礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20060129
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仕える者となる
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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---祈り---

みなさんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、神であるのに、私たちの為に、人となって、しかも、あかんぼうとなって、こられた方。
そして、人々にどこまでも、仕えられた方です。

この方を覚えつつ、御言葉を聞いてまいりましょう。

では、いつものように、聖書箇所をお読みいただきましょう。

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聖書箇所:マタイの福音書20章17-28
・新改訳Up36・新改訳Vp40
・口語訳p32・新共同訳p38・現代訳p39
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司会者お願いします。

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聖書箇所のテキスト
20:17さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
20:18「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
20:19そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
20:20そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
20:21イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
20:22けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
20:23イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
20:24このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。
20:25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
20:26あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
20:27あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
20:28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
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はい。ありがとうございます。
では、主題聖句の暗唱を、教会学校の皆さんでお願いします。

<あんしょう>

では、皆さんでいいましょう。

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主題聖句:
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
マタイの福音書20章27節
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ありがとうございます。

聖書通読が、旧約は出エジプトそして、新約がマタイの最後のほうですね。
イエスさまが、どのように十字架に向かっていかれたか、その事を、今回の新約の箇所は、教えてくれます。
まさに、しもべになりなさいといわれ、また、仕える為に来たと言われたその通りの人生の最後が、そこには描かれています。
是非皆さんお読み下さい。

また、旧約聖書、出エジプトは、前回も言いましたが、カナンからエジプトへの移住後の系図と、モーセの誕生からはじまり、実際の出エジプト、そして、幕屋の完成までが、かかれています。
ここに、礼拝の原点、ユダヤ教の原点、そして、キリストの贖いの型が示されています。是非、お読み下さい。

また、バイブルQは、

旧約:モーセの兄の名前は?
新約:イエス様がパリサイ人やサドカイ人のパン種と言われたのは何ですか?

<クイズの答え・聖書箇所>
旧約:アロン(出エジプト記7章1節他)
新約:パリサイ人やサドカイ人の教え(マタイの福音書16章12節)


でした。是非確かめてみてください。

さて、御言葉に戻って行きたいと思います。
今回の聖書箇所、少し順を追って見て行きましょう。

今回の聖書箇所は、イエスさまが、いよいよエルサレムに近づいていかれるところです。
イエス様とその一行は、エルサレムに近づいておられました。

このシーンを考えると、なんとなく、私などは、水戸黄門のドラマを思い出してしまいます。
水戸光国とその一行は、城下へと入っていった、、。という感じで、みんながゆうゆうと歩いている。
まあ、そんなところでしょうか?

しかし、その人数は、大変に多かったのではないかと思います。
ルカの福音書の8章1-3節にはこう書いてあります。

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1その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。
2また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、
3ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。
ルカの福音書8章1-3節
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その様にして、形成された集会は、あるときは、何千人にもなりました。
そして、いまから、イエス様はエルサレムに向かっておられる。

ところで、このとき、人々は、何の為にエルサレムに行こうとしていると思っていたでしょう。

時は、丁度、過ぎ越しの祭りの前でした。
きっと、イエス様とその一行の周りには、たくさん、他の巡礼者がいたと思います。

出エジプト記には、

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・三つの祭り(出エジプト23章15-17節)
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23:15種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたとおり、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。それは、その月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、何も持たずにわたしの前に出てはならない。
23:16また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。
23:17年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。
出エジプト23章15-17節
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と、書かれています。
イスラエルの男子は年に三度主の前に出なければならない。
このとき、人々は、エルサレムに集まりました。
この中でも、特に、過ぎ越しの祭りについては、おなじ出エジプト記にこうかいてあります。

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・過ぎ越しの祭り(出エジプト記12章1-7節)
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1主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
2「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
3イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
4もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
5あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
6あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、
7その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
出エジプト記12章1-7節
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これが、過ぎ越しの祭りの始まりです。そして、キリストの贖いの型であり、また、今、私たちの行う聖餐式の原型でもあります。
この時期、人々は、出来ればエルサレムで過ぎ越しの祭りを祝おうと、巡礼の旅に出たのです。
それはまた、申命記にこうかいてあるからでもあります。

