礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20050904
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全てのかしらであるキリスト
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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---祈り---

みなさんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、この教会の頭であり、今もここに臨在される方です。
この方を覚えて主の御言葉を聞いて参りましょう。

さて、まず、本日の聖書箇所をお読み頂きたいと思います。
司会者お願いします。

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聖書箇所:コリント人への手紙第一11章1-16節
新改Up304新改Vp332口語p268新共p313
11:1私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。
11:2さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。
11:3しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
11:4男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。
11:5しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。
11:6女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。
11:7男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。
11:8なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、
11:9また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
11:10ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。
11:11とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
11:12女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
11:13あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
11:14自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、
11:15女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。
11:16たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。
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では、続いて、教会学校の皆さん。主題聖句の暗唱をお願いします。

<あんしょう>
では、みなさんでいいましょう。

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主題聖句:
女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
コリント人への手紙第一11章12節
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では、今日は、これらのところから、「全てのかしらであるキリスト」と題しまして、聖書の言葉を共に見て行きたいと思います。

先週の日曜日と、次の月曜日、平川静江姉の前夜式と葬儀がありました。

あまりに綺麗なお顔で、涙も止まるほどでしたが、やはり、長い別離には悲しみがあります。
とはいえ、わたしなどはまだ、平川姉が召されたことが、はっきりとわかっていないようです。
ご遺族のさみしさはいかばかりかと思うのですが、慰めと励ましがあるようにお祈り下さい。
しかし、その葬儀は、本当に、凱旋の喜びに満ちた葬儀で、故人をしのびながらも、天国へ希望を感じさせられました。
召されたのが土曜日で、日曜日の夜の前夜式でしたので、日曜日の午前中は、グレイスチャペルでは、遺体が講壇の横に置かれて礼拝がもたれました。
天に召されるそのときまで、その体は、礼拝を捧げた、本当に、平川姉らしいと感じました。
私たちは、いつか、イエス様の待っておられる天国に帰る。これは、素晴らしいことです。
しかし今、私たちは、この地上で歩んでいます。
その中で、私たちがするべきことは何か、それは、キリストにしっかりと結びついていることです。
平川姉は皆さんご存知のとおり、本当にイエス様を見ておられました。
私たちも、イエス様を見続けましょう。

その為に、私たちは、御言葉、すなわち、聖書の言葉を読み、祈るのです。
聖書通読は、旧約は、詩篇ですね。詩篇ももう少しで終わりです。
また、新約聖書は、コリント人への第一の手紙です。
バイブルQ、聖書クイズもその中から出しておりますので、ご覧下さい。

前回出しませんでしたので、コリントの位置を見ておきましょう。
コリントは、アテネの西ですね。<画像>
パウロの伝道旅行地図
http://www.cityc.net/image/MapPaul1.jpg




御言葉にもどりましょう。
「全ての頭であるキリスト」とのタイトルで御言葉を見て行こうとしております。

私が、教会に通い始めたころ、いまから、20年ほど前になりますが、一つの質問を受けました。それは、教会の頭は誰ですか?という質問でした。
牧師先生じゃない、長老や執事でもない、教会の頭はキリストだ、イエス様だと教えていただきました。

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なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
エペソ人への手紙5章23節
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キリストは、教会の頭です。ところで、ここで、今回の聖書箇所と同じに、キリストと教会の関係は、夫と妻の関係になぞらえられています。
それは、それほどに、教会とキリストは、親密な関係、一つであるということです。

また、このキリストは、教会だけの頭ではありません。

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そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
コロサイ人への手紙2章10節
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このように、キリストは、全ての支配と権威の頭です。
そして、このキリストは、教会に与えられているのです。

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また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
エペソ人への手紙1章22節
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そうだとするなら、私たち、教会は、どれほど重要なものでしょうか?
もし、ここに、総理大臣や、大統領といったような人がいたらどうですか?
あのこともお願いしてみようかなとか、そうなるでしょうか?

