礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20060326
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罪びとを導かれる主
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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---祈り---

みなさんおはようございます

聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、罪あるものの為に来られ、罪あるものの為に死んでくださった方。
あわれみ深い大祭司です。
この方を崇めつつ、主の御言葉を聞いてまいりましょう。

さて、では、今日の聖書箇所をお読み下さい。

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聖書箇所:ルカの福音書5章27-32節
・新改訳Up108・新改訳Vp118
・口語訳p92・新共同訳p111・現代訳p111
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5:27この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。
5:28するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
5:29そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。
5:30すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
5:31そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
5:32わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
聖書箇所:ルカの福音書5章27-32節
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はい、ありがとうございます。
では、次に、主題聖句の暗唱を、小学生の皆さんでお願いします。

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主題聖句:
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。
ルカの福音書5章32節
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はい、ありがとうございます。
今日のタイトルは、「罪びとを導かれる主」です。

さて、聖書の通読は、旧約が、申命記から、ヨシュア記に入ります。
このヨシュア記は、モーセからその役割を受け継いだヨシュアが、約束の地へと入っていくところです。
とくに有名なのは、エリコの城壁の崩れるシーンでしょうか?
是非、皆さん読んで見てください。

また、新約聖書は、ルカの福音書です。
福音書も、マタイ、マルコ、ルカと来まして、半分が過ぎたわけですが、このマタイ、マルコ、ルカまでを共観福音書と呼びます。
これは、同じような視点から、見て書かれた聖書だからです。

マタイ、マルコ、ルカを読み比べてみるのも面白いのでは無いかと思います。

聖書クイズは、
旧約聖書が、祝福の為にゲリジム山に立つように定められたのは、どの部族ですか?
という問題でした。

読んでいただくと直ぐに分かりますが、申命記の27章12節で、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン。
と、なっています。
この人たちに共通するのが何かわかりますか?
実は、この人たちは、ヤコブの妻、レアとラケルの子ども達です。
そして、呪いの為にエバル山にたったのは、ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ。です。
この中で、ルベンとゼブルン以外は、レアとラケルの女奴隷であった、ジルパとビルハの子ども達です。
なぜ、こうわかれたかは分かりません。
しかし、興味深いこととしては、レアの長子であったルベンと、末子であったゼブルンが呪いの側に入っていることです。
長子ルベンは、罪を犯したために、自ら呪いを招きました。
最初の人アダムは、罪を犯し、呪われたものとなりました。
そして、その贖いの為に、イエス様はこられ、罪を犯さないのに、呪われたものとなってくださいました。

それを象徴するように、このゼブルンという名前は、尊ぶという意味で付けられたのですが、それは、共に住むという意味でした。
神が共に住まわれる為に、自らのろいの中に入り、そして、その呪いを祝福と変えられるのがイエス様なのだと言う事を、この箇所は教えてくれるのです。

聖書は、その全てがイエス様を証します。聖書を読むとき、その中からどのように主が証されているかその事を見ていくことも大切です。

そして、イエス様は、人となってこられました。
その、幼子イエス様について、何人かの人が、聖霊によって預言しました。

その一人が、このアンナです。
このことも、聖書で確かめてください。

是非、皆さん聖書を読みましょう。

さて、お話を、聖書箇所に戻しましょう。


レビという人の事が出てきます。
レビという名前は、ヤコブの12人の子どもの一人の名前ですから、ところどころにその名前のついた人が出てきます。
そもそも、レビという名前は、レアから産まれたヤコブの第3子に付けられた名ですが、この語源は、ヘブル語のラーワーで、結ぶ、とか、同道するとかいう意味だそうです。
その部族は、その名にふさわしく、神様とイスラエルの民を結ぶ働きを担いました。

しかし、このレビという人は、取税人でした。
取税人というと、税金を取る人です。といっても、今の、税務署の職員や、市民税課の職員とは違います。
そういった御仕事の方は、法律に従って、正しく税金を管理しておられるのですが、この当時の取税人というのは、ユダヤを支配しているローマの手先となって、税金を集めるだけでなく、色々な理由をつけて、実際以上に、お金を騙し取る、そういう人たちでした。
彼らの中には、裕福なものもいましたが、その行いは、ユダヤの社会の中では、認められるものではなく、罪人と同じに扱われていたのです。

イエス様は、ご自身への中傷を、このように言われています。

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人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。
ルカの福音書7章34節
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取税人という人たちが、全く、罪人と同じに扱われているのです。

ところで、この罪人ですが、これも、今、私たちが罪人と考える罪の意味と少し違います。
今、私たちが考える罪の意味といいましたが、この今の考えも、いろいろです。

聖書を読んで、あなたは罪人だといわれたら、「なにいいい」と思う方が、時々おられます。いや、殆どかもしれません。
それは、私たちが、法律を破ったもの、つまり、犯罪者を罪人と考えるからです。
そして、犯罪人であることは、さげすまれる立場であるからです。

