礼拝でのお話
テキスト版
画像がある場合は
クリックすると
表示されます
※携帯で表示できない
物もありますので
ご了承下さい
トップページへ



−−−−−−−−−−
シティーチャーチ
メッセージ20060521
−−−−−−−−−−
真の光によって
−−−−−−−−−−

++++++++++
11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
++++++++++

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、真の光、私たちの霊の目を開かれる方です。

この方を覚えつつ、主の御言葉をきいてまいりましょう。
では、さっそくですが、本日の聖書箇所をお読み頂きたいと思います。

本日の聖書箇所は、
++++++++++
聖書箇所:ヨハネの福音書9章1-7節
・新改訳Up179(贈呈版p159)・新改訳Vp195
・口語訳p153・新共同訳p184(贈呈p184英対p283)
++++++++++
です。

司会者お願いします。

++++++++++
聖書箇所のテキスト
9:1またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
9:4わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
++++++++++

では、続いて、主題聖句の暗唱を、小学生の皆さんでお願いします。

<あんしょう>

では、皆さんで言いましょう。

++++++++++
主題聖句:
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。
ヨハネの福音書9章5節
++++++++++

では、今日はこのところから

−−−−−−−−−−
真の光によって
−−−−−−−−−−
と題しまして、御言葉をともに見てまいりたいと思います。

さて、聖書通読は、列王記第一と、ヨハネの福音書が続きます。
ヨハネの福音書は、難解なところもありますが、イエス様の愛が語られています。
どちらも、読みやすく、面白いところだと、思います。
ぜひ、じっくりとお読みください。

また、今週の箇所からクイズが出ています。

−−−−−−−−−−
<クイズ>
旧約:シェバの女王がソロモンに持って来た金は何タラントありましたか?
新約:イエス様が目をあけられた盲人を人びとはどうあつかいましたか?
−−−−−−−−−−

というものです。是非、読んで調べてみてください。

先週のクイズは、
−−−−−−−−−−
<先週のクイズ>
旧約:ダビデは、エブス人アラウナから銀五十シェケルで何を買いましたか?
新約:十二弟子の一人で、イエス様を売ろうとしていたのは誰ですか?
<クイズの答え・聖書箇所>(水曜日の箇所から)
旧約:打ち場と牛(サムエル記第一24章24節)
新約:イスカリオテ・シモンの子ユダ(ヨハネの福音書6章71節)
−−−−−−−−−−
というものでした。

このユダのことは、今、非常に話題になっていますが、
先日封切のダビンチコードの映画とセットで、両方とも、グノーシス派の考えです。

そして、それは、イエス様の神性と死と十字架の意味を否定する、非常に危険な異端であり、内容はただの創作であり、偽りです。

私たちは、そのことをしっかりと覚えておきましょう。

では、御言葉に戻りたいと思います。

今回は、真の光であるイエス様についてです。

私が中学生のころに、よく、ラジオを聴いていて、心のともしびというラジオ番組がありました。

そのラジオ番組の始めは、必ず、この御言葉でした。

++++++++++
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
詩篇119篇105節
++++++++++

その意味も、あまりよく分からずに聞いていたのですが、いまでも、心に残っています。

私たちは、もし、光がなかったら、何も見ることが出来ません。
ここで、詩篇は、みことば、すなわち神の言葉が、私たちが歩むための光だと教えています。

ヨハネの福音書の冒頭で、光について、こうかいてあります。

++++++++++
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネの福音書1章4-5節
++++++++++

ここで、闇の中に輝いている命の光のことが書いてあります。

そしてまた、こうも書いてあります。

++++++++++
1:9すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
ヨハネの福音書1章9-12節
++++++++++

ここで、イエス様が、真の光であることがわかります。

さて、光の話からはじまったのですが、
今日の聖書の箇所は、盲人の癒しです。

目が見えないという状態。人は、もし、光がなく、暗闇であるなら、誰も、何も見えません。
先ほど、道の光、足のともし火という御言葉をお読みしましたが、ここで、この盲人は、目が見えませんでした。

彼は、目が見えない。そんな彼をイエス様の弟子たちは、なぜこの人は見えないのですか?
この人の罪ですか?親の罪ですか?と聞いたのです。
これは、ひどいことだと思います。

