイエス様が言われたのではありません。

子どもは、自分を低くするものだといわれたのです。

それは、どういうことでしょう。
一つには、自分で自分を飾り立てしない、ということが言えると思います。
ガラテヤ人への手紙にこう書いてあります。
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3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
4 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
ガラテヤ人への手紙6章3-4節
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これを見ると、自分を立派でないのに立派に見せようとする。
とあります。

もっとも幼い存在として、あかんぼうはどうでしょう。
自分を立派に見せようとするでしょうか?
そうではありません。

あかんぼうは、自分では自分の裸をかくすことすら出来ません。
おなかがすいても、自分でミルクを入れることも出来ません。
だからどうしますか?

「ちょっとおかあさん。おなかがすいたから、早くミルクを下さい。」なんていいません。
オギャーとなくんです。

泣き叫んで、助けを求めます。
自分では何も出来ないからです。

自分では何も出来ないというと、この御言葉を思い出します。
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わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネの福音書15章5節
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私たちは、キリストを離れては何も出来ない。
イエス様はそう私たちに言われます。
逆に、私たちは、キリストにあって、豊かな実を結ぶ存在です。

しかし、わたしたちは、先ほどのガラテヤ人への手紙の御言葉
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3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
4 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
ガラテヤ人への手紙6章3-4節
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のように、自分を立派に見せかけようとすることがあります。

そのように、自分で自分を立派に見せようとする、そして、上に立とうとする。
弟子たちの質問は、そのような彼らの心から出ていました。
それで、イエス様は、このようにお答えになったのです。

そして、さらに幼子のような信仰というと、御言葉をそのまま受け入れるということがあります。
幼い子どもは、ウルトラマンや、アンパンマンが本当だと信じます。
しかし、大人になるにつれ、それが架空の存在だとわかるようになります。
そのように間違いを知る力は大切です。
そうでなければだまされてしまいます。
しかし、本当の神様でさえ、目に見えないために、疑うようになります。
また、神様の言葉を信じることが出来ません。
イエス様は言われました。
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良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
マルコの福音書4章20節
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実を結ぶために必要なのは、みことばを聞いて受け入れることです。

そして、イエス様はこう言われます。
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ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そ
うです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
ルカの福音書10章21節
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真理は、幼子たちに表されました。
それは、彼らが聞いて信じたからです。
しかし、賢い者たちは、自分の知識や知恵が邪魔をして、信じることが出来なかったのです。

彼らは聞いて信じました。
しかし、信じないものはどうなりましたか?
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信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
マルコの福音書16章16節
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信じないものは罪に定められる。
もう一箇所確認しましょう。
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なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマ人への手紙10章9節
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私たちは、ただ、このことによって救われます。
それ以外の何かによるのではありません。

そして、その救いがなければ、私たちは皆、むなしく滅び去っていくようなものです。
富むものについてさえ、ヤコブの手紙にはこう書いてあります。
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富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。
ヤコブの手紙1章10節
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私たちは、キリストの贖いなしには、過ぎ去って滅んでしまうむなしいものです。
それどころか、この世界すべてが、やがて過ぎ去るのです。
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また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
黙示録21章1節
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私たちは、本当は、誇ることなど出来ない存在です。
アブラハムでさえこう書いてあります。
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もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
ローマ人への手紙4章2節
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アブラハムでさえ、神の前に誇ることは出来ません。

そして、こうも書いてあります。
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あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
ローマ人への手紙11章18節
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私たちを支えて折られるのは、ただ、主イエス様です。

コリント人への手紙も見てみます。
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29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
コリント人への手紙第一1章29-31節
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このようにされたのは、誰をも誇らせないため、全ては主によるのです。

そして、パウロは、これらを踏まえてこう言います。
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しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜
んで私の弱さを誇りましょう。
コリント人への手紙12章9節
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幼子の話にもどりますが、幼子は、自分の強さを誇ることが出来ません。
自分の知識を誇ることも出来ません。
ただ、与えられたものを素直に受け止めていくだけなのです。