しかし、聖書での罪人の定義は、少し違います。
例えばこう書いてあります。

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すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ローマ人への手紙3章23節
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全ての人が罪を犯した。
聖書は、全ての人が罪人だと教えるのです。
この罪人は、例えば、日本の法律に対する違反者だといっているのではありません。

罪とは、ルール違反だともいえます。
では、どのようなルールに対する違反でしょうか?
ここで、それは、律法です。

法律とどう違うのですか?と聞かれると、言葉が違うと思ってくださいということになりますが、
聖書で律法というとき、それは、?旧約聖書に書かれた、モーセの十戒を初めとする、神様が私たち人間にお与えになった戒めです。

モーセの十戒は、ご存知でしょうか?
それは、出エジプト20章に書かれています。
そして、それは、神への態度と、人間同士の態度の二つを定めています。
一般の世界の罪は、この中の人間同士の事柄だけが、問題なのではないでしょうか?

そういった意味でも、今の世界は、神様を無視した世界といえると思います。

ところで、この出エジプト20章のところで、12節からはこうなります。

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12あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
13殺してはならない。
14姦淫してはならない。
15盗んではならない。
16あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
17あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
出エジプト20章12-17節
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人間同士の問題というと、父と母を敬えから始まります。
なぜですか?
父母は、赤ん坊が産まれて最初の人間関係だからです。
それは、祖父母や、兄弟、おじ、おば、友人、周りへと広がっていきます。
この関係が正しくなくては、その人の対人関係は、どこかにひずみが生じても不思議でありません。

もちろん、あなたの父や母との関係が悪いからといって、それであなたはどうしようもないのではありません。
主は全てを益としてくださる方です。

そして、戒めは、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、あなたの隣人に対して、偽りの証言をしてはならない、そして、最後に、あなたの隣人の家、すべて隣人の物を欲しがってはならない。
と、続きます。

しかし、ここで、これが罪の定義だといいましたが、実際には、罪に定めることの困難な事が、ここには書かれています。
それは、欲しがってはならないという戒めです。

これは、その人の心の中のことですから、わかりません。
しかし、ここで、心の中を定義してあるところが、聖書の非常に素晴らしいところであると言えます。

人が犯す罪は、どこから来るでしょう。

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欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
ヤコブの手紙1章15節
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ここで、欲が罪のもとになるのだと聖書は教えます。
ところが、これは、その人にしかわかりません。
つまり、この律法は、人があの人は罪人だと定めたり、人を罪に定める為でなく、自分自身を罪に定める為のものだといえます。

そして、聖書には、こうかいてあります。

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31しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
32しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
コリント人への手紙第一11章31-32節
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律法は、自分がいかに正しいかを主張する為のものでなく、自分の罪をしり、そして、主の前にへりくだるためのものです。
ここで、書かれている罪人ですが、こうもかいてあります。

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さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
ルカの福音書15章1節
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ここを読んでどう思いますか?
罪人というひとたち、それは、いったいどういう人たちなんでしょう。

一ついえることは、その人たちは、自分たちを罪人と認め、また、人々も、彼らを罪人と認めていた。
おそらく、律法を正しく守ることの出来ない人々や、社会から外れた人々だったのでしょう。

しかし、その様な人々とイエスさまは共にいて、彼らに、救いの道を示されたのです。

でも、律法学者やパリサイ人に、救いは必要なかったのでしょうか?

実は、彼らも、救われなければならない、罪人でした。

しかし、イエス様の前に、自分が罪人だと、へりくだることが出来なかったのです。

皆さんはいかがですか?
皆さんは、律法を守っておられるでしょうか?

神様の前に正しいものでしょうか?

正しくないものの為に、イエスさまは何をしてくださいましたか?

イエスさまは、私たちの身代わりに十字架で死んでくださいました。
この十字架は、神の愛と神の義がぶつかったところです。

聖書は矛盾がたくさんあると言われます。
しかし、聖書はそれで当然だと私は思います。
なぜなら、神の義と神の愛という、完全に矛盾する二つのものが、この聖書には書かれているからです。
そして、その二つが、ぶつかり合ったのが、十字架です。

愛のゆえに、ご自身の一人子をお与えになり、義のゆえに、殺してしまわれ、そして私たちの贖いをなしとげてくださった。
それが、十字架です。

この場所で、神の愛と神の義がぶつかり、私たちのための赦しとあがないがなされたのです。

しかし、それを受け取るのは、自分自身が罪人であると認めて主の前に出ていく心です。
イエスさまは言われました。

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ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
ルカの福音書18章13-14節
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取税人は、自分の罪を良く知っていました。そして、主の前にへりくだり、赦しをいただいて、義とされて帰りました。
わたしたちも、主の前に、正直に自分の罪を告白し、そして、赦しときよめをいただきましょう。

主は、へりくだるものを御救いになるのです。

いま、この方の前に、へりくだり祈りましょう。


[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。

シティーチャーチメッセージ20060326罪びとを導かれる主



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