礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20060226
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本当の聖め
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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---祈り---

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は私たちと共にいて、守り導き、私達を聖めて下さる方です。
この方を覚えつつ、御言葉を聞いてまいりましょう。

まずは、いつものように、聖書箇所をお読み戴きましょう。


聖書箇所:マルコの福音書7章1-15節
・新改訳Up71・新改訳Vp78
・口語訳p61・新共同訳p74・現代訳p75

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聖書箇所のテキスト
7:1さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。
7:2イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、
7:3――パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、
7:4また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。――
7:5パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
7:6イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7:7彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
7:8あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
7:9また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。
7:10モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。
7:11それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、
7:12その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。
7:13こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」
7:14イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。
7:15外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
マルコの福音書7章1-15節
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では、続きまして、主題聖句の暗唱をお願いします。

<あんしょう>
では、皆さんで言いましょう。

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主題聖句:
外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。
マルコの福音書7章15節
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では、この箇所から、「本当の聖め」と題しまして、御言葉を見てまいりたいと思います。

通読の聖書箇所は、マルコの福音書が続きます。
また、旧約は民数記ですね。
前回お話しましたように、この民数記は、イスラエルの民の、エジプトでの生活をつづったものです。
名前にまどわされず、是非、お読み下さい。

バイブルQの答えは、週報にも書いていますが、

旧約:民数記1章で、ユダ部族で登録されたものは何人ですか?
新約:良い地に落ちた種はどうなりましたか?
<クイズの答え・聖書箇所>
旧約:七万四千六百人(民数記1章27節)
新約:芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。(マルコの福音書4章8節)

です。是非、ご確認下さい。

では、聖書箇所にもどりますが、今回の聖書箇所は、
イエス様のところに、パリサイ人と律法学者がやって来ての質問から始まります。

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7:1さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。
7:2イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、
7:3――パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、
7:4また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。――
7:5パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
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ここに、ユダヤ人の中にあった、しきたりがかかれています。

元来、ユダヤ教は、旧約聖書を聖典としました。

もちろん、彼らにとって、新約聖書はないわけですから、聖書といえば、旧約聖書であり、また、この聖書を彼らは、律法と預言と諸書と呼んでいました。
これを、ヘブル語で、トーラー・ナービーム・ケセビームといいます。
この中のトーラーは、モーセ5書です。
ここには、律法が書かれています。
また、ナービームは預言の書。そして、諸書は、詩篇などを意味しています。
ヨシュア記や、サムエル記もナービームの中に入っているようです。

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律法・預言・諸書(トーラー・ナービーム・ケセビーム)
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で、この中で特に重要なのは、間違いなくトーラーです。
これは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記で、聖書の基本です。
良く、私は、聖書を理解する為には、創世記と出エジプト記の理解が重要だとお話します。
そして、このモーセ5書を、読まずに、新約聖書を語ることは出来ないと思います。

お話がそれましたが、そのような、重要な、トーラーの中の命令を、彼らユダヤ人は厳格に守ろうとしました。

例えば、律法の中で、安息に地には働いてはいけないと書かれているのを読むと、何歩歩くと、労働になるだろうかとか、スイッチを押すことが労働だから、エレベーターのスイッチも押せないとか、
子やぎをその母の乳で煮てはならない。と聞くと、それならと、調理場までわけてしまうという、そういう姿でした。
それは、私達にとって、笑い事に思えるかもしれません。しかし、律法を守ることは命がけです。なぜなら、律法に違反しているなら、死ななければならないからです。

彼らの行い、それは、律法に対する厳格さでもあるのですが、なんとか自分を聖く保とうという姿でもありました。

彼らが、さまざまなしきたりに縛られたのは、そのような、厳格さ、いや、単なる厳格さを通り越した、律法主義のためでした。
それは、また、他者を裁き、互いに裁きあうことにもつながりました。

その一つの姿が、ここにも現れているわけです。
そこで、イエス様は言われました。

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7:6イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7:7彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
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ここで、彼らの心が、神様から離れているとイエス様は言われました。
口では私をうやまうが、と、書かれていて、彼らは、律法を守ろうとしているかのようです。
しかし、その律法の重要な、神を愛し、隣人を愛する愛を、彼らは忘れていました。
そして、互いに愛し合う事を、しきたりを守るために、互いに裁きあうことに変えてしまっていました。
それは、神様の心から遠く離れた姿でした。

しかし、それは、律法学者やパリサイ人に始まったのではありません。
それは、アダムとエバが最初に罪を犯したときに始まったのです。
アダムとエバが、善悪の知識の木から取って食べた時、かれらは、目が開け、互いに裸であるのがわかりました。
しかし、それは、彼らにとって、互いの弱さを知っただけの事、互いに裁きあう理由が分かるようになっただけの事でした。
それは、彼らに何の益も与えませんでした。互いに愛し合うのでなく、互いに裁きあうようになり、そして、その心は神様から遠く離れました。

