礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20071111
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かたくなにならないように
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【 内容 】 悔い改め、主の戒めに従う。
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11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>
みなさんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、私たちを罪から救い、守り、導いて下さる方です。
この方を覚えて御言葉を聞いてまいりましょう。

聖書の通読は、
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11月11日(日)[ ]エレ52 /[ ]ヘブ1
11月12日(月)[ ]哀歌1-2 /[ ]ヘブ2
11月13日(火)[ ]哀歌3-5 /[ ]ヘブ3
11月14日(水)[ ]エゼ1-3 /[ ]ヘブ4
11月15日(木)[ ]エゼ4-7 /[ ]ヘブ5-6
11月16日(金)[ ]エゼ8-11 /[ ]ヘブ7
11月17日(土)[ ]エゼ12-14 /[ ]ヘブ8
11月18日(日)[ ]エゼ15-16 /[ ]ヘブ9
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旧約聖書は、今週はエレミヤが終わり、哀歌からエゼキエル書に入ります。
哀歌は、エレミヤ哀歌とも言われますが、ユダの王国が滅び、捕囚となったものの歌です。
それは、いままで、世界中に散らされていたユダヤ人の歌でもあります。
彼らは、この歌を、いまも、嘆きの壁で祈りとして歌うのです。
その、ユダヤ人を通して、主は、ご自身が生きておられる事を、全ての民に示しておられます。
新約聖書は、ヘブル人への手紙です。
ヘブル人とは、簡単に言うとユダヤ人の事です。
創世記の中で、ヨセフがエジプト人から、ヘブル人と呼ばれています。
このヘブル人への手紙。お話の中で内容をみて行きたいと思います。

バイブルQはこうなります。

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【 【 【 先週のバイブルQの答え・聖書箇所 】 】 】
旧約:ユダの王エホヤキムの第四年、エレミヤの口述を筆記したのは誰ですか?
新約:パウロがテトスをクレテに残したのは、何の為でしたか?
 【 バイブルQの答え・聖書箇所 】
旧約:ネリヤの子バルク(エレミヤ書45章1節)
新約:残っている仕事の整理をし、町ごとに長老たちを任命するため。(テトスへの手紙1章5節)

 【 バイブルQ 】
旧約:エゼキエルの仕事は何でしたか?
新約:生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭いものは何ですか?
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主は、エレミヤの為に、さまざまな助けをお与えになり、ご自身の言葉が伝えられるようにされました。
ネリヤの子バルクもその様な一人です。
テトスの働きは、リーダーの任命でした。
これは、大変重要な働きです。
それをするにあたってのガイドブックとしての面を、テトスへの手紙は持っています。
これは、テモテへの手紙にもいえることです。
それらは、リーダーの為の指針ですが、牧師等だけでなく、教会の中核となる全てのメンバーに対するものと考える事が出来ます。
皆さん教会を立てあげていくものとして、この箇所を読みましょう。

次のバイブルQも聖書から探して見て下さい。

では、いつものように、聖書箇所をお読み頂きましょう。
本日の聖書箇所は、ヘブル人への手紙3章です。
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【 聖書箇所 】ヘブル人への手紙3章7-19節
・新改訳Up391(贈呈p341英対p647)
・新改訳Vp426(贈呈p388)・口語訳p345
・新共同訳p403 (贈呈p403英対p597)
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では、司会者お願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
3:8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
3:9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
3:10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
3:11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
3:12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
3:13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
3:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
3:15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
3:16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
3:17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
3:18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
3:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
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では続いて、主題聖句を教会学校の皆さんでお願いします。

<あんしょう>

では、皆さんで言いましょう。
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【 主題聖句 】
日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
ヘブル人への手紙3章13節
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では、今日はこのところから、
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かたくなにならないように
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と題しまして、御言葉を開いていきましょう。

さて、今回は、ヘブル人への手紙です。
ヘブル人、先ほどもいいましたが、アブラハムとその一族をさして使われるのが、ヘブル人です。
アブラハムについて、こうかいてあります。
++++++++++「
ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。
創世記14章13節
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これは、アブラハム、当時はまだアブラムという名前でしたが、彼の甥のロトが敵に捕らえられた時の事です。
アブラハムは、ヘブル人と呼ばれています。

ヘブルという言葉は、ヘブル語では、イブリーというのですが、
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ヘブル=イブリー<ヘブル語>
アーバル<ヘブル語>=「渡る,進む,通り過ぎる,越える」
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これは、アーバルというヘブル語の動詞が変化したものと言われます。
アーバルは、渡るとか通り過ぎるという意味のヘブル語ですが、このことから、川向こうから渡ってきた民ですとか、通り過ぎていくものといった意味だったと考えられています。
故郷を離れて旅をする遊牧民でもあったアブラハムとその一族は、ヘブル人と呼ばれました。

ユダヤ人は、他の民族を、異邦人と呼びます。
しかし、ここで、このヘブル人という名称は、彼ら自身がこの世において、さすらいの民族、旅人である事をしめしています。

そのように考えると、この名称には、私たちにとっても意味があります。
ピリピ人への手紙にはこうかいてあります。
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けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
ピリピ人への手紙3章20節
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そして、ヘブル人への手紙の11章には、こう書いたところがあります。
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13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
ヘブル人への手紙11章13-16節
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私たちも、天の故郷にあこがれ、地上では旅人として生きるものです。

