礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20080203
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一番偉大な者
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【 内容 】 主が、仕える者を高くされる事。
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11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、仕える者となって世に来られ、
ご自身を捧げ者とされた方、
十字架であがないを成し遂げられた方です。
この方を覚えて主の御言葉を聞いて参りましょう。

さて、この火曜日から金曜日まで、ペンテコステ親交会の教役者大会の為に、浜松に行っていました。

非常に有意義な学びが出来、良い交わりに恵まれ、また、神様の油注ぎあった事を感謝します。
行き帰りの天候も、守られました。
皆様、お祈りありがとうございました。

今回は、「時代を勝ち取る教会」というメインテーマでの大会でした。
講師は、フランク・デマジオ先生。先生はポートランドにある以前、バイブルテンプルと呼ばれた、シティー・バイブル・チャーチの牧師をしておられます。
その教会は、5000人を越える教会です。
先生のお話から、良いリーダーのチームを作り上げていく事の大切さや、健全な教会を立てあげることについて学びました。
同時に、分科会の講師の先生から、若い人々への伝道について、学びました。
中でも、みどりのキリスト教会のユースパスターである西村先生の、
「時代を勝ち取る教会は、次世代を勝ち取る教会だ」とのメッセージは非常に印象深いものでした。
先生の教会は、10年前、10人ほどの教会学校で、その殆どがクリスチャンホームの子どもたちだったそうです。
そこから、いまは、70名のユース、そして、多くの献身者が出ています。

いま、自分の目の前にいる若者たちを宝物としてみることが出来るかどうか?
それが、教会の10年20年後を決めるのだというお話でした。

この教会の若者たちを、そのような目で見、その成長を支え、励まして行きたいと思います。

書籍や、CDを買ってきております。
また、並べておきますので、ご覧下さい。
さて、御言葉に戻りたいと思います。

まず、通読箇所を見てみましょう。
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2月3日(日)[ ]出エ28-29 /[ ]マタ22:1-22
2月4日(月)[ ]出エ30-32 /[ ]マタ22:23-46
2月5日(火)[ ]出エ33-34 /[ ]マタ23:1-22
2月6日(水)[ ]出エ35-36 /[ ]マタ23:23-39
2月7日(木)[ ]出エ37-38 /[ ]マタ24:1-22
2月8日(金)[ ]出エ39-40 /[ ]マタ24:23-51
2月9日(土)[ ]レビ1-3 /[ ]マタ25:1-30
2月10日(日)[ ]レビ4-5 /[ ]マタ25:31-46
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旧約聖書は、出エジプトの最後の方、そして、レビ記に入ります。
この箇所には、民とアロンの犯した罪、そして、幕屋や契約の箱を作ることについて書かれています。
また、レビ記は、捧げ者に関する様々な規定が書かれています。
新約聖書は、マタイによる福音書、これも、最後の方です。
十字架を前にしたエルサレムでのイエス様の歩み、そして、教えが書かれています。
皆さん聖書をお読み下さい。

そして、バイブルQはこうです。

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【 【 【 先週のバイブルQの答え・聖書箇所 】 】 】
旧約:イスラエルとアマレクの戦いで、モーセがどうすると、イスラエルが優勢になりましたか?
新約:ぶどう園で働く労務者のたとえで、主人は労務者と一日いくらの約束をしましたか?
 【 バイブルQの答え・聖書箇所 】
旧約:手をあげる。(出エジプト記17章10-11節)
新約:一デナリ。(マタイの福音書20章1-2節)

 【 バイブルQ 】
旧約:安息日に火をたく事を、律法はどういっていますか?
新約:マタイの福音書23章で、イエス様は、律法の中ではるかに重要なものは何だと言われますか?
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モーセの上げる手は、とりなしの祈りをあらわします。
私は、皆さんの事をお祈りしています。
どうぞ、皆さんも、私の事をお祈り下さい。
私たちは、互いにとりなし祈るものでありたいと思います。

新約聖書の問題の答えは、一日一デナリです。
これは、平均的な労務者の給料だったと考えられます。

次のバイブルQも皆さん探して見て下さい。
共に聖書を読みましょう。

では、本日の聖書箇所をお読みいただきましょう。
本日の聖書箇所は、マタイの福音書です。
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【 聖書箇所 】マタイの福音書23章2-12節
・新改訳Up42(贈呈p39英対p70)
・新改訳Vp47(贈呈p45)・口語訳p37
・新共同訳p45 (贈呈p45英対p68)
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では、司会者お読み下さい。
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【 聖書箇所のテキスト 】
マタイの福音書23章2-12節
23:2 こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
23:3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
23:4 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
23:5 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
23:6 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
23:7 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
23:9 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
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はい、ありがとうございます。

では、いつものように、主題聖句をいいましょう。
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【 主題聖句 】
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
マタイの福音書23章12節
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では、このところから、
「一番偉大な者」
と題しまして、御言葉を聞いてまいりましょう。

お読みいただいた今回の箇所の初めは、律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
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こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
マタイの福音書23章2節
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という事から始まります。

モーセの座とあります。
皆さんモーセはよくご存知だと思いますが、モーセについて、少し見てみたいと思います。

このモーセは、ヘブル人の子として生まれました。
しかし、当時、エジプトの王、パロの命令により、ヘブル人の男の子どもは生まれたら殺されなければなりませんでした。
その中で、生まれた一人の赤ん坊は、暫く隠して育てられたのち、川に流されました。
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さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。
女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。
しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。
出エジプト記2章1-3節
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さて、この赤ん坊は、それをエジプトの王女に見つけられ、助けられました。
本当の母であるユダヤ人の乳母、に預けられた赤ん坊は、王女の子として育てられました。
それが、モーセです。
その名前については、こう書いてあります。
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その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです。」と言ったから
である。
出エジプト記2章10節
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聖書の中の様々なところで、水は、罪の世界を象徴するものとして描かれます。
モーセは、その水の中から引き出されたものでした。

