礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20060618
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信仰と奇跡
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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<祈り>

聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、今も生きて働いておられる方。
私達の、人生の主です。

この方を覚えつつ、御言葉を聞いて参りましょう。

では、始めに、いつものように
聖書箇所をお読みいただきましょう。
聖書箇所は、使徒の働き3章です。

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聖書箇所:使徒の働き3章1-10節
・新改訳U212p(贈呈版p188)・新改訳Vp231
・口語訳p184・新共同訳p217(贈呈p217英対p331)
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司会者お読み下さい。

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聖書箇所のテキスト
6月20日(火)[]T歴代21-22/[]使徒3
3:1ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
3:5男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
3:7彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
3:9人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
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はい。ありがとうございます。
では、続いて、主題聖句の暗唱を、教会学校の皆さんでお願いします。

<あんしょう>

では、皆さんで言いましょう。

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主題聖句:
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
使徒の働き3章19節
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はい、ありがとうございます。

では、ここから、「信仰と奇跡」と題しまして、聖書を一緒に見て行きましょう。

聖書通読は、新約聖書は使徒の働きです。
聖霊様の働きによって、使徒たちを通してなされる様々な神様の御業と、福音の広がり、そして、初代教会の姿を、私たちは、このところから見ることが出来ます。

また、旧約聖書は、歴代志第一から第二に入ります。
歴代志第一がダビデで終わり、第二がソロモンで始まる。
この二人の時代について、非常に良くわかるところです。

是非、皆さん、お読み下さい。

さて、先週のバイブルQは、

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旧約:レビの子は誰と誰と誰ですか?
新約:墓で泣いていたマリヤに、「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と聞いたのは誰ですか?
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です。答えは、その右下に書いていますが、

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旧約:ゲルション、ケハテ、メラリ。(歴代志6章1節)
新約:イエス様(ヨハネの福音書20章15節)
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です。聖書を開いて確かめてみてください。

また、今週のバイブルQは、

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旧約:モーセの子孫は、イススラエルのどの部族に属しましたか?
新約:ペテロの宣言によって癒された足の悪かった人の年齢について、何とかいてありますか?
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という問題です。
是非、聖書で探してみてください。


では、御言葉に戻りたいと思います。

本日の聖書箇所は、

ペテロが足の萎えた人を癒すというところです。

ペテロとヨハネが、宮に上っていきました。

3時の祈りの為と書いてありますね。
3時のおやつではありません。
とにかく、祈りの為に、彼らは、宮に上りました。

すると、そこに、生まれつき足のきかない男が運ばれて来ました。

この男は、ペテロとヨハネから施しを求めました。

ペテロとヨハネはいいました。

「私たちを見なさい。」

そして、男は、何かもらえると思って、じっとペテロを見つめます。

すると、ペテロはいいました。

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」

このときに、この男の人が、イエス様を信じる信仰があったとは書いてません。
それは、わからない。しかし、ペテロは、イエス様の御名によって、宣言しました。

ペテロは、自分の持っているものをあげようといいました。
ペテロは、イエス様を信じる信仰をもっていました。

ペテロは、聖霊様を持っていました。イエス様を信じる信仰、御名を用いる信仰を持っていました。

おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。


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3:6すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
3:7彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
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これが、ペンテコステの後に記録されている、最初の癒しです。
ペンテコステの日に、聖霊様が注がれた。
その後に、癒しのみわざがなされたのです。


この癒しは、エルサレムの、沢山の人々のいる、美しの門というところで、人々の見ているまんまえで、行われました。
人通りのあるところに、彼は、毎日座らされていたのです。
そして、受けるものによって、生活していたのです。

人々は、彼の事を知っていました。そこで物乞いをしている彼の事を知っていたのです。
その足の悪かった人が、立ち上がって、おどり、歩き回っているのを人々が見たのです。

もし、誰も知らない人が癒されて、そして、このように歩き回っているのなら、人々は、誰もその事を分からなかったでしょう。
しかし、皆が、この人の事を知っていたのです。
それで、多くの人々が、この事の為に集まり、そして、驚き、あきれたと書いてあります。

神様は、この御業を、隠れたところでなく、みんなの見ているところで、行われたのです。

そのとき、ペテロはこういいました。

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3:12ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
使徒の働き3章12節
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そして、ペテロは、自分を見ている人々に対して、

「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」

と、言っています。
ペテロは、自分の信仰深さでこのことを出来たのではないといっているのです。

私たちが、何か、神様の為に働こうとするとき、癒しの為に祈るとき、私たちは言わないですか?
「あの人は信仰深いから、、。」
私たちが信仰深いから、神様は何かされるのでしょうか?
私たちの信仰の深さによって、神様は動かされるのでしょうか?

