礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20060122
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7つのパンと魚
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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---祈り---

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。

主は、私たちの全ての必要を満たし、また、私達を通して素晴らしい御業を成される方です。
この方を覚えつつ、御言葉を聞いてまいりましょう。

まず、早速ですが、聖書箇所の朗読を、司会者お願いします。

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聖書箇所:マタイの福音書15章32-38節
・新改訳Up28・新改訳Vp31
・口語訳p25・新共同訳p30・現代訳p31
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聖書箇所のテキスト
15:32イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」
15:33そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう。」
15:34すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
15:35すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。
15:36それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。
15:37人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。
15:38食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。
マタイの福音書15章32-38節
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続きまして、主題聖句の暗唱を、教会学校の皆さんお願いします。

<あんしょう>

では、皆さんでいいましょう。

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主題聖句:
人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。
マタイの福音書15章37節
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はい、ありがとうございます。

聖書の通読は、旧約は出エジプト記にはいります。また、新約は、もうしばらくマタイの福音書が続きます。

出エジプト記は、過ぎ越しの祭りや、十戒といった、非常に大切な事が書かれています。
これは、聖書の基本となる事柄です。是非、皆さんお読み下さい。

前に読んだという方も、きっと新しい発見があると思います。
また、それ以上に、これは、あなたの霊の食物です。

食物といえば、この箇所に、荒野で、人々の命を養う為に、神様が与えられたマナが出てきます。
マナという言葉は、教会にいると、人の名前でよく聞くのですが、そのマナはいったい何なのか?
それも、出エジプト記を読むとわかります。是非皆さんお読み下さい。

先週のバイブルクイズの方は、

旧約:パロの夢に出てきた動物は何でしたか?
新約:律法学者、パリサイ人はイエス様に何を見せてほしいと言いましたか?

となっています。
これの答えは、

旧約:雌牛(創世記41章2節)
新約:しるし(マタイの福音書12章38節)

ということですが、皆さんわかったでしょうか?
また、是非、読んでおいてください。

では、聖書箇所のお話に戻ります。

今日は、このところから、今日は、「7つのパンと魚」と題しまして、御言葉を共に、見て行きたいと思います。

今回の箇所は、イエス様がなされた、4000人の給食という出来事です。

聖書を見ますと、イエスさまがこのように、たくさんの人々の為にパンをさかれたことが、6つの箇所で書かれています。
マタイとマルコには、5000人の給食と、4000人の給食がかかれており、あとのルカと、ヨハネには、5000人の給食だけが書かれています。

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マタイの福音書14章パン5コ魚2匹男5000人12カゴ
マタイの福音書15章パン7コ魚少し男4000人7カゴ
マルコの福音書6章パン5コ魚2匹男5000人12カゴ
マルコの福音書8章パン7コ魚少し男4000人7カゴ
ルカの福音書9章パン5コ魚2匹男5000人12カゴ
ヨハネの福音書6章パン5コ魚2匹12カゴ
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また、新約聖書のなかで、パンと言う事を調べると、113の節に、パンのことが書かれている事が分かります。
パンは、聖書の中で、非常に重要な言葉です。

この箇所において、人々に対する、愛と、あわれみから、イエス様は、人々にパンをお与えになろうとされたことがわかります。

イエスさまはまず、こういわれました。

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「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」
マタイの福音書15章32節

「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう。」
マタイの福音書15章33節
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そして、33節は、それに対する弟子たちの返事です。
ここで、弟子たちは、イエス様の計画に対して、彼らなりに考えた結果、無理だと考えました。

確かに、これは、十分なお金があったとしても、大変なことです。
どうですか?一人にパンを二個買うとしても、200円でたらないでしょう。ですから、300円くらい5000人ですから150万円渡されて、パンを一万個買ってきてくださいと言われたら、買って来れますか?
あそこのスーパーとこっちのスーパーも、そして、あそこのパン屋さんも行っても、まだ足らないかも知れません。

しかし、先ほど読んでいただいたように、イエス様がそれを祝福されると、それは、増え、そして、4000人が満腹して、7つのカゴがいっぱいになったのです。
パンは7つでした。その一つ一つが、一つのカゴいっぱいのパンになりました。いや、それだけではなく、すでに、4000人、いや、女とこどもを入れると、おそらく、一万人ほどの人が、おなかいっぱいになったのです。

実際にどんな風にパンは増えたのか、見てみたいなあと思うことがあります。

とにかく、ここで、イエス様は、そこにあった7つのパンと魚で、4000人が満腹するようにされたのです。

ここに、私たちが注目しておくべきことがあります。

まず、イエス様の前に、7つしかなかったパンと、少ししかなかった魚が差し出されました。

私たちは、一つの事を教えられます。
弟子たちにとって、いや、そこにいる誰にとっても、この4000人を養うのに、何の役にも立たないと思えるパンと魚が、イエス様の前に差し出されたのです。

皆さん考えてください。

私たちは、何かの目的を果たそうと考える時、そのために必要なものをもっていないと思うかも知れません。
あなたが考えている目的の為に、あなたの持っているものは余りにも小さいと思うかも知れません。
確かに、わたしが、パンを一個しか持って無くて、20人、、いや、ユースタイムで、8人くらいで食べようとしたら、一人分はこんなひとかけらで、
皆、これじゃあ、おなかが膨れませんよって、困ってしまいます。
私たちの目に見える持っているものが、そのように、明らかに足らない時、しかし、主が、それをされようとするなら、私たちは、自分の持っているものを、主の前に差し出さなければなりません。

あなたは、何を持っているでしょう。
主があなたに与えておられるものはなんでしょう。

あなたの持っているもの、それが、実際にパンであるか、何かものであるか、お金であるか、また、もっと形の無い、何かの出来る能力であるか、分かりません。
しかし、その持っているものは、イエス様の前に差し出されなくてはならないのです。