主は私たちにさまざまな恵みを注がれます。
しかし、それを自分の物にするかどうかは、そのような、信仰を持って主の恵みを受け止めるかどうかにかかっているのです。

もし、すねた心や、ゆがんだ心、自分の知識でそれを弾き飛ばしてしまうなら、何も得ることが出来なくなります。

だから、主の語られたこと、主が聖書で語っておられる事を、たとえ状況と違っても、アーメンと受け止めて行くことが大切なのです。

また、主は、そのような弱い一人を救うためにきたのだといわれるのです。
それで、こう書いてあります。
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10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
11 〔人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。〕
マタイの福音書18章10-11節
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そして、それに続いて、先ほどの聖書箇所が出てきます。
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12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
13 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
14 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
マタイの福音書18章12-14節
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迷ってしまった一匹の羊を探すためにこられた、それが、イエス様のこられた理由です。

前回の、畑の中の宝の話と似ていませんか?
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天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
マタイの福音書13章44節
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ここで、天の御国という宝を得るために全てを差し出されたのはイエス様です。
なぜなら、私たちには、天の御国を手に入れるための代価などとうてい払えないからです。
イエス様は、畑の全て、つまり、この世界の全ての人の代価として、ご自身を差し出されました。
そして、その中の宝を手にされるのです。
では、その他からとは何ですか?それは、主を信じたあなたです。

イエス様は、私たちを、宝物としてみておられます。
そして、あなたの周りにおられる人たちのことも、宝物としてみておられるのです。

一つ大切なこととして、主の目線で見るという事があります。

あなたにとってあなたがどんな存在でしょう。
愛しておられるでしょうか?大切な存在でしょうか?

あなたにとって、あなたの前にいる人はどんな存在でしょう。
愛することが出来るでしょうか?大切でしょうか?

でも、確かにいえるのは、主は、私たちを高価でたっといと見ておられるということです。
主を信じた方はなおさらです。

その主からの目線で見て、次の御言葉に入ります。
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15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
マタイの福音書18章15-18節
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この御言葉で大切なのは、何のために罪を責めるかと言う事です。
それは、兄弟を得るためです。

ところがだめな場合、二人か三人の証人や、教会へと場所は広がります。
それはなぜですか?
その人が、共に教会の中にいたとしても、
罪がそのままであるなら、悔い改めようとしないなら、その人の魂は、神様から離れているからです。
その人の魂を取り戻すために、祈り、その人に語るのです。

それは、愛のためです。
ですから、罪を犯すものを面白くないからやっつけてしまおうとするのではありません。

つみある人のために祈りましょう。赦しを宣言しましょう。
しかし、それも、人の罪を責める祈りでなく、主がとりなして下さったように、
彼の罪を赦して下さい、彼の罪を赦しますと祈り、
その人の罪の束縛を断ち切るように祈りましょう。

兄弟を得るため、人と人が結びつくため、神と人が結びつくためです。

ですから、地上において、人と人の関係を、人と神の関係をつなぎ、人と罪の関係を断ち切らなければならないのです。

そして、私たちが、この地上で主にある者として、一つになるなら、それは、大変な力となります。
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19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
マタイの福音書18章19-20節
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さて、順番にここまで見てきました。
この御言葉、心を一つにしていのるという御言葉を、いまの所を飛び越えて見ることが出来なかったからです。

心をひとつにして祈るために必要なのは、主の前にへりくだり、愛し合うことだからです。
それなしに、私たちは、一つとなることが出来ません。だれが、偉いかという話になるからです。

イエス様は、誰が偉いかという弟子たちの質問に、結局のところ、誰が偉いかでなく、
互いに愛し合い、一つとなって祈ることが大切だと答えておられるのです。
また、主は、その中におられます。

ですから、ともに、幼子の信仰を持ち、主の愛を受け止め、その愛によって互いに愛し合うのです。

私たちが、そのように一つとなるなら、そこに主は働かれます。
そして、主は祈りを聞いて下さるのです。
それが、主の約束です。

主の恵みの中を歩ませていただきましょう。

<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。

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シティーチャーチメッセージ200925心を一つにして祈るなら  
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