そうではありません。ペテロは言います。
それは、信仰深さではなく、ただ、イエスキリスト様なのだと言うことです。

癒しの御業が起こったときに、私の信仰深さによって、この事が起こった。
そう考えたくなります。

私たちの信仰が深まると言うことは大切なことです。
でも、そうだから、神様が何かをしてくださるのではありません。

神様が何かしてくださる、それは、すべて一方的な恵みです。
神様が恵みによって与えてくださったものを、私たちはただ受け止めていかなければならないのです。

その事を自分の信仰深さによって、受け止めて行こうとするならば、
「いや、まだまだ、私の信仰深さはたらない、私の信仰は足らない。だから、それを受け止めることなんて出来ない、だから癒されなくて当然なんだ。」
とか、そう考えてしまうかもしれません。
しかし、そうではありません。
神様が私達に対してなしてくださることは、一方的な恵みなのです。

そのことをすっぽりと受け止めなければならないのです。

信仰は、神様から何かもらう為の駆け引きの道具ではありません。

神様の力を引き出す為の道具ではありません。

だから、ペテロはいいます。
信仰深さによってではない。

そしてペテロはイエス様について語ります。

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3:13アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
3:15いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
使徒の働き3章13-15節
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ここで、ペテロはイエス様について語ります。
ペテロが語っている相手は皆ユダヤ人です。

その人たちに対して、イエス様の事を語っています。
イエス様が神の栄光であること。
いのちの君、この方を神様は蘇らせた。
自分がその事の証人である。

ここで、一つ見ておきたいのですが、
ユダヤ人にとっては神様ですが、私達にとってはどうなのでしょう。

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そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
ローマ人への手紙4章16節
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神様はアブラハムを全ての国々の父とされたのです。
そういう意味で、このイスラエルの神様が、世界の神様であること、
また、世界の全てを造られたのが、この神様であるということをしっかりと知っておかなければならないのです。

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神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
使徒の働き10章36節
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もう一つお読みしましょう。

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この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
使徒の働き17章24節
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全ての人の主です。

この世界を造られた方が、本当におられるのなら。

私たちが信じている事は何か?

それは、この世界この宇宙を造られた神様がおられると言うことです。

この事無しに、イエス様の救いも何もあったものではありません。

この世界この宇宙この地球、そして、私たち一人一人を造りられました。
また、この方は、私たちの1人1人を愛しておられるのです。

「きみは愛される為生まれた」と歌いますね。
今の世界を見ると、なんだそんなことと思うかも知れません。

しかし、神様は、私たち1人1人を、神様から愛される為に造られたのです。

ですから、私たちが、神様に目を向けるなら、そこに神様の愛があるのです。

多くの人は、愛なんてあるものか、神様なんているものかと、絶対にそちらを向きません。

例えば、その方の前に、何かプレゼントを置いて、

「ここにあなたへのプレゼントがあります。」

といったとします。
しかし、その方が、そんなプレゼントなんてあるわけがないと、向こうを向いておられたら、それを見つける事は出来ないのです。

神様なんかいるものか、愛なんかあるものか、そのように思ったとしても、神様は、私達を作って、愛された神様です。
その方は、地球上にある全ての国々の神様です。アメリカの神様、中国の神様、日本の神様です。
全世界の神様です。

この神様は、私達を愛しておられるから、私たちとの関係を取り戻す為に、何をして下さったか、。
それは、イエス様を与えて下さったのです。
神様は、私たちへの愛を示す為に、イエス様を与えて下さったのです。
また、イエス様は、十字架に架かって死んで下さる事によって、その愛が本物である事を示してくださいました。
そして、神の愛の律法を全うして、蘇ってこられたのです。

信仰というのは何でしょう。

信仰は聞くことから始まる。
望んでいる事を確信すること。

いろいろな表現があります。

しかし、信仰はいったいなんでしょう。
それは、結局、この神様の愛に信頼すること。

この神様が生きておられる事、そして、この神様が私達を愛してくださっておられると言うこと。
その愛に自分をゆだねる事が信仰です。

この世界を造られた神様、御子さえも惜しまずに与えてくださった神様の愛に信頼することが信仰です。
この愛を信じることが信仰です。

そして、この愛は、十字架に表された愛です。

ですから、信仰深さということがあるとするなら、それはなんでしょう。
それは、どれだけ、この神様の愛を知っているかということです。

そうであるなら、どんなに不思議なことが沢山おこるかという事ではない。

私たちと神様との関係がどんなに深いものとされているかが信仰です。

神様は、私達に対する愛を十字架で示し、イエス様はその十字架で死んで愛を示して、蘇られました。
このことは、人間にとって、理解しがたいことです。

ですから、いま、皆さんが、このように、この事を受け止めて、神様を礼拝しておられるというこの事は、奇跡なんです。

これは、人間の頭で、理解出来ないことです。

神様がなして下さったことの大きさを私たちは知り、受け止めたのです。
このことは、聖霊様の働き無くして出来ないことなのです。
皆さんお1人お1人は、聖霊様によって、この事を悟らされて、ここに来ておられるのです。