あなたがそれを、イエス様の前に差し出す時、それは、祝福されて、イエス様の御心が実現します。
ここで、人々にパンを与えようとされた、イエス様の御心が、差し出された7つのパンによって、実現したように、私たちの持っているものを差し出す時、
あなたは、それを出しても、何もならないと思うかも知れない、しかし、主が祝福されるなら、それは、大きく用いられるのです。

主は、あなたの、差し出す小さなものも、大きな祝福に変える事の出来るお方です。
しかし、このときに一つ大事な事があります。
マルコの福音書にこういうところがあります。

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41それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
42そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
43すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
44みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
マルコの福音書12章41-44節
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ここで、イエス様は、一人のやもめが、だれよりも捧げたといっています。
それが、彼女の全てだったからです。

あなたの差し出す小さなものも、主は大きな祝福に変えてくださいます。
しかし、金持ちの捧げた大金よりも、やもめのささげた小さなお金のほうを、イエス様は尊いとされた。

同じように、まあ、あなたが、パンを20個持っていて、神様、7つあったら大丈夫なんでしょ?
と、7つのパンだけ差し出すなら、神様は、残りの13個をどうするのかなあと見ておられるかも知れません。
いや、それよりも、後の13個を残して、7個を捧げたら、それは小さな7個ではありません。
十分にある中での7個です。

それは、個数の大小ではありません。

ある方は、事業で得た大きなお金を、宣教の為に捧げておられます。
それは、尊い捧げ者です。
ある方は、その様な大きな献金を、宣教の働きの為にまだまだ足らないと、捧げておられます。
それは、その方にとって、小ささ、たらなさ、弱さです。
それを通して、主は働かれます。

勿論、私たちが、どれだけ神様の前に捧げるかは、私たちの自由ですが、しかし、あなたがその様にするとき、その差し出した7つで、4000人をおなかいっぱいにする事が出来るとは期待できません。
主は、弱いところに働かれます。

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しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
コリント人への手紙第二12章9節
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私たちの弱いと思っている所を通して、主は働かれます。
あなたの精一杯さしだした、弱さに見える7つに、主は働かれます。

弟子たちが、どう考えても、4000人にはたらないと差し出した精一杯の7つのパンを、主は祝福して用いられたのです。
ですから、私たちは、何をするにおいても、精一杯行うのです。

しかし、あなたが、精一杯行うなら、あなたの差し出したものが、人の差し出すものと比べてどうかは関係がありません。
なぜなら、主は、やもめの2レプタを誰よりも沢山だと言われたのです。

あなたが主から預かっているのはなんでしょう。

何かをする能力でしょうか?
または、何か物でしょうか?

私が教会に行き始めた頃、礼拝で、ギターを弾く人がいませんでした。
私は対してうまくなかったのですが、いまでもかもしれませんが、、。
何か、神様の役に立ちたいと思って、ギターを弾きました。

私の母教会で、礼拝にギターが取り入れられたのは、それがきっかけでした。
たいしてうまくもない私のギターがスタートになったのです。


例えば、キーボードを弾く能力、ギターを弾く能力、でも上手に引けないかもしれません。
でも、それを、主の前に差し出していく。
それは、恥ずかしいこともあるかもしれません。
しかし、神殿で、レプタ二つを捧げたやもめは恥ずかしくなかったでしょうか?
金持ちがたくさん入れているところで、しかし、やもめは、主の前に捧げたのです。

あなたの奉仕を主の前に出す時、主はそれを大きくされます。
また、あなたの持っているものを主の前に出す時、主はそれを大きくされます。

あなたに神様が預けておられるものを、あなたが小さいといってはなりません。
思えば、あの4000人の給食のとき、7つのパンは誰が持っていたのでしょう。

5000人のときの5つのパンは、子供がもっていたようです。
4000人の時は、書いて無いのでわかりません。
もしかしたら、誰か、一つずつ、持っていたかもしれません。
いや、もしかしたら、その前の、子供がさしだしたパンで5000人を養った時の余ったパンの最後の残りが、この7つだったかもしれません。

でも、そのパンを、とにかく、主の前に出したのです。
そして、主は、このパンを祝福して、人々を養ってくださいました。

この出来事の後、マタイの16章で、ペテロはいいます。

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シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
マタイの福音書16章16節
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イエス様は神の御子です。
そして、ヨハネはいいます。

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すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
ヨハネの福音書1章3節
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イエス様は、全てのものを創造された方です。
何も無いところから、全てを造られた、神の御子がイエス様です。

だとすれば、7つのパンなんてなくても、イエス様は、ちょうど、天からマナを降らせたみたいに、人々を養うことも出来たはずです。
しかし、イエス様は、そうされません。
なぜなら、イエス様は、私たちと神様との関係を取り戻す為にこられたからです。

わたしたちと神様の関係、それは、すなわち信仰です。

7つのパンを差し出すのは信仰です。
あなたのその信仰に主は働かれます。

あなたが信仰によって、捧げるのであれば、主は、それを大きく用いてくださいます。
しかし、主は、私たちの心を見ておられます。

あなたの7つのパンを主の前に差し出しましょう。
それが何であるかは、わかりません。
もし、あなたもわからないなら、祈りましょう。

イエス様がエルサレムに入城されるとき、イエスさまが必要とされたのは、ロバでした。

そのとき、こう書いてあります。

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もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」
マルコの福音書11章3節
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結局のところ、主が求めておられるのは、あなた自身、あなたの心です。

主が、あなたをご入用なのです。

お祈りしましょう。



[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。



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