当時、ヘブル人、すなわち、イスラエルの民は、エジプトで奴隷となっていました。
彼らは、その奴隷の立場からの解放を願っていました。

モーセは、その彼らに、神様が使わされた解放者でした。

その働きは、罪の奴隷であった、私たちを解放してくださったイエス様の姿でもあります。
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イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
ヨハネの福音書8章34節
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私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙6章6節
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聖書の中の罪は、私たちを縛り、罪を犯させ、地獄に連れて行く存在です。
イエス様は、その罪の力を打ち砕いて、私達に救いを与えて下さいました。

モーセの働きの中の、一つの大切なものは、神様から、律法を受け取った事です。
その要約は、十戒として、神様の手によって、石の板に書かれ、契約の箱にいれられました。

その契約の箱の置かれた所は、神様がご自身の臨在を表される場所となりました。

そのモーセの律法ですが、この律法は、こまかく、人の行いを規定しました。

それゆえ、ユダヤ人は、自分の心とは別に、その行動を、律法に合わせようとしました。
また、その律法の命令には刑罰が伴ったので、律法から外れないように、それよりも、更に厳しい命令を付け加えて行きました。

その中でも、安息日は大きな問題です。
それについて、イエス様の語られた事が、マタイの福音の12章に書かれています。
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そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
マタイの福音書12章10-12節
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イエス様は、安息日について、このように言われました。
これは、読むと、私たちには当たり前の事に思います。
しかし、私たちユダヤ人でないものが、イエス様のお言葉を聞いて、そのよしあしを判断するのは、余りにいい加減です。
私達にとっては、安息日などどうでもいいことです。だから、それと、病の癒しという問題になると、癒すのが当然と考えるでしょう。
しかし、モーセの律法は、そんなに甘いものではありません。
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イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。
たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。
しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。
すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」
そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。
民数記15章32-36節
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ここで、彼は、主の命令によって殺されます。

安息日に彼がしていた事は、たきぎを集めていたということです。
たったそれだけの事と感じますか?
これほどに、律法は厳しいのです。

たきぎを集めただけで殺されたのです。
しかもそれは、主の命令です。
これが、殺人とかだったら、モーセは躊躇せずに死刑にしたでしょう。
しかし、彼は、たきぎを拾っただけです。
いったん、監禁しておいたことに、モーセの躊躇が見られます。
しかし、主の命令によって、彼は殺されたのです。

だとすれば、もし、安息日に癒していて、それが、労働だと見られたら、当然殺されてしまいます。
だから、ここでのイエス様の安息日の癒しは、命がけなのです。
甘くいい加減な理由ではなく、命がけで、安息日に、癒しをなさっていたのです。

しかし、たきぎを集めただけで殺される。
何が良くて何が悪いのでしょう。
でもやったことの大きさや内容ではありません。
神様に対する不信仰を神様は見ておられます。

このような、厳しい律法の前提の中で、イエス様は先のように、安息日の心を語られました。
安息日に良い事をするのは、正しい。
では、何が良い事で何が悪い事でしょうか?
その一つの基準がここにあります。
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21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。
22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。
23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。な
ぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
ローマ人への手紙14章21-23節
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この箇所で、疑いながら食べるならとありますが、それが、不信仰です。

信仰から出ていないことは罪です。
信仰とは何ですか?
それは、神様との信頼関係です。
また、そこに疑いがないということです。

また、主はこのようにも言われます。
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それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
マタイの福音書8章13節
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主は、私達の信仰の通りになるようにと言われます。
私たちが、神様をどういうかただと信じているか、その事が、非常に大切な事です。

さて、ずっと違うお話をしてきたのですが、ここまでて、しっかりとつかんでおいていただきたいのは、
イエス様が、律法学者やパリサイ人について、語られた時、その本質は、律法に対していい加減な私達の感覚とは程遠いものであるということです。

そして、その中で言われているモーセの座とは、見かけ上であれ、厳格に、律法を教え、守り行おうとする姿勢でした。
しかし、その心の中は、神様から遠く離れていました。
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イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
マルコの福音書7章6節
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そのゆえに、彼らは、自分の罪にしばられ、また、律法に束縛されて、身動きの出来ない状態になっていました。

彼らは、言うが、行う事が出来ない。
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3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
4 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
マタイの福音書23章3節
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しかも彼らは、見せ掛けで立派に振舞っていました。
しかし、本来、神様は、言葉や行いではなく心を見ておられる方です。
ですから、ホセア書にはこう書いてあります。
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わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
ホセア書6章6節
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神様は愛の方です。
また、律法の本質は何でしょう。
それは、神を愛し隣人を愛するあいです。

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そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
マタイの福音書22章37-40節
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その愛を示す事。それが、本当の意味で、律法を守る事です。
逆にいえば、どんなに律法を形の上で行っていても、完全に律法から離れている事もありえるのです。

そして、イエス様は、新しい戒めを与えられました。
それは、これです。
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あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネの福音書13章34節
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この愛をもっとも実践されたのは言うまでもないイエス様です。

そして、イエス様は、その愛のゆえに、ご自分をむなしくして、仕え、死にまでも従われたのです。
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6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
ピリピ人への手紙2章6-9節
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その事のゆえに、イエス様はたかくあげられました。
私たちも同じです。
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42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
マルコの福音書10章42-45節
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そして、さらにこう書いてあります。
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ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
ペテロの手紙第一5章6節
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主の前にへりくだり、仕えるものとなることが出来るよう、お祈りしましょう。

<いのり>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。



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シティーチャーチメッセージ20080203一番偉大な者
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