礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20080518
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真理による自由
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11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、十字架で勝利を取られ、私達に自由を与えて下さいました。
この方を覚えて、御言葉を聞いてまいりましょう。

いつものように、聖書の通読箇所を見たいと思います。

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5月18日(日)[ ]T列王2 /[ ]ヨハ7:25-53
5月19日(月)[ ]T列王3-4 /[ ]ヨハ8:1-20
5月20日(火)[ ]T列王5-6 /[ ]ヨハ8:21-47
5月21日(水)[ ]T列王7 /[ ]ヨハ8:48-59
5月22日(木)[ ]T列王8 /[ ]ヨハ9:1-23
5月23日(金)[ ]T列王9-10 /[ ]ヨハ9:24-41
5月24日(土)[ ]T列王11 /[ ]ヨハ10:1-21
5月25日(日)[ ]T列王12-13 /[ ]ヨハ10:22-42
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列王記第一の今回の箇所は、ダビデの子ソロモンの治世です。
その時代、神さまは大変な祝福をソロモンにお与えになりました。

ヨハネの福音書は、イエス様の教えと、歩み、中でも、姦淫の女のこと、盲人の癒しなどが続きます。

皆さん、是非聖書を読みましょう。

さて、では、本日の聖書箇所をお読みいただきましょう。
ヨハネの福音書8章です。

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【 聖書箇所 】ヨハネの福音書8章28-38節
・新改訳Up176(贈呈p158英対p291)
・新改訳Vp193(贈呈p180)・口語訳p152
・新共同訳p182 (贈呈p182英対p280)
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では、司会者お願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
ヨハネの福音書8章28-38節
8:28 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話
していることを、知るようになります。
8:29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」
8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
8:38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
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では、続いて、主題聖句を言いましょう。

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【 主題聖句 】
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
ヨハネの福音書8章32節
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では、今日はこのところから

真理による自由
と題しまして、御言葉を見てまいりましょう。

さて、イエス様は、この箇所で、私たち人間がどんな存在であるか、また、罪とは何かを語っておられます。

イエス様は、人々に言われました。
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そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネの福音書8章32節
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真理はあなたがたを自由にする。

まあ、自由が欲しいとか、私たちは自由だという言葉は、教会でなくても良く聞きます。

土曜日の夜のテレビで芸人が叫ぶ自由は、お昼ご飯にうどんを食べるかそばを食べるかといった自由だったりします。
小さな自由を見つけ出してそれを楽しむ、また、笑い飛ばしてしまうその自由は面白いと思います。

でも、自由とはそれだけに終わりません。
自由とは本当に大切な事です。

人が犯罪を犯し、刑務所に入れられてしまうと、その生活にの自由は狭まります。
勝手に外に出ることは出来ません。
好きなものを買う事も出来ません。

病気をしたら自由がなくなります。
ひどい場合ベットから降りる事が出来なくなります。

会社というところはどうでしょう。
勤務時間は、拘束された時間です。その時間は、会社の支持で動かなければなりません。
その時間の自らの自由を会社に差し出す事で、人は、賃金という代価を得る。
しかし、それは、仕事をする本人が、その必要に迫られてにせよ、自由によって決めた事です。

また、世の中には、徴兵というものもあります。
民主国家における徴兵は、その国民の自由を含む権利を守るためであり、そこには法的な強制があるかもしれませんが、
国家という自由を守る組織の為であり、究極的には自らの自由を守る方法であるかも知れません。

しかし、世の中には、様々な形で自由を束縛するものがあります。
特に、2000年前当時、ローマの支配下には沢山の奴隷がいました。
もちろん奴隷は、当時だけではありません。
いまでも、奴隷として使役されている人々が、存在する国はたくさんあります。
とくに当時の奴隷たちは、自由を奪われ、人間としての権利を奪われた存在でした。

イエス様が真理はあなた方を自由にするといわれた時、聞いた人々は何を考えたでしょう。

このことを聞いたユダヤ人たちは言います。
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彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
ヨハネの福音書8章33節
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ユダヤ人たちにとって、自由とは、奴隷でない事でした。
ローマの支配下の多くの奴隷たち。
その人々は、ローマによって征服され、滅ぼされた国々からつれてこられた人たちでした。
そして、その人たちは、自由がありませんでした。

ローマの言葉には、道具には3種類あるというものがあります。
あまり好きな言葉ではありませんが、
自分で動かない道具と自分で動くが言葉を話さない道具、自分で動いて言葉を話す道具だというのです。
つまり、奴隷たちをただの道具と見ているのです。

そのような、ローマの支配下にいて、実際に使役される奴隷を見ながら、ユダヤ人たちは、自分たちは奴隷でないといいました。
しかし、イエス様は言われます。

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イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
ヨハネの福音書8章34節
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イエス様は、罪を行っているものは罪の奴隷だと言われました。

ローマ人の手紙にはこう書いてあります。

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あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至る
のです。
ローマ人への手紙6章16節
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イエス様は、罪の人が罪の奴隷だと言われました。
そして、その罪の奴隷は死に至るのだと書かれています。