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・御名が御名を住まわせるために選ぶ場所(申命記14章23-26節)
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23主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。
24もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、
25あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。
26あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。
申命記14章23-26節
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いまでも、ユダヤ人は過ぎ越しの祭りの時に、最後に、「来年はエルサレムで」と、聖地に思いを馳せるのだと聞きます。

人々は、エルサレムに向かって旅をしていました。
ですから、多くの弟子たちにとっては、ただの過ぎ越しの祭りの為の巡礼の旅であったかも知れません。
しかし、イエス様のそばにいる弟子たちは、そのただならぬ雰囲気を感じ取っていたかも知れません。
その様な中イエス様は、12弟子だけを呼んで、歩きながら、彼らに話されたのです。
その話されたことは、これでした。

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20:18「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
20:19そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
マタイの福音書20章18-19節
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イエス様は、ご自身がエルサレムでどうなるかを明確に語られました。
イエス様は、何の為におうまれになりましたか?
イエスさまが馬小屋でおうまれになり、飼い葉おけに寝かされて、そこから始まったその人生のその目的、それは、このエルサレムで、十字架で死ぬということ、そして、三日目に蘇るというそのことでした。

ですから、イエス様は、まっすぐにエルサレムに向かっていかれました。
それは、正に命がけのことでした。
弟子たちは、この事をどう受け止めたでしょう。

そこに出てくるゼベダイの子達の母のことを見てみましょう。

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20そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
21イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
22けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
23イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
マタイの福音書20章20-23節
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いつの時代も、母親というものは、子どもの為に、理屈抜きの行動に出ることのあるものだと思います。
これもまた、母の愛でしょう。
ここで、ゼベダイの子等すなわち、ヤコブとヨハネの母は、イエス様の前に出て、自分の子ども達が、イエス様の右と左に座れるようにとお願いしたのです。

先ほどの十字架の話は、12弟子しか聞いていなかったとしても、いよいよ、エルサレムに向かうその中で、イエスさまが主要な12人を集めて、お話をしておられる。
しかも、ただならない雰囲気、いよいよ、イエス様は、エルサレムで王になられるのかも知れない。そうだ、今のうちに、息子たちの事をお願いしておかなければ、と、そう、考えたのでしょうか?
これは、想像でしか、ありません。しかし、彼女は、イエス様の前に出て、その事を願います。
そこにいた、二人の息子に、イエス様は、わたしが飲む杯を飲むことが出来ますかと、聞いておられます。
彼らは、「できます」と言います。
しかし、イエス様は、それを聴いた上で尚、それをするのは、父なる神様であるといわれました。

この出来事に腹を立てた弟子たちに対し、イエスさまが言われたのがこうです。

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20:25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
20:26あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
20:27あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
20:28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
マタイの福音書20章25-28節
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いいですか?
イエス様は、ご自身が人々に仕える者として来たように、私たちにも、仕える者となるようにといわれます。
このしもべということばは、ギリシャ語では、ドウロスという言葉で、これは、奴隷という意味の言葉なんですね。

私たちが、人になにかするとき、それは、してあげるという態度でしょうか?
ある方は、感謝を持って、人に仕える為に必要なのは、させていただくという心の態度だといわれました。

奴隷というのは、言われた事をしても、主人からほめられません。
それをするのが当然だからです。イエス様は、つかえるということについて、そのように言っておられます。

しかし、そこまで考える時に、私たちのプライドがむくむくと現れてきます。
人に何かしてあげたときに、あの人は、お礼も言わない、、。と、感じないでしょうか?
私たちは、そこに、御言葉に従えない自分、自分の罪の姿を見なければならないのです。

しかし、それを、我慢して、続ければ言いというものではありません。
それでは、教会が我慢大会になってしまいます。
もちろん、私たちが、目標に到達する為に必要なのは忍耐です。
しかし、我慢すればいいのではありません。

