礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20051113
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永遠の大祭司であるキリスト
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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---祈り---

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、私たちの為に十字架に架かり死んでくださり、
三日目に蘇られ、天に昇り、永遠の大祭司となられた方。
今も、私達をとりなして、祈っていてくださる方です。
この方を覚えつつ、主の御言葉を聞いて参りましょう。

さて、いつものように聖書をお読み戴きましょう。

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聖書箇所:
ヘブル人への手紙6章9-20節
・新改訳Up394・新改訳Vp430
・口語訳p348・新共同訳p407・現代訳p398
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では、司会者お願いします。

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6:9だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。
6:10神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
6:11そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
6:12それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。
6:13神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、
6:14こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」
6:15こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。
6:16確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。
6:17そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。
6:18それは、変えることのできない二つの事がらによって、――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。――前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。
6:19この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。
6:20イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。
ヘブル人への手紙6章9-20節
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はいありがとうございます。
では、主題聖句の暗唱を、教会学校の皆さんお願いできますか?
<あんしょう>
では皆さんでいいましょう。

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イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。
ヘブル人への手紙6章20節
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では、このところから、永遠の大祭司であるキリストと題しまして御言葉を見てまいりたいと思います。

聖書通読は、旧約はエゼキエル書新約はヘブル人への手紙が続きます。
エゼキエル書は暗くて嫌いな人もおられるかも知れません。
滅びに向かうイスラエルの姿が書かれている書でもあります。
しかし、この書には、そのイスラエルに対する神様の哀れみが語られています。
是非、皆さんエゼキエル書をお読みください。
また、ヘブル人への手紙は、イエス様のなされた贖いの意味が、旧約の律法に照らして書かれており、イエス様が律法を成就されたというその事を学ぶことの出来る書です。
皆さん共に主の御言葉を聞いてまいりましょう。

また、バイブルQは、

旧約:
バビロンの王に反逆したユダの王は誰ですか?
新約:
パウロはテトスをどこに残しましたか?

でしたが、答えは、週報に書きましたように、

旧約:ゼデキヤ(エレミヤ52章3節)
新約:クレテ(テトスへの手紙1章5節)

です。このことも聖書でご確認ください。


さて、先週お話ししました、姉妹の葬儀に絡みまして、
一つ、皆さんにお話しておかなければならないことがあります。
それは、私たちが死んだらどうなるかということです。

先日御言葉を開きましたが、こう書いてあります。

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主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
テサロニケ人への手紙第一4章16節
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この箇所からは、死んだものは、主の来られる時まで、眠っているのがわかります。
死後の世界については、色々な捕らえ方があるのですが、主を信じて死んだものが、再臨まで眠っている事をこの箇所は教えています。
ですから、今、死んだ誰かが、私たちの為に天でとりなして祈ってくれると考えるとしたら、それは間違いであるとも言えるのです。
私たちと神との間のとりなしてはただ、イエス様お一人です。
誰も、他にその働きをすることは出来ません。
そして、主の来られる時まで眠っている者は、天から私達を見たりとかそういう事は出来ないのです。

ただ、霊の世界は時間と空間を越えています。
ですから、私たちの感覚と違うことが無いとは言い切れません。
しかし、なにより大切なことは、ただイエス様だけが、私たちと父なる神様との間でのとりなし手であり、祭司であると言うことです。

また、仏教などの背景においては、死んだものの為に、祈ることで、天国に行けるという考えがあります。
ですから、冥福を祈るという言葉が出てくるのです。
しかし、このことについても、人が死んで、天国、また地獄に確定したそのことは変わりません。
その人自身の信仰だけが、その人と神様との関係を作り、そして、人を救うのです。

死んだ人がどんなに立派な信仰者であったとしても、イエス様に変わることは出来ません。
ですから、私たちは、今、この地上において、イエス様を信じ、また、イエス様と共に歩むことが大切なのです。

今回の箇所は、このキリストがどういう方であるかを、旧約聖書から示しています。

この箇所でまず、説明しなければならないのは、メルキゼデクです。
この人が誰なのかわかりますか?子どもたち、。

この人の事を聖書で探してみましょう。

メルキゼデクは聖書の中に10の箇所で出てきます。
まず、旧約聖書の中で、創世記と詩篇
そして、ヘブル人への手紙に8回です。
今回の箇所を含めて、
5章6節
5章10節
6章20節
7章1節
7章10節
7章11節
7章15節
7章17節
と、出てきます。

この中で、実際にメルキゼデクが登場するのは、創世記の14章18節です。
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また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。
あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
創世記の14章18-20節
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かれは、シャレムの王であったと書かれています。
まだ、祭司の制度が出来上がる前に、族長であったアブラハムは、ここではまだ名前を帰る前でアブラムですが、彼からの祝福を受け、十分の一をこの人物に与えているのです。

彼は、この他のところで、何もその姿が出てきません。
系図にも記されず、どういう人物かもわからない。しかし、シャレムの王であった。

新約聖書では、シャレムがサレムとなっています。

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このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
ヘブル人への手紙7章1節
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つづきの7章を見ますと、こうなっています。

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2またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。
3父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
4その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。
ヘブル人への手紙7章2-4節
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なぜ、この事が書かれているかお分かりでしょうか?

