礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20050925
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キリストにある誇り
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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---祈り---

みなさん、おはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は私たちの誇り
私たちが弱い時も共にいて支え導いてくださる方。
いまもここに、私たちの礼拝の中に居られる方です。
この方を覚えて、主の御言葉を聞いてまいりましょう。

では、まず、本日の聖書箇所をお読みいただきましょう。
司会者お願いします。

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聖書箇所のテキスト
11:18多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
11:19あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。
11:20事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。
11:21言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、――私は愚かになって言いますが、――私もあえて誇りましょう。
11:22彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
11:23彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
11:29だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
11:30もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
コリント人への手紙第二11章18-30節
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はい、ありがとうございます。

では、つづいて、主題聖句の暗唱をお願いします。

<あんしょう>

では、みなさんでいいましょう。

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主題聖句:
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
コリント人への手紙第二11章30節
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では、今日はこの所から、キリストにある誇りと題しまして、御言葉を共に見てまいりたいと思います。
先週の23日は、中高生タイムの皆で、「神戸レボリューション」という集会に参加するために神戸に行きました。
若者たちによる、若者たちの集会ということで、集会の何もかも、メッセージまで、若者たちでなされていました。
ゲームに劇、そして、賛美、証、メッセージ、どれも、良く練り上げてあって、感心しました。

おなじ、先週の19日から22日まで、TLオズボーン師の集会が東京でありました。
TLオズボーン師は、終戦直後から60年間世界中を回って活躍された伝道者で、日本へは50年前に来ておられ、まあ、50年ぶりの来日ということだそうです。
インターネットでの紹介を見ると、「教会史上最も用いられた伝道者の1人。65年間に亘って世界中で何百万人に救いを、何十万人に癒しをもたらして来られた。チョウ・ヨンギ師やR.ボンケ師のような器に多大な影響を及ぼされた。」と書かれています。
著書も豊富で日本語に訳されているものとして、「みことばの力」「キリストによる癒し」「キリストと生きる新しいいのち」などがあります。
濱本先生が、この集会に参加されまして、先日送って下さったメールに、
「19日から東京へ行っていました。今日、帰ってきました。TLオズボーンのセミナー、今度ほどインパクトを受けたセミナーはありませんでした。福音の神髄、聖書のキリスト教とは何かを明確に、力強く、60年間にわたるミニストリーの中から語ってくれました。
これから日本にすごいことが起こってくる予感を感じる集会でした。」
と、書かれていました。

主が、日本に素晴らしい事を始めようとして下さっておられる。先の若者の集会をみても、その事を感じます。
日本に主がしてくださることに期待して、祈り続けたいと思います。

さて、御言葉に戻りたいと思いますが、キリストにある誇りについて、共に聖書を見て行きたいと思います。

皆さん、あなたにとって、誇りはなんでしょうか?
自分の能力、所属するグループ、持ち物、色々あると思います。

今回の御言葉の箇所は、パウロの歩みが書かれているところです。
パウロという人がどういう人なのか、そして、どんな歩みをしたのか、そのことが、書かれているわけですが、少し読んだだけでも、それが、困難に次ぐ困難な歩みであったことがわかります。
このようなパウロの歩みを通して、福音は、ギリシャへ、ローマへと伝えられていきました。
パウロは、この事を語る前に、「愚かになって言います」と、語りはじめます。
少したどってみたいと思うのですが、

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23私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
24ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
25むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
27労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
28このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
29だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
30もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
コリント人への手紙第二11章23-30節
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彼にとっての誇りとは、キリストにある苦難そのものでした。
こんな立派な事をしたというのでなく、ただキリストにある苦難が彼の誇りだったのです。

しかし、それすら、おろかなことだとパウロは言います。

私も誇るといって、様々に受けた苦しみ、困難、その数々をあげ、そして、自分の教会への心遣いについて語り、人々を思う自分の心の痛みを語ります。

そして、それらを語りながら最後にパウロは言うのです。

もし、どうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。

実は、このコリント人への手紙第二というのは、聖書の中でも、誇るとか誇りと言う言葉がたくさん出てくるところです。
パウロはこの箇所で、私たちが誇るべきものがなんであるのかを教えようとしています。

パウロは、自分については、弱さを誇ると言います。
弱さとはなんでしょう。それは、弱点です。
あなたが、ボクシングをするとします。そのとき、この左のひじが怪我をしてるから弱いんですと相手にいうなら、それは、馬鹿な話です。
しかし、弱さを誇るとは、そういうことです。自分自身の弱さをさらけ出し、そして、主により頼む。
それが、弱さを誇ることです。
また、今回の聖書箇所の少し前では、

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誇る者は、主にあって誇りなさい。
コリント人への手紙第二10章17節
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と、語っています。
主を誇る。

そして、エペソ人への手紙で、パウロはこういいます。

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行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
エペソ人への手紙2章9節
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パウロは、私たちのしたことが問題ではなく、ただ主を誇るのだと教えています。
これは、自分の弱さをさらけ出し、ただ主により頼むことです。


サムエル記第一の中で、ダビデは主を誇りとして、ペリシテ人の代表戦士ゴリヤテに勝利しました。

ダビデの姿は、とてもゴリヤテに立ち向かえるようなものではありませんでした。
そのときの王サウルも、あなたはあれと戦うことは出来ないと、言っています。
しかし、ダビデは、生ける神の陣をなぶったものは撃ち殺されるのだといい、そして、主が私を救い出してくださると言って、そのペリシテ人に立ち向かいます。

36このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」
37ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」
サムエル記第一17章36-37節

