礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20080413
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狭い門からはいりなさい 
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11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、天と地の全てを治めておられる方、
王の王、主の主である方です。
この方を覚えて主の御言葉を聞いてまいりましょう。

さて、今日は、御言葉に入る前に、入学された皆さん、新しく、社会に踏みだされた皆さんの為に、お祈りしたいと思います。
また、それぞれの新しい出発に、右に行くにも、左に行くにも、これが道だといわれる主が共にいて導いてくださいますように。
共に、祝福と守りと導きをお祈りしましょう。

<いのり>

では、いつものように、御言葉を見てまいりましょう。
まず、今週の聖書箇所からです。

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4月13日(日)[ ]士師13-15 /[ ]ルカ12:41-59
4月14日(月)[ ]士師16-17 /[ ]ルカ13:1-21
4月15日(火)[ ]士師18-19 /[ ]ルカ13:22-35
4月16日(水)[ ]士師20-21 /[ ]ルカ14
4月17日(木)[ ]ルツ1-2 /[ ]ルカ15
4月18日(金)[ ]ルツ3-4 /[ ]ルカ16
4月19日(土)[ ]Tサム1-2 /[ ]ルカ17:1-19
4月20日(日)[ ]Tサム3-5 /[ ]ルカ17:20-37
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今週の聖書箇所は、旧約聖書は士師記、そして、ルツ記、サムエル記に入ります。
士師記の最後は、それぞれが、自分勝手に歩んでいたという、その事で終わります。
そして、ルツ記、このルツ記は、そのような時代に、信仰を持って生きた一人の異邦人の女性の記録です。
その信仰には、多く学ばされるところがあります。
是非皆さん、お読み下さい。
二日で終わる短いところです。
そして、主がリーダーを立てられるサムエル記に入ります。
祭司として、そして、預言者として立てられたサムエル、そして、最初の王サウルの時代へと入って参ります。
皆さん聖書を読みましょう。
これらのところは、読み物としても面白く読めるところです。

そして、新約聖書は、ルカの福音書です。
ルカの福音書は、イエス様の教えが様々に語られています。
イエス様は、しるしと不思議を行い、人々を癒し、また、たとえを用いて、人々を教え導かれました。
これらの所を読むと、イエス様の教えが非常にわかりやすく書かれています。

皆さん是非聖書をお読み下さい。

さて、本日の聖書箇所に入りましょう。
本日の聖書箇所は、このルカの福音書です。
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【 聖書箇所 】ルカの福音書13章22-30節
・新改訳Up131(贈呈p118英対p216)
・新改訳Vp143(贈呈p135)・口語訳p112
・新共同訳p135 (贈呈p135英対p209)
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では、司会者お読み下さい。
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【 聖書箇所のテキスト 】
ルカの福音書13章22-30節
13:22 イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。
13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
13:24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
13:25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでし
ょう。
13:26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
13:27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
13:28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
13:29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
13:30 いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」
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ありがとうございます。

では、主題聖句を、まずは、教会学校の皆さんお願いします。

<あんしょう>

では、皆さんで言いましょう。
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【 主題聖句 】
努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
ルカの福音書13章24節
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今日はこのところから、
「狭い門からはいりなさい」
と題しまして、御言葉を見て参りたいと思います。

今回の箇所は、イエス様への質問からはじまります。
それは、
「主よ。救われる者は少ないのですか。」
という質問でした。
これに対する答えが、この御言葉です。

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「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
ルカの福音書13章24節
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この箇所は、こう続きます。

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25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
ルカの福音書13章25-27節
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さて、ここで、中に入れなかった人たちは、
『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
といっています。

彼らは、主と共に食事をし、イエス様の教えを受けました。

しかし、彼らは、門の中に入っていなかったのです。

この最後の所に
「不正を行う者たち」
とありますが、マタイの福音書には、こういうところがあります。
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21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
マタイの福音書7章21-23節
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ここに、どんなものが入るのかが書かれています。
それは、父のみこころを行う者です。

そして、この御言葉はこう続きます。
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だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
マタイの福音書7章24-25節
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ここで、御言葉を聞いて行うなら、それは、倒れないと書かれています。
では、行わないならどうなるのかも見てみましょう。

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また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
マタイの福音書7章26-27節
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この例えは、実は、その前に、この御言葉からはじまります。

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16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
マタイの福音書7章16-20節
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では、その実はどんな実でしょう。
イエス様の言われた事を行うとはどういうことでしょう。
ここを見て下さい。
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34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
マタイの福音書25章34-40節
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ここで、書かれているのは、人に対する愛の行いです。
そして、主は、小さいもののひとりにしたのは、わたしにしたのです。といわれます。

私たちへの主の戒めは一つです。
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わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
ヨハネの福音書15章12節
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これが、律法の全てであり、イエス様の完成されたものの現れです。

主の霊である御霊は、私たちを通して現れ、御霊の実を結ばれます。
それは、これです。

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しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
ガラテヤ人への手紙5章22-23節
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このおなじガラテヤ人への手紙の中で、パウロは、言います。

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しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによって
ではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
ガラテヤ人への手紙2章16節
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この御霊の実は、キリストの御言葉を私たちが受け止めて、歩んでいく中で実る実です。
しかし、その実は、律法の行いによるのではありません。

では、なんでしょう。
この全ては、キリストを信じる事の結果として現れます。
なぜなら、キリストは完全な愛を私達に示して下さったからです。

ヤコブの手紙にはこう書いてあります。
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15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
ヤコブの手紙2章15-17節
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ここで、信仰が、示す行いとして、愛の実践が書かれています。

もう一度最初のところにもどりましょう。
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25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
ルカの福音書13章25-27節
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人々は、主と共にいました。
しかし、知らないといわれました。

知っているといわれた人々は、愛を実践した人々です。
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すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
マタイの福音書25章40節
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そして、彼らは、言っています。
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すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
マタイの福音書25章37節
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彼らは、自分たちが考えて、愛を行ったのではなく、彼らを通して、主の愛が人々に流れたのです。
私たちが神を愛したのではありません。
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私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
ヨハネの手紙第一4章10節
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私たちは、愛を行っていると自分で満足する事は出来ないかも知れません。
それは、主が見ておられることです。

しかし、私たちが、本当に主の愛を受け、私達のために十字架に死んで下さったイエス様を見つめて歩んでいるなら、私たちを通して、必ず愛は表れるのです。
ですから、私達の見つめるものはどこまでも、私たちを愛して十字架に架かって下さった主です。
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信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
ヘブル人への手紙12章2節
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このイエス様から目を離さないでいる為にはどうしたらいいですか?

それは、祈りと御言葉、そして、主にある兄弟姉妹との交わりの中に留まる事です。

門は何ですか?

イエス様は、言われます。
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そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
ヨハネの福音書10章7節
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イエス様こそ、羊の門です。
この門は何をしめしていますか?
この門は、神の愛を示しています。
罪の赦しを示しています。

私たちが、このイエス様にしっかりと留まっているそのことによって、私たちは、正しい実を結びます。
行いによるのでない、信仰によって、キリストに留まる、そのたった一つの門だけが、私たちを救いへと導くのです。

この狭い門から努力して入る。
それは、私たちが、わき目をふらず、ただこのキリストを見つめて行く事です。

私たちが、十字架に架かられたイエス様を見つめる時、私たちは、聖霊に燃やされ愛に燃やされ、また、愛の実践をするものとなるのです。

ですから、これは、律法ではありません。どこまでも、主との愛の関係なのです。

この主を覚えて祈りましょう。

<いのり>


[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。




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