ここで、イエスさまが祭司であることについて説明する為に、このヘブル人への手紙の著者は、このことを書いているのです。

イエス様は、ユダ族に属し、ダビデの子孫でした。

旧約の律法では、レビ族のアロンの子どもが祭司になると定められていました。

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あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。
出エジプト記30章30節
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このことからすると、イエスさまが祭司としての贖いをすると言うのは、不思議なことなのです。
律法に精通した者たちからは、疑問の声があがる事柄であるわけです。

しかし、詩篇の110篇にこうかいてあります。

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1主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」
2主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵の真中で治めよ。」
3あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。
4主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」
詩篇110篇1-4節
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これは、ダビデの賛歌といわれるのですが、この中で、ダビデは、主は私の主におおせられるとはじめています。
これを見て、何か思い出しませんか?

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ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』
マルコの福音書12章36節
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これは、マタイ、マルコ、ルカ3つの福音書に出てくるのですが、イエスご自身が語られた言葉です。
ここで、キリストである方を、ダビデは、主と呼んでいることがわかります。
そして、その方は、敵の真ん中で治める方、そして、その方が、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司であるかたなのです。

このかたは、統治者であり、つまり、王です。しかし、同時に祭司であるかたなのです。

このダビデが幻に見て、詩篇に歌たった方は誰ですか?
それが、ご自身であることを、キリスト・イエス様は、福音書の中で示すために、この箇所を引用されたのです。

イエス様はキリストであり、そして、祭司である方です。

このサレムの王は何をしましたか?
まず、パンとぶどう酒を持って来て、アブラムを祝福しました。
そして、アブラムから十分の一を受け取ったのです。

このとき、まだ、出エジプトよりも、400年前なのです。
皆さん、私たちのこの聖餐式は、出エジプトの時の過ぎ越しの祭りに由来するのです。
しかし、それよりも、はるかに前、アブラムのところにきたメルキゼデクは、パンとぶどう酒をアブラムに与えたのです。

これが、すごいことだということがわかりますか?

まだ、過ぎ越しの祭りの無い時代に、アブラムとメルキゼデクは、パンとぶどう酒による聖餐式をおこなったのです。

そして、その事を執り行った祭司は、アロンの系図と全く関係の無い人物だったのです。
当然です。まだ、アロンはうまれていないのです。

私達にパンとぶどう酒をお与えになり、その事を、ご自身の贖いの御業を象徴するものとされたのは、
ほかでもないイエス様です。

ここで、現れている、人物を聖書は、

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その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ
ヘブル人への手紙7章3節
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と、書いています。
メルキゼデクは、この地上に受肉される前にこられたキリストだったのではないかとも言われます。

しかし、どちらにしても、聖書は、ダビデの言う、私の主、つまり、キリストが、メルキゼデクに等しい祭司であると語るのです。

そして、実際にこの地上にこられたイエス様は、永遠の祭司でした。

皆さん、今回少し難しい話になりましたが、もう少し考えて見ましょう。

祭司は、かならず、何か捧げ者を持って、神様の前に出るのです。

アロンは、牛や羊を裂いて、その血を捧げ物として、神様の聖所に持っていきました。

では、イエス様は、何を捧げ物とされたでしょう。

それは、イエス様ご自身の御身体ですね。

イエス様は、ご自身の御身体を捧げ物として、そして、ご自身の血を流して、それを捧げ物として、聖所に入っていかれました。
しかし、それは、この地上にある神殿の聖所ではありませんでした。

天にある本当の聖所に、イエス様は行かれたのです。
そして、そのことにより、未来永劫、完全な罪のあがないを成し遂げられたのです。

これが、キリストの成された救いの御業です。
そして、これは、律法に定められた事柄の成就であったわけです。

さて、イエス様は、永遠に大祭司となられました。

永遠の大祭司であるというのは、どういうことでしょう。

昔も、今も、そして、未来も大祭司であるということです。

イエス様は、私たちの過去、現在、未来の全ての罪の赦しを成し遂げて、天で、とりなす大祭司となってくださいました。

ですから、今、私たちは、自分の罪の為に、誰か祭司に話して、祈ってもらう必要は無いのです。
もちろん、大きな悩みは、それを共に背負い祈るために告白することがあってもよいのですが、私たちは、それぞれ、大祭司であるイエス様の元に出ることができるのです。
そして、羊の血による贖いをしたアロンにはなしえなかった、本当の、完全な罪の贖いを、イエス様はなしてくださるのです。

この方に、自分の罪を告白し、祈りましょう。
そして、主からの赦しを受け取りましょう。
お祈りしましょう。

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。



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