礼拝でのお話
テキスト版
画像がある場合は
クリックすると
表示されます
※携帯で表示できない
物もありますので
ご了承下さい
トップページへ






−−−−−−−−−−
シティーチャーチ
メッセージ20070520
−−−−−−−−−−
はじめであり終わりである方
−−−−−−−−−−
【 内容 】  イエス様が世のはじめからおられる事を学ぶ。
−−−−−−−−−−

++++++++++
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
++++++++++

<いのり>

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、アルファでありオメガであるかた。
はじめであり、終わりである方。
今も生きておられるかたです。
この方を覚えて、御言葉を聞いて参りましょう。

まず、今日も、聖書を開いていただきましょう。
本日の聖書箇所は、ヨハネの福音書8章48-59節の所です。
司会者お願いします。

++++++++++
【 聖書箇所 】
ヨハネの福音書8章48-59節 
・新改訳Up177(贈呈p159英対p293)
・新改訳Vp194・口語訳p153
・新共同訳p183 (贈呈p183英対p282)
++++++++++

++++++++++
【 聖書箇所のテキスト 】
ヨハネの福音書8章48-59節 
8:48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
8:49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。
8:50 しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。
8:51 まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
8:52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は
決して死を味わうことがない。』と言うのです。
8:53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
8:54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っ
ています。
8:55 けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知って
おり、そのみことばを守っています。
8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
8:59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。
++++++++++

では、続いて、主題聖句です。
教会学校の皆さんお願いします。

<しゅだいせいく>

では、皆さんで言いましょう。

++++++++++
【 主題聖句 】
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
ヨハネの福音書8章58節
++++++++++

はい。ありがとうございます。

今週の聖書通読は、旧約が第一列王記です。
第一列王記は、ソロモンの時代が12章までです。
その後、ソロモンの子レハブアムの時代になり、王国は、イスラエルとユダに分裂します。

新約は、ヨハネの福音書です。
皆さん聖書を読みましょう。

バイブルQは、こうなります。

−−−−−−−−−−
 【 先週のバイブルQ 】
旧約:サムエル記第二22章でダビデは主が何に乗って飛ぶと歌いますか?
新約:いのちのパンとは何ですか?
 【 バイブルQの答え・聖書箇所 】
旧約:ケルブ。(サムエル記22章11節)
新約:イエス様。(ヨハネの福音書6章35節)

 【 バイブルQ 】
旧約:ソロモンはどこから契約の箱を運び上りましたか?
新約:盲人を癒すのに、泥を盲人の目に塗られたイエス様は、どこで洗うように言われましたか?
−−−−−−−−−−
このケルブは、契約の箱の上にも作られた、神様を賛美する生き物です。
彼らが飛び回りながら主を褒め称えている姿が聖書に書かれています。

いのちのパン。
それは、イエス様です。
私たちに、永遠の命を与えるパンとしてイエス様は来られました。
是非、聖書で確かめてください。

また、次のバイブルQも聖書から探して見て下さい。

ところで、今日は、教会暦では、昇天日の後の日曜日ということになります。
イエス様が、十字架につけられて、蘇られてから、40日目にイエス様は天に上っていかれました。
それが、昇天日で、この間の木曜日です。

そして、来週は、ペンテコステと言うことです。
この間、使徒の働きを見ると、弟子たちは、主の約束を待って祈っていた事がわかります。
十日間程ですが、その祈りの中で、ペンテコステの日、聖霊様が注がれ、三千人の人が救われ、教会が誕生したのです。

このペンテコステは、ペンテはギリシャ語の5に由来し、アメリカの国防省のペンタゴンなどもありますが、五旬節を意味しています。
七週の祭りとも言われ、七だったり五だったりするのですが、
七週は、一週間が七回で49日
五旬節は、10日が五つあって50日
次の日から数えるか、その日から数えるかの違いで、同じ日を意味する事になります。

復活節が、春分の日の後の満月の次の日曜日との事ですが、そこから数えて50日目がペンテコステです。
皆さんで、聖霊様の注ぎを待ち、祈りたいと思います。

聖書箇所に戻ります。

今回は、
はじめであり終わりである方
とのタイトルです。

今回の箇所は、イエス様ご自身の証言として、イエス様がどういう方かが非常によく分るところです。

この問答で、ユダヤ人たちはイエス様が悪霊につかれているといいました。
しかし、それに対してイエス様は言われます。
++++++++++
49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。
50 しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。
51 まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
ヨハネの福音書8章49-51節
++++++++++

これは、イエス様にしてみれば、当然の事を言われたのです。
イエス様は、父なる神様を敬っておられました。当然悪霊につかれているのではありません。
そして、イエス様の言葉を守るものは決して死を見ないと言われました。

ここで、イエス様が言われた死は、単にこの肉体が朽ちる事ではありません。
ちょうど、アダムとエバが善悪の木の実を食べてすぐに肉体の死を経験したのではないように、
ここで、イエス様が言われた死は、肉体の死ではなく、霊的な死です。
そして、その霊的な死は、永遠の死、永遠の滅び、逆に、イエス様の与えて下さる命は永遠の命です。