まず、ここで、私たちのすることがどういう意味を持つのか見ておきましょう。

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すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
マタイの福音書25章40節
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ここで、王であるイエス様は、小さいものたちにした事が私にしたのだ。と言われるのです。

ですから、私達にとって大事な事は、イエス様にさせていただいているということです。
ここで、小さい者たちとは、こどものことではありません。
霊の世界での大きさ小ささは、その人の霊的な成長をもあらわします。
霊的に成長していないなら、人は、わがままが出ます。失礼かもしれません。そして、あなたが何かしても、御礼も言わないかもしれません。

ところで、ここで、私、人にお礼も言わない、わがままな、そういう人ですという人は、まず、霊的に成長することが必要です。
毎日聖書を読み、祈り、そして、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった、御霊の実を豊かに住まわせるように歩みましょう。

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御霊の実:愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制
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お話を戻しますが、あなたが、人に仕える上で、小さいものにするとき、小さいものは、わがまま勝手かもしれません。
お礼も言わないかも知れません。しかし、私たちがその人に仕えていく時、それは、主にしたのだと主は言われるのです。
主は、私たちが、そのように主に仕える事を待っておられます。
これは、人に仕えることではなく、主に仕えることです。

その小さいものは、私たちが、主にあって仕えるときに、主の愛を知るのです。
そのとき、あなたのした事は、正に、主の御体としての働きです。

でも、もう一度もどりますが、我慢すればいいのではありません。
こころで、キーーーっとなりながらしているなら、それもまた問題です。

私たちは、主にしっかりとつながって、その実によって、行動していくのです。
そして、先ほども言いましたように、自分が、相手に抱く感情の中、自分の罪の姿を見るのです。

あなたのその罪の為に、イエス様は十字架に架かって死んでくださいました。
そして、その様なあなたの罪の姿、人に対して怒りを抱く、罪の姿を赦し、また、愛して下さるのです。
あなたは、その、主の愛を受け取らなければなりません。
その愛によって、あなた自身が養われ、平安を得なければなりません。
この主としっかりと結びつく為に必要なのは、祈りと御言葉です。

毎にち聖書を読みましょう。そして、祈りましょう。
ところで、先ほどのゼベダイの子達はどうなったでしょう。
母の願いはどうなったでしょう。
一人は、この聖書に、福音書を残し、また、3つの手紙を残し、そして、黙示録をのこしました。
それは、ヨハネですね。そして、人々より後にまで、生き残り、福音を伝えていったのです。最後の晩餐のときに隣にいたことでも知られています。

もう一人は、使徒たちの中の最初の殉教者となりました。
このことで、人々は、祈りによる戦いを学び、そして、ペテロを主は救われました。

最初の殉教者はステパノです。そして、その次に殺されたのは、ヤコブでした。

主の杯が、殉教であるなら、最初に殉教したのは、ステパノです。彼が右に座ったとは言いませんが、イエス様の飲む杯を彼は飲んだのです。
二番目に殉教したのは、ヤコブでした。新約聖書の中で、実際に殉教したことが記録されている弟子はこの二人だけなのです。

父なる神様は、ステパノを、最初の殉教者として備えておられました。迫害によって、ステパノは、石打にされ、天のイエス様を見ながら眠りについたのです。
そして、ヤコブがヘロデの剣によって、殺されました。

そのどちらもが、主を愛するがゆえに、死んでいったのです。
その様なヤコブ、そして、黙示録を書き上げたヨハネ、その二人を見るときに、母の祈りは聞かれたのかも知れません。

主は、命を懸けて仕えたものを高くされました。

私たちは、自分の事で、生き、そして、死ぬのでしょうか?それとも、小さいもののために、生き、そして、しぬのでしょうか?

私たちが、こころから、互いに仕えあうものとなることができるように祈りましょう。
どうぞ、課題の祈りもお祈り下さい。

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。



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