信仰によるアブラハムの子孫であるわたしたちは、この世では旅人です。

さて、お話を戻しますが、ヘブル人へ向けて書かれたのがこの手紙です。
それは、また、イスラエルの民をさしています。

では、誰が書いたのでしょうか?
それは、わかりません。聖書の一つのミステリーです。
内容から、パウロの書簡のようだとも言われますが、その他にもバルナバ。アポロ。ルカ,ピリポ,プリスキラ,シルワノ(シラス),テモテ。ヨハネなど、いろいろな事が言われます。
しかし、この内容は、誰が書いたにしても、イエス様の十字架の意味について、律法の規定にそっての意味を捉える解説書です。

わかりにくいところもあると思いますが、イエス様がなされた十字架の御業が、なにを成し遂げたのか、ユダヤ人の観点から深く探っていく事の出来る書です。

今、新約聖書をユダヤルーツから見直す研究がなされていますが、聖書は、ユダヤ人の感性の中で書かれていて、それは、大きな意味のある事だと思います。

さて、前置きが長くなりましたが、聖書箇所にもどりましょう。
今回の聖書箇所は、3章の7節からですが、その一つ前をみてみます。

++++++++++
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
ヘブル人への手紙3章6節
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私たちが、神の家であることを御話ししました。
しかし、ここで、一つの但し書きがされています。
それは、
もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば
ということです。

私たちが、しっかりと、確信と希望をもって歩む事が必要なのです。
私たちが、主にある確信を得るためには、何をしなければなりませんか?
それは、聖書を読み祈る事です。

奇跡をみても、私たちは神様との信頼関係を築くことが出来ません。
イスラエルの民は、神様の偉大な奇跡を見ました。
そのクライマックスは、紅海がわかれた奇跡でした。
そして、その海を通って荒野に入った彼らは、不信仰により滅んでしまったのです。

何かを見る事は信仰を励ますかもしれません。
しかし、祈りと御言葉なしに、信仰の成長はありえないのです。

しっかりと主イエス様の留まるために、御言葉を読み、祈りましょう。

わたしたちが、聖書を読み祈る時、聖霊様は語りかけてこられます。
もちろん、主が語りかけてくださるのは、私たちが何かをしたからではありません。
主の語りかけそのものが、主のあわれみです。

ですから、主が語りかけてくださる時、私たちは、決して心をかたくなにしてはなりません。

毎週お読みするところですが、こう書いてあります。

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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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ここで、多くの方は、疲れた人重荷を負っている人は、というところに目を留めると思います。
しかし、私が、このことを毎週読むその意味は、この後半です。
主は、28節で、あなたがたを休ませてあげますといわれますが、休み、すなわち安息を得るために、私たちにどうしろとイエス様はいわれますか?
こころやさしく、へりくだっているイエス様のくびきを負う、剣を取ることをやめ主の謙りに学ぶ、そこに、本当の安らぎがあたえられます。
そして、私たちが、謙るという事は、実は、おいやすく、また、軽いくびきなのです。

しかし、私たちは、私達の自我のかたくなさの為に、謙る事が出来ません。
いや、そのような、自分で、自分で、と生きているその事が、私達の罪です。
そして、それは、アダムとエバが善悪の知識の木の実を、自分たちを高めようと食べたときから始まるのです。
それは、高慢でした。

その逆に、私たちが、主の前にへりくだる時、そこに聖霊様が働かれます。
謙る。このことは、本当に難しい事です。
しかし、わたしたちは、決してかたくなになってはいけないのです。

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7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
ヘブル人への手紙3章7-8節
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かたくなになった民はどうなりましたか?

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9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
ヘブル人への手紙3章9-11節
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彼らは、安息から遠ざけられてしまいました。
私たちが、かたくなになるとき、私たちは、平安をえる事ができません。

そして、結局安息にはいれなかった理由をこう書いています。

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それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
ヘブル人への手紙3章19節
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ここで、では、この不信仰とはなんでしょう。

一つ、イエス様の弟子たちの姿を見てみましょう。

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35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。
36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。
38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
マルコの福音書4章35-40節
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さて、ここで、イエス様はなぜ寝ていられたのでしょう。
それは、平安があったからです。

それは、父なる神様に対する信頼です。

では、弟子たちはなぜ、恐れたのですか?

イエス様が言われます。
信仰がないのはどうしたことです。

彼らは信仰がなかったのです。

ここで、嵐を鎮める事が出来るかどうかが問題ではありません。
立派な信仰をもっていれば嵐を鎮める事が出来るとか、、。そんなこと以前に、信仰があれば、嵐の中でも恐れません。
この大荒れの湖で、神様に信頼しているかどうかが問題だということです。

それは、私達の人生の全ての面に言える事です。

あなたの目の前におこる困難。
あなたはどうしますか?
神様があなたを助けてくださると信頼していますか?

そして自分でなんとかしようとするのでなく、主にしっかりと結びついて、ゆだねていく時、私達の信頼は強固になります。
そして、主は状況によらない平安を与えてくださるのです。

++++++++++
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりま
せん。
ヨハネの福音書14章27節
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主が与えて下さる情況によらない平安。
そのような平安は信仰によって与えられます。

わたしたちは、そのような信仰を持つ事が出来る様に、互いに励ましあいましょう。

<いのり>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。




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シティーチャーチメッセージ20071111かたくなにならないように
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