礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20080831
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幾人かでも救うため
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11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主をたたえます。
主は全てのものの作り主、全てのものを愛しておられる方です。
この方を覚えて、御言葉を見ていきましょう。

では、いつものように、今週の通読箇所です。
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8月31日(日)[ ]詩110-115 /[ ]Tコリ7:25-40
9月1日(月)[ ]詩116-118 /[ ]Tコリ8
9月2日(火)[ ]詩119:1-56 /[ ]Tコリ9
9月3日(水)[ ]詩119:57-112 /[ ]Tコリ10:1-13
9月4日(木)[ ]詩119:113-176 /[ ]Tコリ10:14-33
9月5日(金)[ ]詩120-129 /[ ]Tコリ11:1-16
9月6日(土)[ ]詩130-135 /[ ]Tコリ11:17-34
9月7日(日)[ ]詩136-138 /[ ]Tコリ12:1-11
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旧約聖書は詩篇、新約聖書は、コリント人への手紙が続きます。
詩篇の中で、119編は一番長いところです。
それで、3つに分けて読むようにしています。

その箇所は、御言葉をしたいもとめる人の姿が書かれています。
御言葉を求める中での困難、そして、従い切れない自分自身を知る苦しみ。
そのような、中で、主の前にへりくだることを知り、彼は御言葉を求めていきます。

主は、御言葉をしたい求めるものを愛してくださいます。
わたしたちも、御言葉をしたいもとめていきましょう。

コリント人への手紙は、お話の中で見ていきたいと思います。

では、本日の聖書箇所をお読みいただきましょう。
本日の聖書箇所は、コリント人への手紙第一9章です。

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CCM予定2008/08/31 幾人かでも救うため 
【 聖書箇所 】 コリント人への手紙第一9章9-24節
・新改訳Up301(贈呈p264英対p504)
・新改訳Vp329(贈呈p301)・口語訳p265
・新共同訳p310 (贈呈p310英対p470)
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司会者お願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
9:9 モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。
9:10 それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をす
るのは当然だからです。
9:11 もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。
9:12 もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべ
てのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。
9:13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。
9:14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。
9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。
9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。
9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。
9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。
9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にあ
る人々を獲得するためです。
9:21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
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では、続いて、主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
コリント人への手紙第一9章22節
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では、この箇所から、
「幾人かでも救うため」
と題しまして、御言葉を見ていきましょう。

さて、前回言いましたが、コリント人への手紙第一を読む上で、忘れていけないのは、この手紙が、問題のある教会に送られたこと、そして、その教会の人々を、パウロは、聖徒と呼んだということです。
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コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主
であるとともに、そのすべての人々の主です。
コリント人への手紙第一1章2節
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これは、世の中の常識とは違うことです。

なぜなら、聖徒、聖なる人、聖なる者とは、問題の無い人、正しい人、と、考えるからです。
確かに私たちが、私たち自身に目を留めるなら、そういう判断になるでしょう。

しかし、私たちが聖とされたのは、自分の力によるのではありません。
ただ、神様の恵みによります。
そういう意味で、聖書は、私たちが、私たち自身から目を離して、神様に目を向けるようにと語りかけています。

そして、神様が私たちをどのように見ておられるか、そこに判断の基準を置く。
そこで、私たちは、イエス様によって、聖なる者とされている。

私たちは、神様に目を留めていくのです。
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それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
コリント人への手紙第一3章7節
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植物は、毎日水をやったから成長するのではありません。
もちろん、水が無ければ成長も出来ないでしょうけれども。
植物は、その植物そのものが持っている働きによって成長します。
しかし、それは主が作られたものです。

あなたもそうです。
皆さんが、食べたり飲んだりしなかったら、体は成長できないかも知れません。
しかし、自分の体を自分で組み立てることは、出来ないのです。

私たちを成長させてくださるのは、周りの誰かでも、あなた自身でもなく、目には見えませんが、天と地を全てをつくり、全てを治めておられる神様です。

この神様によって、私たちは、生かされているのです。
ですから、キリスト教は、世の中を離れた修行ではありません。
修行によって自分を高めていこうとするのではありません。
神様の作られた世界の中で、神様の恵みと導きの中で成長していくのです。

さて、今回の聖書箇所は、パウロが、自分が使徒であることを弁明するところです。
このところで、パウロは、コリントの人々の中に生じたパウロに対する非難に答えています。
それは、ある人たちが、パウロを非難し、そして、パウロが使徒であることを否定し、そして、パウロの語った福音を否定しようとしたからです。
パウロは言います。
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1 私には自由がないでしょうか。私は使徒ではないのでしょうか。私は私たちの主イエスを見たのではないでしょうか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。
2 たとい私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、主にあって、私が使徒であることの証印です。
コリント人への手紙第一9章1-2節
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パウロは、使徒です。
パウロが使徒であることはどのようにわかるのでしょう。
パウロはいいます。
私は、私たちの主イエスを見たのではないでしょうか?

