礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20070218
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新しいぶどう酒を新しい皮袋に
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【内容】行いによる義から、信仰による義に
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>

ハレルヤ。皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。

主は、私たちに、新しい命、永遠の命を与えて下さいました。
主は良い方、慈しみに満ちた方です。
この方を覚えて、共に、聖書を見て行きましょう。

では、まず、本日の聖書箇所をお読みいただきましょう。
本日の聖書箇所は

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【聖書箇所】マルコの福音書2章18-28節
・新改訳Up62(贈呈p56英対p101)
・新改訳Vp67・口語訳p53
・新共同訳p64(贈呈p64英対p98)
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司会者お願いします。

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【聖書箇所のテキスト】
2:18ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」
2:19イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
2:20しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。
2:21だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。
2:22また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」
2:23ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。
2:24すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」
2:25イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
2:26アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」
2:27また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
2:28人の子は安息日にも主です。」
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では、続いて、教会学校の皆さんで、主題聖句の暗唱をお願いします。

<暗唱>

では、皆さんで言いましょう。

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【主題聖句】
安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
マルコの福音書2章27節
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今週の聖書箇所は、
旧約が、レビ記から民数記。
新約は、マルコの福音書です。

民数記は、イスラエルの民の、荒野での旅程でもあります。
彼らは、荒野において、何をし、どのようになったのか、そこには、主の、深い愛と、明確な裁きが書かれています。
私たちが、地上で主を信じる者、そして、神の子として歩む上で、何が大切か、その事を、この箇所から学ぶ事が出来ればと思います。

創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と並んでいる事で、時代的にも、この順番かと勘違いをしそうですが、それぞれの書はそれぞれの目的によって、書かれています。
今お読みいただいている、レビ記、民数記は、レビ記が礼拝の規定、民数記は荒野での記録です。
ですから、民数記には、出エジプト記に書かれていた幕屋の製作に関わる事も書かれており、また、相続地の分割についても書かれています。

新約は、マルコの福音書が続きます。
マルコは、非常に動きのある書です。

皆さん、聖書を読みましょう。

また、バイブルQは、前回のものがこうなっています。

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【【【先週のバイブルQの答え・聖書箇所】】】
旧約:吹き出物が全身を覆っている患者を祭司はどうしますか?
新約:イエス様を売った事を後悔したユダは、何を、祭司長、長老たちに返しましたか?
【バイブルQの答え・聖書箇所】
旧約:きよいと宣言する。(レビ記13章12-13節)
新約:銀貨三十枚。(マタイの福音書27章3節)
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ここで、吹き出物と書かれていますが、らい病の吹き出物の事です。
しかし、らい病は、現在のハンセン氏病の事では無いかも知れないといわれます。
それで最近は、ここにツァラートという原語をそのまま載せている訳もあります。
しかし、ここで、一つ考えさせられるのは、なぜ、全身が吹き出物だときよいかということです。

そのことから、一つ教えられるのは、私たちが、自分自身のきよさを主張するのでなく、
自分の罪を完全に主の前で認める事が大切だという事です。

もうひとつ、ユダの事ですが、この銀貨30枚は、旧約に預言された出来事でした。
このところを、聖書から確認してみてください。

次のバイブルQは、これです。
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旧約:主はシナイ山で誰を通しておきてと定めとおしえを立てられましたか?
新約:汚れた霊どもは、イエス様に対して、何と叫びましたか?
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答えは、聖書の通読箇所にありますので、探して見て下さい。

さて、本題に戻ります。

新しいぶどう酒を新しい皮袋に
とのタイトルです。
これは、私の学んだ、JTJ宣教神学校で、学長の岸先生がいつも言われた言葉です。

私たちが、新しい皮袋を用意しなければ、新しい物を入れることは出来ません。
それは、柔らかな心です。

この教会で、私がいつも言うのは何でしょう。聖書を通読しましょう。です。
皆さん聖書を読みましょう。

さて、今回の聖書箇所は、前回お話した中に少し出てきた、断食についての議論から始まります。
しかし、その前を少し見てみましょう。

まず、イエス様は、カペナウムにこられました。
そこは、ガリラヤ湖のほとりにあります。

イエス様は、このカペナウムにおいて、中風の人を癒されました。
中風の人は、その友人たちによって、床に載せたままで、イエス様の前につり降ろされ、そこで、イエス様は、彼らの信仰を見て言われました
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イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
マルコの福音書2章5節
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この罪の許しの宣言を聞いた律法学者は、反発して理屈を言いました。

それで、イエス様は、更に言われました。
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9中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
11「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
マルコの福音書2章9-11節
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すると、この人は、癒されて立ち上がり、家に帰りました。

ここで、律法学者は、どんな理屈をいったでしょう。
それは、神の他罪を赦す事は出来ないという理屈でした。
逆にイエス様がその権威をもっておられる、そのことは、イエス様が神であることを表していました。

また、イエス様のところに、取税人や罪人が大勢いるのを見た学者たちとの間のこんな問答も書かれています。
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15それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
16パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
17イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
マルコの福音書2章15-17節
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この中で、イエス様の言われたこの言葉も大切です。

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イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
マルコの福音書2章17節
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神様は、何のために、教会をこの地上においておられるでしょう。
立派な人を集めて礼拝させるためでしょうか?