しかし、このことに対して、イエス様が言われました。

++++++++++
9:3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
9:4わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
++++++++++

イエス様は、この盲人の罪ではなく、両親でもなく、神のわざがあらわされるためだと言われました。

このとき、盲人にとって、

イエス様が、世の光であると言われた事は、大変大きかったのでは無いかと思います。

この方は、何も見えない、暗闇の中を生きておられました。
そして、世の光である方がこられたのです。

この盲人をイエス様は、癒されました。

そして、そのことに関係する対話の中で、イエス様は言われました。

++++++++++
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
ヨハネの福音書9章39-41節
++++++++++

ここで、イエス様は、人々が、実際は盲目であることを教えておられます。

人々は、この盲人が癒された事を認めることが出来ず、ついに追い出してしまいます。
そして、追い出された盲人とイエス様との対話の中でイエス様は、この御言葉を語られたのです。

そして、人々は、目が見えないのに、見えるといっているといっておられるのです。
これを聞いて、ある人たちは、不満に思いました。

皆さんどうですか?
もし、イエス様が、あなたは目が見えていないといわれたら、そうですと、いいますか?

イエス様がいっておられたのは、この肉体の目ではありません。
それ以上の事、事実を事実として見る事の出来る目です。

これを聞いたパリサイ人たちは、私たちは盲人なのかといいました。

いいですか?
ここで、人々は、目が見えると主張しました。
しかし、この盲人が癒されたという出来事を彼らは、認めることが出来なかったのです。
この盲人が癒されたという事実を、目が見えていながら、その真実を見ることが出来なかったのです。

そして、盲人は、自分の目が癒されたという事を通して、このことが事実であると認めたのです。

この眼は、真理を見る目、事実を見る目、目に見えない神様の御業を見る目です。

イエス様は、私たちの霊の目を見えるようにし、また、霊の耳を聞こえるようにし、霊の感覚で、神様を感じることが出来るようにしてくださるかたです。

イエス様は、世の光であるといわれました。
こうも書いてあります。

++++++++++
暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
マタイの福音書4章16節
++++++++++

暗やみに光が上った、その光は、すなわちイエス様でした。

暗闇では、目が見えても何も見えません。

しかし、イエス様は、暗闇に光としてこられました。

何も見えない暗闇の霊の世界の中に、イエス様が光としてこられました。

何が見えるようになりますか?それは、私達を愛しておられる父なる神様の愛です。
また、それを妨げる私たちの罪です。

そして、それらを、見ることが出来るように、目を開いてくださいました。

その光は、人の命であると、先ほどの、ヨハネの福音書には書いてありました。

++++++++++
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネの福音書1章4-5節
++++++++++

命とはなんでしょう。それは、わたしたちと、命の根源である父なる神様との関係です。

私たちは、このことから目を離してはなりません。
この命は、神様から流れる愛です。
そして、この愛、この命によって、私たちは、生かされるのです。

そして、この命は、人の光でした。

この光を私達に与えて下さった方は言われます。

++++++++++
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイの福音書5章16節
++++++++++

この光は、今私たちのうちにおられます。
そして、その光が、良い行いとなって、人々の前で輝くのです。

私たちが努力して、良い行いをすると書いて無いことに注意してください。
私たちの光、それは、すなわち、私たちの中で輝かれるイエス様です。

このイエス様の輝きが、私達を通して輝き、良い行いとなり、父なる神様があがめられるのです。

ですから、私達にとって大事なことは、この光をしっかりと受け止めていることです。

この光であるイエス様は、私たちの霊の目を開いて下さる方です。
そして、私たちの本当の命です。
そして、このかたは、神の言葉です。

みことばは足のともしびと詩篇に書かれています。

私たちは、救われる為に聖書を読むのではありません。
救いはすでに、イエス様が十字架でなしてくださいました。

この、真の光であるイエス様と、しっかりと結びつく為に、私たちは、聖書を読むのです。

このイエス様を覚えて、今週も、御言葉をお読みしましょう。
そして、皆さんを通して、イエス様の命の光が輝きますように。
お祈りしましょう。




[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。



INDEX
TOP