そうです。パウロは、イエス様にお会いしたのです。

12人の使徒たちは、イエス様にお会いした人たちでした。
彼らは、イエス様にお会いし、イエス様と共に歩み、そして、自分がお会いしたイエス様について証したのです。
証とはなんでしょう。

主を証する。といいます。
逆に、そんなことをしていたら、証にならないという使い方もします。

証とは、証言です。
裁判の席で、わたしは、これを見ました。
わたしは、この人がこうするのを見ました。
わたしは、この人がこういうのを見ましたというのが証言です。

ですから、あかしとは、私たちが私たちをお会いしたイエス様について証言することです。

パウロは、自分がダマスコに行く途中にお会いしたイエス様について、証言しました。

私たちは、それぞれ、イエス様を信じたときから、イエス様との出会いがあるはずです。
イエス様は、私に語ってくださった。
イエス様は、私の病を癒してくださった。
困難なとき、状況はかわらなかったけど、イエス様は平安を与えてくださった。
イエス様は、共にいて平安をあたえてくださる。

これが、証です。
ですから、クリスチャンが、自分で何か立派なことをしようとするのが証ではありません。
そのようなことをすると、自分で自分を裁き苦しめたり、また、互いに裁きあうことになってしまいます。

神様の素晴らしさを、人間的に作り上げることではありません。
私たちは、どこまでも、神様に目をとめて、神様に結びついていかなければならないのです。

さて、この箇所で、パウロは、自分が自由であると言っています。
このとき、パウロは人々から、さまざまなありもしない非難を受けていました。

パウロは、時には自分で働いて収入を得て働きをしていました。
しかし、そのような生活のための働きをやめ、ほかの使徒たちのように、御言葉と祈りに専念するときもありました。
そのようにしているとき、中には、人からお金を取っていると、パウロのことを非難する人がいたようです。

皆さん。私たちが主に仕えるとき、主は私たちを祝福してくださいます。
もちろん、貧しいときもあるかもしれません。

主は言われます。
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わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
ヨハネの福音書16章33節
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世にあっては患難がある。しかし、勇敢であれといわれる主は、こうも言われます。
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16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケ人への手紙5章16-18節
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そして、それは、信仰によります。
その信仰こそ、、、。
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なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
ヨハネの手紙第一5章4節
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ヨハネの言うように、この信仰こそ、世にかつ勝利、そして、それは、喜びや、感謝、祈りとなってあらわれます。

しかし、いつも困難なのではありません。
なぜなら、私たちの主は、哀れみ深く恵み深い方だからです。

そして、パウロは言います。
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私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
ピリピ人への手紙4章12節
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神様は、私たちが、信じて歩むとき、豊かに与えてくださる方です。このことを信じましょう。

ところが、誰かが祝福されているのをみると、時に私たちは面白くないときがあります。
私も、どこかの教会が成長しているのを聞いて、本当なら人が救われたそのことを喜ばないといけないのに、なにか面白くないときがあります。
それは、神様の悲しまれる考えです。
主は言われます。
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喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
ローマ人への手紙12章15節
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互いに愛し合うとは、互いを大切にすること、それは、互いの喜びを喜びとし、悲しみを悲しみとすることです。
人生のさまざまな事柄を共感していくこと、それが、愛の表れです。

しかし、パウロが仕事をせず、御言葉と祈りに専念しているのをみて、そのような姿を、非難するひともいました。
それでパウロはいいます。
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3 私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。
4 いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか。
5 私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。
6 それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのでしょうか。
コリント人への手紙第一9章3節
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ここで、パウロは自分たちが、福音の中で生きるのは権利だと言っています。

しかし、パウロは、それらをおいて歩みました。
そして、全ての人のために、自分を主にささげたのです。
それで、パウロはいいます。
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19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある
人々を獲得するためです。
21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
コリント人への手紙第一9章19-23節
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パウロのしていることは、全て福音のため、なんとかして幾人かを勝ち取るためでした。

しかし、それは、強制されてではありません。
パウロは、誰に対しても自由だといっています。

しかし、多くの人を獲得するために、全ての人の奴隷、つまり、全ての人に仕える人となりました。

また、全ての人と共に歩むものとなりました。

そして、それらは、何とかして幾人かを救うためでした。
パウロの人生は、全てが福音のためでした。

さて、少しお話が変わりますが、教会はどんなところでしょう。
全ての人を主は招かれます。
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すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
マタイの福音書11書28節
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主は、あなたを休ませてくださいます。
しかし、あなたが、ただ、受けるために教会に来ているなら、すこし、間違ってしまいます。
なぜなら、私たちは、共に愛し合い、仕えあい、福音を宣べ伝えるために集められたからです。

ある人たちは、教会は愛のあるところだと、教会で人から愛されることをもとめてやってこられます。
しかし、教会は、主があなたを愛してくださるところです。
そして、主から愛を受けたあなたが、あなたの後に来られた方を、あいさなければならないのです。

そして、あなたが、愛するとき、
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与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからで
す。」
ルカの福音書6章38節
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こういわれる主は、さらに愛をそそいでくださいます。

愛を注ぐものは、主の為に集めるものです。
自分の必要ばかりをいいたてているなら、そのような人から、人は遠ざかってしまいます。

しかし、あなたが愛するなら、人々は、あなたのところに来ます。

あなたが、そのように、集めるものなら、それは、主の味方であり、
主と共にあつめないなら、散らすものだと主は言われます。
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わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。
マタイの福音書12章30節
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それは、本当に、互いに愛し合うこと。
隣人を愛することによって実現します。

私たちは、主と共に、集めるものとなりましょう。
福音の為に歩むものを、主はさらに祝福してくださいます。
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23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
コリント人への手紙第一9章23-24節
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[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。



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シティーチャーチメッセージ20080831幾人かでも救うため
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