パウロは、自分自身の中に、罪の奴隷の姿を見てこう書いています。

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15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
ローマ人への手紙7章
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誰が書いたか教えずにこれを読んでいただいたら、誰か、犯罪を犯して捕らえられている人が書いたものだと感じないでしょうか?
自分はやりたくないのにしてしまったんだという言葉は、時折、犯罪を犯した方の口から聞く言葉です。
しかし、この言葉は、まぎれもなく聖書に治められている、使徒パウロが書いた手紙の一部です。

使徒パウロは、その人生の前半を神の律法を熱心に守る事に費やし、後半を、イエス様の福音を宣べ伝えるために命がけで費やした人です。
その使徒パウロが、このように言うのです。

とくに重要なのはここです。

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20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
ローマ人への手紙7章20-21節
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ここで、パウロは自分の中に悪が宿っているそのことを 原理だといっています。
原理とはなんですか?
例えば、ここで、ペンから手を離すと、そのペンは下に落ちます。
それは、万有引力の法則によります。
どこでやっても誰がやっても同じ結果です。

パウロが言う原理は、これも全ての人に共通の事柄です。
善を行いたくても悪を行う罪が宿っているのです。
それで、パウロはいいます。

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22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
ローマ人への手紙7章22-24節
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パウロは自分が本当に惨めな人間だと告白しています。
そして、パウロは、その中から、どうやって抜け出そうかといいません。
いや、どうやって抜け出そうかとさんざんに手をつくした挙句、パウロは、誰がたすけてくれるのかと言っているのです。
誰も自分でそこから抜け出す事は出来ないのです。

さて、このことから続いて、先ほどのヨハネの福音書を見ます。

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奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
ヨハネの福音書8章35-36節
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ここで、子があなた方を自由にするなら、と書いてあります。
パウロの探していた誰か、それは、神の子であるイエス様です。
あなたを捕らえている罪の縄目を解き、自由にしてくださるのはイエス様しかありません。

でも、その前に、私たちは、まず、私たち自身が、パウロと同じように、罪の中にあるものである事を認めなければなりません。

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罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
ローマ人への手紙6章20節
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多くの人は自分が自由だと思っています。
しかし、その自由は、ただ、罪の奴隷として、罪という神さまに敵対する存在に、したいほうだいに操られているに過ぎないのです。
そして、その究極は、この言葉にあらわされます。

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愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。
詩篇14篇1節
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ここで、神はいない、そして、忌まわしい事をおこなう、それが、罪の奴隷の姿です。
そして、その存在は、腐っています。
人間の体が腐るのはどうなったときですか?
生きているときも、腐ってくる病気があるようですが、一般的には、人間の体が腐るのは、死んだときです。
神はいないと言い、命の根源である方から離れ、死んで、腐ってしまい、そのため、行いの全てが忌まわしいものとなってしまう。

そして、おろかにも、それが罪の奴隷であることすら人は知る事が出来ません。
私たちが、罪の奴隷であり、その解放を必要としていることをまず知らなければなりません。
そして、その罪からの開放の為にイエス様は十字架で死んで下さったのです。
イエス様は、自由な方でした、しかし、ご自分の自由を私達に与え、死をも受け取られたのです。
イエス様は、神の子として天におられた方です。
そのとき、時間にも空間にも束縛されない方でした。
しかし、イエス様は、ひとりの人として来てくださいました。
そして、イエス様はこの地上で歩み、最後、捕らえられ、鞭打たれ、十字架に釘付けにされて死んで下さいました。

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8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
ピリピ人への手紙2章8-9節
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これが、イエス様のなさった勝利でした、その勝利についてこうかいてあります。

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56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
コリント人への手紙第一15章56-57節
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この勝利は、私たちのものとされました、私たちは、この勝利によって、罪の束縛から解放されるのです。
この勝利によって、私たちは、自由にされました。

ですから、ただ、イエス様の十字架の勝利を見上げましょう。
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私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙6章6節
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イエス様は、勝利を取られました。
この勝利は、私たちを罪から解放したのです。
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キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
ガラテヤ人への手紙5章1節
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さて、ここで、しっかりと立ってと書いてあります。
それは、どこに立つのですか?
私たちがイエス様を信じます。
そうすると、そうだ、イエス様によって救われたのだと思います。
しかし、実際に自分の罪の問題とぶつかる時、主にあるものとして、この罪から抜け出さなければと自分でなそうとしてしまうのです。

あなたが、あなたの努力によって抜け出そうとするなら、それは、律法をおこなうことで救いを得ようとしているのと変わりません。

私たちは、そのとき、キリストを見上げるのです。
私たちは、イエス様によって救われた、イエス様によって自由にされたというところに、しっかりと立たなければならないのです。
これは、信仰によります。

そして、この信仰が確かなものとなるために私たちは聖書をよむのです。
それは、救いの方法を得るためではありません。

人々は聖書から真理を知り、それによって、自由を得ようとしました。
しかし、イエス様が言われた、人々を自由にする真理とはなにですか?
それは、イエス様ご自身です。

パウロがいった私たちを罪から救い出してくれる誰かとは、イエス様です。

私たちは、聖書の中で、この方をしり、この方に結びつき、この方にあって歩むのです。

この主を覚えて祈りましょう。

<いのり>


[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。



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