ダビデは、ゴリヤテに向かって言います。

45ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
46きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
47この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」
サムエル記第一17章45-47節

皆さん良くご存知の通り、ダビデは、ここで、大きな勝利を得ました。
ダビデが石投げではなった一つの石が、ゴリヤテの額に当たり、ゴリヤテは倒れ、そして、ダビデは、ゴリヤテの剣をとって、その首をはねたのです。

ここで、聖書が教えようとしていることはなんでしょう。
やっぱり、石投げは素晴らしい武器だ。とかそういうことではありません。

それは、どう考えても、ゴリヤテに太刀打ちできない武器だったのです。
ゴリヤテは、槍や剣を持っていたとダビデはいいます。
しかし、ダビデはそんなものを持っていませんでした。
もし、最初の石があたらなかったら、もう、ダビデには御を守るすべもありません。
考えてください。ゴリヤテだって、ダビデの石をはじき返すことも出来たかもしれないのです。
そうなったら、もう終わりです。
ダビデは、もし、ゴリヤテが向かってきた時、自分を守る盾さえ持っていませんでした。

まさに、ダビデは、ただ主を誇り、裸同然でゴリヤテに立ち向かい、勝利を手にしたのです。
だだ主により頼む勝利、それが、このダビデの勝利でした。
ダビデは、主を誇り、勝利を得ました。
自分自身には、なんの誇りとするものがなかったのです。
ダビデは、本当に、神様を知る王となりました。

しかし、そのダビデも、さまざまな罪を犯しました。

では、そのダビデの犯した最大の罪はなんだったと思いますか?

ダビデが犯した罪として有名なものに、ヘテ人ウリヤの妻バテシェバを奪ったと言うものがあります。
ウリヤを殺して妻をうばったという、大変な罪です。
しかし、聖書を見ていると、これが、ダビデの最大の罪ではないようです。

ダビデが王であったときの事は、サムエル記第二に書かれています。
その中で24章の最初の方に、ダビデがイスラエルの民の人口を数えさせたという出来事が書かれています。
側近のヨアブは、血気盛んな、問題の多い人で、最後にダビデの息子ソロモンが王になったとき、殺されてしまったほどの、問題の多い人でしたが、
この人でさえそれが罪である事を分かっていました。
しかし、ダビデはそのヨアブを説き伏せて、人口調査をさせました。
その後、こう書いてあります。

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ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」
サムエル記第二24章10節
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このイスラエルの王ダビデの罪の為に、イスラエルの民は、疫病で7万人が死にました。

なぜ、ダビデはこのようなことをしてしまったのでしょうか?
老齢になり、国も安定したダビデは、その自分の国の国力がどのようなものか知りたかったのでしょうか?
諸外国に対抗する為にどれだけの力があるか知りたかったのでしょうか?

しかし、このことは、大きな主の怒りを引き起こしました。
主の力ではなく、自分の力を図ろうとすること、それは、主の前で愚かなことです。

ダビデは、詩篇の23篇の中でいいます。

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主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
詩篇23篇3節
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主は、主の御名のために、ダビデを義の道に導かれるということです。
別なところでは、主は御名の為に、私たちを救い出されるとも歌っています。

指導者には、二つのタイプがあると言われます。

塾などを見ると分かりやすいと思うのですが、ある塾の講師は、ただ、生徒が分かろうと分かるまいと、教えるだけです。
分かっていない生徒は、当然出来ませんから、志望校に受かることが出来ません。
ある塾は、志望校に合格させる事を目的としている塾があります。
それは、その塾の評価が、何名志望校に合格させたか、また、落ちこぼれを出さなかったかにかかっているからです。
そのような塾の講師は、やっていない生徒をやらせ、わからない生徒にわからせる努力を、塾の講師がするのです。
あるときは、その生徒が志望校に受かりたいと思っている以上の情熱を、その生徒が志望校に合格すると言うことにかけます。

そのような、講師の指導を受ける生徒が、志望校に受かった時、それは、ただ、その生徒の能力ではありません。
それ以上に、その生徒を受からせようとした、講師の能力でもあるわけです。
いや、ある生徒にとっては、100パーセント講師の能力かもしれません。

主は、あなたを祝福すると言われます。

主は、御名の為に、私を、あなたを義の道に導かれる方です。

それならば、私たちが義とされるのは、主によります。

あなたの何かによってではなく、主があなたを義の道に導かれる。

主は、あなたが、祝福されようとそうでなかろうとどっちでもいいのでなく、主の御名為に、あなたを導かれるのです。

御名の為に。
つまり、もし、あなたを主が導かなかったなら、主の御名にかかわるわけです。

主は、熱心にあなたを導かれます。
この主に、私たちは、ゆだねましょう。

自分の何かにより頼もうとするのでなく、ただ、主を誇りとして歩むのです。
それは、あなたが思いもよらなかったような、祝福と勝利の道です。

あなたは、どんな夢を持っておられますか?
あなたは、どんな人生を歩みたいと思っておられますか?
あなたは、祝福に満ちた人生を歩みたいと思っておられますか?

いや、私はもういいんや、とか、
神様は、どうせわたしのことなんかとか
言わないで下さい。

神様は、神様ご自身の御名のためにあなたを導かれます。

その為に、すでにあなたに主イエス様を与えてくださいました。
イエス様は、あなたの身代わりに十字架で死んでくださったのです。

それは、あなたが主にあって、人生を歩む為です。

ですから、あなた自身を誇りとするのでなく、
キリストを誇りとして歩みましょう。

それは、どういうことでしょう。
自分の弱さをさらけだし、空っぽの自分をさしだして、全てを主により頼んで歩むということです。

お祈りしましょう。


[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。



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