礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20080217
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キリストの権威
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【 内容 】 病の癒しと悪霊の追い出し。
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11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>
みなさん。おはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、ご自身の権威をもって、病を癒し、悪霊を追い出されました。
そして、今も生きて働かれる方です。
この方を覚えて、御言葉を聞いて参りましょう。

では、まず、今週の通読箇所を見てみましょう。

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範囲・通読箇所
2月17日(日)[ ]レビ17-19 /[ ]マタ28
2月18日(月)[ ]レビ20-21 /[ ]マコ1:1-22
2月19日(火)[ ]レビ22-23 /[ ]マコ1:23-45
2月20日(水)[ ]レビ24-25 /[ ]マコ2
2月21日(木)[ ]レビ26-27 /[ ]マコ3
2月22日(金)[ ]民1-2 /[ ]マコ4:1-20
2月23日(土)[ ]民3-4 /[ ]マコ4:21-41
2月24日(日)[ ]民5-6 /[ ]マコ5:1-20
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旧約聖書は、レビ記から民数記に入ります。
このレビ記の最後で、聖書知識として覚えておいていただきたいのは、ヨベルの年です。
律法の中では、7年目に土地を休ませるというのがあり、また、その安息の年の7倍した年を聖別するように言われます。
それは、特別な年として扱うことです。
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4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。8 あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。
9 あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。
10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければな
らない。
11 この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。
レビ記25章4、8-11節
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次に、民数記ですが、これは、イスラエルの民の荒野での行程がまとめられたものです。
その最初と最後に人口調査があり、そのため、民数記という名がつきました。
また、新約聖書は、マルコの福音書です。
マルコの福音書は、非常に展開の速い書です。
読みやすいと思いますので、是非お読み下さい。

皆さん聖書を読みましょう。

では、バイブルQです。
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【 【 【 先週のバイブルQの答え・聖書箇所 】 】 】
旧約:アロンの子ナダブとアビフは、何をしましたか?
新約:イエス様が捕らえられた時の大祭司は誰でしたか?
 【 バイブルQの答え・聖書箇所 】
旧約:主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。(レビ記10章1節)
新約:カヤパ。(マタイの福音書26章57節)

 【 バイブルQ 】
旧約:ヨベルの年は何年目ですか?
新約:アルパヨの子レビはどこにいましたか?
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アロンの子のナダブとアビブは、主の命じられない捧げ物をしたために、滅ぼされました。
そのことから、私たちは、律法の厳格さを知り、また、その律法を成就して、私たちを救い、罪を赦してくださったイエス様の御業の素晴らしさを知るのです。
新約の答えは、このようになります。

次のバイブルQも探してみてください。

では、今週の聖書箇所をお読みいただきましょう。
マルコの福音書の1章です。
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【 聖書箇所 】マルコの福音書1章23-35節 
・新改訳Up60(贈呈p54英対p98)
・新改訳Vp65(贈呈p62)・口語訳p52
・新共同訳p62 (贈呈p62英対p94)
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司会者お願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
マルコの福音書1章23-35節
1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
1:24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
1:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
1:28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。
1:29 イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。
1:30 ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。
1:31 イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。
1:32 夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。
1:33 こうして町中の者が戸口に集まって来た。
1:34 イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。
1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
マルコの福音書1章23-35節
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つづいて、主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。
マルコの福音書1章34節
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ではこのところから、
「キリストの権威」
と題しまして、御言葉を見てまいりましょう。

さて、今回から、マルコの福音書に入ります。
マルコの福音書は、良く、ローマ人に向けて書かれたのだといわれます。
その一つの特徴として、展開の速さがあります。
次々とお話が進んでいくのがマルコの福音書です。
病の癒しがあり、教えがあり、移動して、悪霊の追い出し、病の癒し、教え、また移動してという感じです。

読まれると、結構あきずに読む事が出来ると思います。
是非お読み下さい。

その中でも、今回は1章です。

ところで、福音書というと、マタイの福音書は、ご存知のように、系図から始まります。
また、ルカの福音書は、著者が書いているように、順を追っていて、バプテスマのヨハネの事から始まります。
ヨハネの福音書は、初めに言葉があった。とう事ですから、創造の始のはなしから書かれていますが、この冒頭は、イエス様がどういう方かの説明です。

これに対して、マルコの福音書は、バプテスマのヨハネの登場からはじまります。
そして、そこにイエス様が来られ、洗礼を受け、すぐに宣教の働きへと入っていかれます。

このマルコの福音書を見ていると、そのイエス様の公生涯が、どれほど、忙しい、息のつく間も無いようなものであったかがわかります。
ですから、そのイエス様の3年余りの公生涯は、圧縮された期間だったといえます。

今回の箇所の少し前を見ますとこうなっています。
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1:14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。
1:21 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
マルコの福音書1章14-22節
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ここで、18節と、20節、そして、21節に、「すぐに」と書かれています。
その展開の速さがわかると思います。

イエス様が、安息日に会堂で教えられた、それは、学者のようではなく、権威ある者のようであったと書いてあります。

学者と、権威あるものの違いは何ですか?