私たち、キリストにある群れは、一切のものを従わせておられる方が、おられるところなのです。

そして、教会は何か。それは、キリストの体です。
聖書にこうかかれています。

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教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
エペソ人への手紙1章23節
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ですから、私たち一人一人は、キリストの体の一部であるということです。

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あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
コリント人への手紙第一12章27節
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今日は、聖餐式がありますので、もう一箇所御言葉を見てみましょう。

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私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
コリント人への手紙10章16節
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キリストの血にあずかる。キリストの体にあずかる。
これが、聖餐式です。
それは、イエス様の死を覚えるという事を一つの意味としますが、
わたしたちが、キリストの一つの体にあずかる。また、私たちが、キリストの一つの血にあずかるという事を意味しています。
それは、すなわち、私たちが、一つの体であるという事を象徴しているのです。

わたしたちは、キリストを頭とし、キリストにあって、一つの体とされています。

かしらというと、リーダーとか考えるかもしれません。
でも、文字通り、キリストは、教会のあたまです。
そして、私たちは、そのキリストの体なのです。
ですから、キリスト、つまり、イエス様は、この地上で、私たちを通して御業をなさいます。
体である私たちを通して、人を愛し、また、体である私たちを通して、人を癒し、体である私たちを通して、人々を導かれるのです。
これが教会です。

わたしたちは、キリストの体なのです。

さて、この箇所にある、被り物については、当時のユダヤの習慣が、大きな位置を占めています。
カトリックのシスターたちが被り物を被っている理由の一つがここにありますが、
プロテスタントの教会でも、女性は帽子を被ってないといけないところがあるようです。

私たちの教会では、この事をしていませんが、それを採用しない理由の一つとしては、16節で、パウロは、そのような習慣について述べていて、これが、当時の習慣に基づくものであると分かるからです。
当時、女性たちは、被り物をしていました。
パッションの映画などをみてもそうですね。女性たちが被り物をしています。
それは、女性の長い髪を、ほこりなどから守る働きや、顔をさらけ出さないなどの理由があったと思うのですが、
いま、そのような事を全ての女性がしているわけではありません。
ですから、いまの文化の中では、そのような事をしていません。

それよりも、今の文化の中でも変わることの無いこととして、この箇所が言っていることがあります。
それは、
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11:8なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、
11:9また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
11:11とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
11:12女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
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これは、変わりません。
アダムからエバが作られたと聖書は書いています。
そして、女は、男の助けでとして造られたのだと聖書はいいます。
しかし、女から、男が生まれる。
つまり、女がいなければ、男は生まれることが出来ない。
それぞれが重要だということです。
そして、最終的に神様がその両方を造られたのです。

しかし、ここで、女が男の為に作られたとあえて書いてあるところに、
わたしたち、教会とキリストとの関係があります。

私たちは、キリストの体である。
そのように、言いますが、私たちのために、キリストがあるのではありません。
キリストの為に私たちはいるのです。

全ての権威の頭である方が、おられます。
そして、その方が、私たちの頭なのです。
この方の全てが、私たちの中にあります。
これは、大きな宝です。

そして、この後の聖餐式は、私たちが、その方の体であり、一つの体である事を覚えて行うものです。
互いにいがみあったりしていると、あの人と同じからだ、耐えられないとか、そういう思いがあるかもしれません。
しかし、イエス様は、互いに愛し合いなさいと言われました。
いま、本当に、御互いの事を、赦しますと祈りましょう。
そして、キリストにあって、一つからだとされている。
それは、私たちの為に死んでくださった、イエス様の愛によることです。
あなたの為に身代わりとなって死んでくださった程にあなたを愛しておられるキリスト。
イエス様は、あなたを愛しておられます。
その、キリストの愛を覚えて、私たちは、聖餐にあずかります。
それは、同時に、キリストにあって一つとされるということなのです。

では、イエス様を覚えて、聖餐に預かりましょう。
その前に、しばらく祈りましょう。

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・台風、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・夏のキャンプや聖会の感謝。



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