イエス様は、永遠の命を与えて下さるのです。

ところが、これに対して、ユダヤ人たちが言い返します。

++++++++++
52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決し
て死を味わうことがない。』と言うのです。
53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
ヨハネの福音書8章52-53節
++++++++++

このユダヤ人たちの質問は、イエス様がただの人であるなら、当然の質問です。
しかし、イエス様は、イエス様が正しい事を、ご自身の業を見て信じるようにといわれました。
こう書いてあります。

++++++++++
もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」
ヨハネの福音書10章37-38節
++++++++++

この箇所から、イエス様は、言葉でなく、見えるところででも、イエス様を信じるようにと教えておられます。
人々は、イエス様のなさる業、そして、イエス様の語られる言葉を聞いて、イエス様が神の使わされた救い主である事を信じるべきでした。

しかし、彼らはそれが信じられなかったのです。

それで、彼らにとって、イエス様は、父なる神様を冒涜するものに見えたのです。
しかし、イエス様は本来どんな方でしょう。

こう書いてあります。

++++++++++
1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
ヨハネの福音書1章
++++++++++

++++++++++
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
ヨハネの福音書1章
++++++++++

ここで、イエス様が、はじめからおられた方、神の言葉であり、そして、神の子であるとヨハネは語ります。

そして、その事を、イエス様は業によって証されました。

私たちは、ここで、キリスト教とその他の多くの宗教との違いを知ります。

この地上にある宗教は、人間がその努力によって、神に近づこう、霊的な力、超越した力を手に入れようとする物です。
しかし、聖書はこういいます。
++++++++++
17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
ヨハネの福音書1章17-18節
++++++++++

この箇所でわかるように、イエス様は、父なる神のふところにおられる神の一人子です。
そして、その方が神について語られたのです。

皆さん。そうですから、これは、律法によるのではありません。
神の恵みによるのです。

だれも、人間の側から何も出来ない救い。それが、イエス様による救いです。
イエス様は天から下られ十字架でそれをなして下さったのです。
そして、これ以外に人が神に近づく道はありません。

イエス様は神様である。
それは、一人のイエスと言う人間が努力して神様になったのではありません。
誰も、神になることは出来ません。
しかし、神には不可能な事はないと言われる主ご自身が、その事を成し遂げられました。

ピリピ人への手紙にこう書いてあります。
++++++++++
6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
ピリピ人への手紙2章6-8節
++++++++++

このことを、ばかばかしいといわれますか?
一般的にはばかばかしい話しです。
神が人間となったのがイエス様だというと、それは、ばかばかしい信じられないということになります。

でも、これが、聖書の中でイエス様の語られた真実です。
もし、このことが無いなら、イエス様はユダヤ人から殺される事はありません。
イエス様は単なる道徳的な教師としてこられたのではありません。
イエス様はご自身が神の子だと言われた。だから、ユダヤ人から殺されそうになったのです。

聖書にはいい話が書いてあるとか、イエス様は道徳的に立派な人だったなどというのは、聖書について、よく知らない人の言い分です。

聖書を読むなら、明らかなことは、イエス様は神様である事です。
そのことゆえに、そして、それをはっきりと証言したからこそ、イエス様は、ユダヤ人たちから退けられ、十字架にまで追いやられたのです。
しかし、そのこともまた、神様のご計画の中でした。

そして、続きの箇所を見るとこう書いてあります。
++++++++++
57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。
ヨハネの福音書8章57-59節
++++++++++

この箇所からわかるのは、イエス様がアブラハムの生まれる前からいると言われた事です。
そして、それゆえに、彼らはイエス様に石をなげつけようとしたのです。

ユダヤ人たちは、イエス様にバカにされたから、石を投げつけようとしたのではありません。

この、「私はいる」という言葉は、一般的ではありません。
普通は、「私はいた」とか言うわけです。
しかし、ここでイエス様は私はいるといわれました。

それは、イエス様が時間に支配されていない事をしめしておられます。

アブラハムより前からおられ、今もそして、いつまでもおられる方です。

イエス様は永遠の中におられる方です。
そして、イエス様は、私たちにそれを教えるためにこういわれます。

++++++++++
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
黙示録22章13節
++++++++++

このことは、イエス様が神である事を示しています。
わたしたちは、このイエス様を信じる信仰により、一方的な恵みによって救われたのです。

イエス様は、私達の為に十字架で死んでくださいました。
それが、かわいそうだとか、申し訳ないとか、そういうことだけであってはいけません。

イエス様はどういう方か、神の子である方がこの地上に来てくださった。
そして、その方は、永遠に生きておられる神様です。

私たちが毎日聖書を読むのも祈るもの、今も生きておられるイエス様と出会うためです。

私たちはその事を信じています。
その方が私たちと共におられるのです。

私達の目の前の現実がどうであってもあきらめないで祈りましょう。

今も生きておられるイエス様は必ず祈りに答えて下さいます。

お祈りしましょう。

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。


−−−−−−−−−−
シティーチャーチメッセージ20070520はじめであり終わりである方
−−−−−−−−−−




INDEX
TOP