「わたしは、この事を自分で理解しました。」

そう思うかもしれません。しかし、聖霊様が教えて下さらなければ、けっしてこの事は理解できないのです。

神様は、私達を祝福してくださる方、癒して下さる方、解放してくださる方、永遠の命を与えて下さる方、そして、天国へ導いて下さる方です。
しかし、この方の与えてくださる全てに勝るのは、この方が、私達を愛しておられるということです。

この事を、本当に信じるとき、信仰がうまれます。

もちろん、神様が実際に祈りに答えて何かされるとき、私たちの信仰は励まされます。

もしも、親が、子どもに対して、おまえを愛しているといいながら、何一つ与えないなら、それに疑問をもって当然だと思います。
しかし、神様は、私たちが祈るとき、祈りに答えて様々な事をなしてくださいます。
そのことで、私たちの神様への信頼は支えられていくのです。

そして、私たちがこの愛を信じて行く時、信仰は、病を癒します。奇跡を行わせます。

それは、特別な事ではありません。
私は、教会で、車椅子の人がいて、祈ったら立ち上がったというのは見たことがありません。
でも、ある方の為に祈ると、その方の体が楽になったとか、ある、癌の方の為に祈ったときに、その病巣が、小さくなったとか言う事を見せて戴きました。

わたしは、ペンテコステの牧師ですが、あまり、印とか不思議とかについて、語りません。
預言や幻をあまり、語りません。
でも、毎日のように、癒しの為に祈っています。

この間、ある方と話していて、なぜその事を強調しないのかと聞かれました。
私は、ペンテコステの教会で生まれ育ちました。
ですから、病の癒しの為に祈ったり、悪霊の追い出しの為に徹夜した事がありました。
悪魔がいること、悪霊の働きがあること、それらと戦って祈ること、それは、当然のことです。

で、いま、私は、それらの事が起こる事を、印や不思議の起こる事を知っておられる皆さんに、語っているのです。

でも、一番大事なのは、その事ではないのです。
そこに表されている神様の愛です。

子どもに何か買ってあげると、子どもは喜びます。
いつまでも、その買ってもらったものを喜んでいます。
でも、本当に知って欲しいのは、自分が子どもの事を愛しているって言うことです。

神様は、私達に、神様の愛を知って欲しいと願って、それらの事をしておられます。

もし、皆さんが、しっかりと神様の愛を知れば、それは、信仰となります。
その信仰は、イエス様の御名によって働きます。

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3:16そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
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イエスの御名によるというのは、ただイエス様が成された御業によって与えられたものを受け止める信仰です。
ペテロはどんな人ですか?
ペテロは、イエス様を知らないといい、裏切った人です。
しかし、それでも愛してくださるイエス様を知ったペテロです。

だから、自分は信仰深く生きていきますなんて言えないペテロです。

そんなペテロに、神様はこの事を語らせたのです。

だた、イエス様を信じる信仰。それは、信仰深さではないとペテロはいいます。
神様の愛に信頼する信仰。

彼は、足萎えの人がいる時に、どうして、その人に、私にあるものをあげようと言ったのでしょう。

イエス様が自分を愛して下さったと同じに、イエス様はこの人も愛しておられるとそう確信したのです。
イエス様が愛しておられる方が、そこで苦しんでおられる、そこに神様の愛を示そうとした。

イエスの御名は何を表していますか?それは、神様の愛です。

そして立ち上がってあるけと言うと、彼は立ち上がり、賛美したのです。

ペテロは、
私が偉大な信仰者だからとはいいません。
イエス様によって与えられた信仰なんだと語っています。

私たちは、神様が私達を愛しておられるというこの事、
そして、その方は、全世界の神様であると言う事、
私たちの目にする全ての人が、この神様から愛されていると言う事を信じなければなりません。

そして、その神様の愛によって、人々に語り、また、祈りましょう。


[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
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シティーチャーチメッセージ20060618信仰と奇跡
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