学者をイメージして、堅苦しい話しなのだとか、イエス様の話は面白かったとか、そういう意味で書かれているのではありません。
学者でもお話の面白い方もおられますし、権威あるものとして、語られても面白くない方もおられます。

学者は、その調べた事を解説し、人々に理解させようとします。
しかし、権威あるものの語る言葉は、命令であり、宣言です。

学問の多くは、一般の人と余り関係が無い事です。
しかし、例えば、政治家の語ることは、難しい事を言っていても、場合によってはそのまま生活につながります。

権威あるものとしてイエス様の語られた言葉は、そのまま、その人が、受け入れるかどうかという選択を迫るものです。

そのことは、聞いた人の人生に、そして、永遠の命に、関わってくるのです。

イエス様は、御国の権威を持ってこられました。
そして、その権威を持って語られたのです。

このイエス様の権威には、しるしと不思議がともないました。

それを、警察に例えると、警察は、法律に従って人々を取り締まる事ができます。
例えば、そこの踏み切りで、一旦停止をせずに、車で通過すると、横道におまわりさんが隠れていて、車を止められて、一旦停止無視で、つかまり、罰金を払わされる事になります。
別な人が、それを見つけても、罰金を払わせる手続きは出来ません。
しかし、警察官は、その権威を帯びて、違法を取り締まる仕事をしています。
ですから、彼らが、止まれというとき、止まらなければならないし、それを無視することは、さらに大きな罪に問われます。

イエス様は、実際に、権威を持って働かれました。
イエス様は、その権威についてこういわれました。
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イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
マタイの福音書28章18節
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これが、イエス様の権威です。
この権威を持って、イエス様は、病を癒し悪霊を追い出されたのです。

その中で、もっとも重要な権威は、これです。
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人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
マタイの福音書9章6節
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罪を赦す権威。
これが、イエス様が地上にこられた最大の理由です。

ところで、この権威という事について、もっとも良く理解したのは、イスラエルの学者ではなく、この人でした。
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8:5 イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
8:6 言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」
8:7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そ
のとおりにいたします。」
8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
マタイの福音書8章5-10節
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かれは、ローマの軍人で、百人隊長でした。
軍人は、武器を帯びていて、また、力も強いでしょう。
しかし、百人隊長だからといって、自分の下にいる誰よりも力が強いわけではありません。
剣があるから人がいう事を聞くのでもありません。

先ほどの警察官の話に例えると、警察官が拳銃を持っているから人がいう事を聞くのではありません。
また、車を止める事が出来るほど、力が強いのでもありません。
そうではなく、警察官の受けている権威に人は従うのです。

それで、百人隊長は、自分の力とは違い、国の権威によって、人々に命令し、人々を動かして、その仕事をしていました。
ですから、権威というものがどういうものか良く知っていたのです。
そして、権威によって、語られた命令がどういう力を持つかも知っていました。
丁度、ローマの皇帝の命令書があるなら、誰でも従わなければならないように。
クオバディスという映画があります。
その中で、ローマの貴族の所に、百人隊長が、死刑の宣告書をもって行くのです。
貴族は、彼より偉いけれども、しかし、その命令に従わなければなりません。

少し余談ですが、この世の権威もまた、神様の赦しの中にあります。
ですから、それらにしたがうよう、聖書はいいます。
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人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
ローマ人への手紙13章1-2節
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ですから、それらの命令を大切にしなければなりません。

さて、それで、その命令の力を知っている彼は、
病気のしもべの為に、この事に関する権威を持っている人の言葉をもらおうとしたのです。

皆さん。
神様の言葉には、権威があります。
だから、大胆に宣言しなければなりません。

あなたが言ったからという事ではありません。
その信仰深さではありません、。
ペテロは言います。
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12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのです
か。
13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みま
した。
14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにした
のです。
使徒の働き3章12-16節
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これが、イエス様の御名の権威です。
そして、この権威は、弟子たちに与えられました。
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イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。
マタイの福音書10章1節
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そして、いま、私たちも、この権威を帯びています。

この権威にしたがい、御言葉を大胆に語り、祈るものとならせて頂きましょう。

<いのり>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。


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シティーチャーチメッセージ20080217キリストの権威
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