そうではありません。

イエス様が、罪人の為に来られたように、教会は、問題のある人の為にあります。

癒しを必要とする人、解放を必要とする人、お金に困っている人、勉強の出来ない人、家族に問題を抱える人、仕事の無い人、罪から離れる事の出来ない人。
そのような、人々の為に、教会はあるのです。

私たち自身もそのようなものだった、いや、今でもそういうところがあるかも知れません。

その私たちを救うために、イエス様は来てくださり、ご自身、十字架で死んで下さいました。
自分で自分をどうしようも出来ない人を救うために、また、その人の罪を赦すためにきてくださったのです。

先ほどの箇所で、中風の人や、その友達は、何か、罪が赦されるような事をしましたか?

罪が赦されるために、何をするでしょう。
謝罪でしょうか?
献金でしょうか?
律法の中には、罪の許しの為の捧げ物があります。

でも、彼らは、そのような事は何もしていません。
彼らは、屋根をはがして、友達を吊り下ろしたのです。
家の持ち主が怒ったかも知れません。

集会はめちゃめちゃです。
それは、いい事なんですか?
でも、イエス様は、罪の赦しを宣言された。

ただ、彼らが、イエス様を信じた、そのそのことだけが重要だったのです。
イエス様なら、この友達を癒す事が出来ると信じていなければ、こんなとんでもないことしません。
かれらは、本当にイエス様を信じていたのです。

信仰さえもそうです。
私たちは、自分が信じる事によって、救われた。それは、その通りです。
しかし、自分の意思の強さによって、信仰が働き、救われるのだというような誤解をするなら、それは、間違っています。

救いは、人間の意志の強さによるのでは有りません。
ただ、神様の哀れみにより頼む事、神様にゆだねる事、神様の前にへりくだる事、それが信仰です。

信仰を積極的に表している箇所を見てみましょう。

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信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
ヘブル人への手紙11章1節
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これは、大事な事です。
一般のビジネスマンでも、自分の願いを口に出して、そうなると確信するんだというような事を今はしています。
それほど、信仰を持って告白するのは大事なことです。

しかし、この事を見ると、先の誤解がますます強くなりそうです。

別な聖書箇所を見てみたいと思います。
神様にゆだねる事を見てみましょう。

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28すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
29イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
30ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
31そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
マタイの福音書14章28-31節
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信仰の弱い人だと言われたとき、そうだ、俺は、信仰が強くならなければ、と考えて、意思を強く持って、弱音をはかないのが信仰ではありません。
ここで、注目して欲しいのは、ペテロが何をしたかでなく、イエス様が何をされたかです。

イエス様は、おぼれかけているペテロの手をつかんで、助けて下さったのです。
イエス様は、このとき、ペテロに、お前の信仰が無いから沈むんだ、しっかり信じなさいとは言われませんでした。
もちろん、ペテロの信仰の弱さを教える為に、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」といわれました。
しかし、手を伸ばして、ここで、「この手につかまりなさい」とも言わず、ペテロをつかんで助けて下さったのです。

いいですか?
あなたが自分や、周りの状況に目を留めているのか、それとも、イエス様に目を留めているのか、そこが大切です。

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そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
ローマ人への手紙10章17節
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私達の信仰は、キリストに目を留めることにあるのです。

このことから、今回の聖書箇所に戻りたいと思いますが、

ヨハネの弟子たち、パリサイ人たちに共通していた考えは、彼らが何をするかという事でした。

断食、律法を守る事。
それらが、自分たちを救うと考えていました。

しかし、律法は何の為にあるのでしょう。

律法の本質は、神を愛し、隣人を愛する事です。

そうであるなら、律法は、その言葉の一つ一つを守り行えたかどうかが重要なのではなく、神様への愛、隣人への愛が、私達の中で、どのように成長したかが大切だといえます。

皆さん。私達の教会において、私が、目標としているのは、兄弟姉妹すべてが、毎日聖書を読み、聖書を通読する事です。
それは、何のためですか?
それは、キリストイエス様から、目を離さないためです。

私たちは、イエス様によらなければ、何も出来ないと認めるからです。

イエス様は言われました。何度も引用します。

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わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネの福音書15章5節
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私たちは、イエス様を離れては何も出来ません。
皆さんこの事を認めますか?

いや、日曜日はイエス様やけど、普段の日は、自分でなんとかしますか?
イエス様は、何も出来ないと言われたのです。
だから、私たちは、イエス様から目を離さないために、聖書を読まないわけにいきません。

そして、イエス様と共にあるなら、何でも出来るのです。
そして、イエス様にあって、互いに愛し合うのです。

毎日聖書を通読し、互いに愛し合う。

この二つが、私達の教会の目標としたいと、私は考えています。

さて、新しい皮袋の御話しでした。

私達の考えが、古い考え、行いによってなんとかしていこう。
自分で何とかしていこうという、古い考えの中にあるなら、私たちは、このキリストにある歩み、また、信仰による義を受け入れる事が出来ません。

ですから、私たちは、新しい、柔らかな心をもって、このことを受け入れなければならないのです。

それは、わかっています、、。
と、言った時点で、あなたの中に、堅いものが出来ています。

私達の心が柔和で謙っている事、それが、救いの道です。
いつもお読みする箇所ですが、この箇所は重要です。
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28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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ここで、心優しく、謙っている、このことが、たましいに安らぎを与えるのです。
いいですか、私たちが、自分の意思を通すこと、それが、立派な信仰なのではありません。

どこまでも、神様に謙り、神様にゆだね、神様によりたのんでいく事。
そのことによって、あなたの神様との信頼関係、愛の関係は強く大きなものになります。
それが、本当の信仰です。

そして、それは、柔らかな心を持たなければ、受け入れる事が出来ないのです。

私達の心が、新しい皮袋のように、柔らかで有り続ける事が出来る様に、お祈りしましょう。



[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。

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シティーチャーチメッセージ20070218新しいぶどう酒を新しい皮袋に
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