ところで、ここで、主の祈りを見てみたいと思います。

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9だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
10御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
11私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
12私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
13私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
マタイの福音書6章9-13節
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このなかで、後半に注目したいのですが、3つのことが書かれています。
日ごとの糧を与えてください。
これは、必要を満たしてくださいという祈りです。
そして、それは、与えてください。という祈りです。

また、罪を赦してください。
赦してくださいという祈りがあります。

そして、試みにあわせないで悪から御救いください。
これは、守りがあるようにということです。

ここには、人が神様に求める、全ての祈りが言い表されています。
与えてください。赦してください。守ってください。

主を称えることから始まる祈りは、この三つの必要について祈り、そして、さらに主を称えて終わっています。

そして、二番目の罪を赦してください。
ここに、私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
と、書かれています。
ここで、罪の赦しを求めることと、罪を赦すことがセットになっています。

自分の受けたことに対して、その罪を赦す。
これは、非常に大きなことです。
私たちは、何か害を受けると、そのことに目を留めてしまいます。
しかし、もし、そのとき、神様に目を向けることが出来れば、神様は、素晴らしい事を、用意しておられます。
私たちは、人から何かされたとき、その事を見るのでなく、神様を見上げるなら、神様は、
全ての事を益と替えるという約束をもって、待っておられます。

私たちは、
神様、このいやな事を赦します。これに変えて、どんなに素晴らしい事を与えてくださいますか?
と、神様に期待していいのです。

とはいえ、カーッと怒っているとき、このことは、非常に困難な事かも知れません。
だから、人の怒りは、神の義を実現しません。
しかし、私たちは、何かいやな目にあったとき、それを主の前に持っていき、主に期待しましょう。

先ほどのパリサイ人たちは、律法にしたがって、また、いましめにしたがって、なんとか、人をさばこうとしていました。
しかし、イエス様は、赦しを宣言されました。

さて、私たちが聖いとはどういうことでしょう。

パリサイ人たちは、自分たちを、罪から切り離して、なんとか聖く保とうとしていました。
しかし、その心の中には、悪い思いがうずまいていました。
怒り、憎しみ、嫉妬、その様な思いで、心の中はいっぱいです。

ですから、イエス様は、彼らを白く塗られた墓だといわれました。

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忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
マタイの福音書23章27節
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この墓は、今の火葬のお墓とちがいます。
土葬ですから、死体は徐々に腐っていきます。外はきれいでも、中は、本当に汚い墓。

私たちは、表をよくしようとしても、中には悪いものがいっぱい詰まっている。そういうことがあります。
だから、イエス様は、中からのものが人を汚すといわれました。

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外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
マルコの福音書7章15節
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人は、自分は、聖さを保って、立派でありたいと考えます。
自分は律法を守っている。だから大丈夫だ。

そう考えようとします。そして、穢れたものから離れようとします。
しかし、イエス様は言われます。

人から出て来るものが、人を汚すものなのです。
私たちの中には良いものはありません。
私たちが、正しく生きようとしても、良いものは出てきません。
律法を守っているようでも、その同じ律法で、互いに裁きあってしまう。

私たちが、怒るのは、愛のためではありません。

では、聖さとはどこから来るのでしょう。
それは、もちろん神様からです。

良く引用しますが、イエス様は言われました。

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わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネの福音書15章5節
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イエス様は、私たちがイエス様を離れては、実を結ばないといわれました。
私たちは、イエス様を離れては、悪いものしか出てきません。

私たちが救われたとはどういうことですか?
それは、イエス様に接木されたということです。

もし、イエス様を離れて、私たちが何かしようとするなら、そこから出てくるのは、結局のところ、律法主義や、形式だけのものです。

私たちがこのイエス様の命を流す枝であるために必要なことは、イエス様にしっかりとつながっていることです。
聖さとはなんですか?それは、神様の命が流れていくということです。
では、その神様の命はどういうものですか?それは、愛です。

だから、イエス様は互いに愛し合いなさいといわれました。
その愛を示す為に、イエス様は十字架に架かって死んでくださいました。
神様の命とは、神を愛し互いに愛し合う愛です。
この愛は、このイエス様の十字架という、贖いの為の犠牲によって、明確に示されているのです。

この神様の愛、それは、私たちの中からは出てきません。
ただ、イエス様にしっかりと結びついていなければならないのです。
そのために必要なこと、それは、ただ、聖書を読み、祈ること、これ以外にありません。
私たちは、毎日、聖書を読み、祈るのです。

いのったら、何かすごいことがおこる、祈ったら祈りが聞かれて奇跡がおこる。

それも、私たちは期待していいでしょう。いや、それを期待して祈るべきです。

しかし、それ以前に、祈るのは。
私たちが祈る目的は、私たちが、イエス様としっかりと結びつく為です。
私たちがイエス様と結びついていること。
それが、聖めです。

私たちが、自分の中に良いものの無い事を認めて、イエス様に結びつこうとすること、
それが、へりくだりであり、悔い改めです。

そして、パウロはローマ人への手紙でこういいます。

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そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
ローマ人への手紙12章1節
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主の前に祈りましょう。



[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。



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