礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20050814
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行いでなく恵みによって
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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---祈り---

聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は私たちを恵みの中に召し、恵みの中に生かし、恵みの中で導いておられる方です。
この方が、今ここにおられることを覚えつつ、御言葉を聞いて参りましょう。

さて、今日は、朝からグレイスチャペルで聖会がありまして、この昨日と今朝そして、午後の3度の聖会に参加しました。
そこにおいて、安食先生を通して主が語ってくださり、この「勇敢に生きる」と言うことについて、良く、学ばせて戴きました。

その第三聖会におきまして、今回は、主はぶどうの木というところから、語られて、私たちが、主に結びついていなければならない事、そして、枝は努力せずに木に結びついていること。
そして、枝は、恵みによって生かされていること、また、放蕩息子の例えとぶどう園の例えから、恵みとはどんなものかを語って戴きました。

私も、この、恵みに生きるということについて、「行いではなく恵みによって」と題してお話したいと思います。

では、今週の聖書箇所に戻りたいと思います。
今週の聖書箇所は、ローマ人への手紙11章6-18節
新改Up281新改Vp306口語p247新共p289

司会者お願いします。

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11:6もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
11:7では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。
11:8こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」
11:9ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。
11:10その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」
11:11では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
11:12もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
11:13そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
11:14そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
11:15もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
11:16初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
11:17もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
11:18あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
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はいありがとうございます。
では、続きまして、主題聖句の暗唱を、教会学校の皆さんでお願いします。

<あんしょう>

では、皆さんでいいましょう。

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主題聖句:
もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
ローマ人への手紙11章6節
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さて、今、旧約は詩篇新約はローマ人への手紙が続いています。
詩篇は非常に読みやすいところですし、また、ローマ人への手紙は、キリスト教とは何かが、非常に良く分かるところです。
いままで、読んでいなかった方も、是非、お読み下さい。

また、クイズも、同じ箇所から、載せております。

クイズに関しては、プレゼントも検討中ですが、まずは、皆さん聖書をお読み下さい。

では、御言葉を追いながら、みてまいりましょう。

まず、パウロは、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではないと、言っています。
私たちが、恵みによって生きようとするとき、そこで、自分の行いを言い立てることはできないと言うことです。
そうでなければ、恵みは、恵みでなくなります。

先週は、8日にJstyleに参加しました。一日だけでしたが、ハワイのチームによるこの青年のキャンプは素晴らしく、若者たちの中にも、活気があふれていました。
今年は、カリスチャペルがホストになってくださって、実現できましたが、11教会が参加するキャンプとなり、だんだん広がっている事を嬉しく思いました。
キャンプは、日程の関係上一日しか参加できなかったのですが、次の9日からは、淡路島でのキャンプに行ってまいりました。
このキャンプは聖書同盟が行っているキャンプでCSKキャンプと言われ、中高生対象のキャンプです。
私は5年ほど参加させていただいていますが、中学生たちが生き生きとしていて素晴らしく、春と夏に行われるのですが、毎回良いキャンプが開かれています。
今回は、人数が少なかったのですが、かえって、少ない中で、じっくりと交流が持て、良いキャンプでした。

このキャンプの中で、カトリックとプロテスタントはどう違うのですがという質問がありました。
まあ、簡単そうで、説明しようとすると、デリケートな質問なのですが、皆さんはどう思いますか?

あまり、このお話に時間を割きたくありませんので、簡単にお話しますと、カトリックは、初代教会から始まり、最終的にローマの国教となった教会組織です。
ところが、この教会組織は、長い時間の中で、だんだんと、本当の信仰から離れていきました。
聖書の教える事と離れてしまったのです。その、大きな一例が、免罪符です。
中学生は聞いたことがあるのではないでしょうか?

歴史の時間に勉強すると思います。

立派な教会を作るためにお金を必要とした教会が、なんと、これを買えば罪が赦されるという、そういう札を売るのです。

これに対して、反対したのが、マルチン・ルターです。


400年ほど前のことですが、宗教改革と呼ばれる出来事が起ります。

そして、カトリックに反対して出来たのが、プロテスタントです。

ここで、ルターは、聖書の中、特に、ローマ人への手紙を元に、信仰による義と言う事を、説明します。

私たちの救いは、恵みにより、信仰によるのだということです。
わたしたちの罪が赦されたのはなぜですか?

今、教会に来ている皆さん、聖書を読んでいる皆さんはわかると思います。
それは、イエスさまが私たちの罪の身代わりに死んでくださったからです。
そして、それを信じるなら赦されているのです。

罪は、免罪符を買ったから赦されるとかいうものではありません。
罪は、イエス様の十字架でしか赦されないものです。

しかし、もう一つ、義とされる方法があります
それ以外の方法で義とされるためにはどうしなければなりませんか?

それは、律法を完全に守り行うとういうことです。
ところが、このことは、実は、私たち人類にとって、不可能なのです。

いや、私は、生まれてから、犯罪を犯したことがないといわれる方もいるかもしれません。
そうですね。確かに、あなたは、日本の法律に反する事をしていないかもしれない。
でも、それだけでは神様の前に義とされないのです。
律法はなんといっていますか?

モーセの十戒は、律法の基本になる10の戒めです。

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3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
4あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
5それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
6わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
7あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
8安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
9六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
10しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――
11それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
12あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
13殺してはならない。
14姦淫してはならない。
15盗んではならない。
16あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
17あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
出エジプト20章
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これを読むと、前半は神様との関係です。
これは、日本人には分かりにくいかもしれません。
しかし、それよりも、15節と17節を見てください。
15節は盗むなと書いてありますから、私は盗んだことがないと言われるかもしれません。
しかし、17節は、欲しがるなと書いてあります。

欲しがっただけで罪だとしたら、どうでしょうか?

さらに、イエス様は、マタイの福音書でこういわれました。

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5:21昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

5:22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
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人に対して腹を立てることが罪だというのです。
そうだとするなら、誰が律法で義とされるでしょうか?

ところが、イスラエルは、モーセによって、律法が与えられた時から、恵みによるのではなく、行いによる道を踏み出しました。

彼らをエジプトから選び出された主は、シナイ山で彼らに律法をお与えになりました。
しかし、彼らを選び出されたその選びは、行いの為ではありませんでした。

ここに、物事を行いで解決しようとする人間の問題があります。
しかし、本当のところは、行いではどうにもならないのです。

そして、人を本当に救うことの出来るのは、恵みしかありえないことがわかります。

この恵みを恵みとして受け取る。
それは、神への信頼がなければできません。
そして、それが信仰です。


信仰とはなんでしょう。
パウロが語り、ルターが見つけ出した、信仰による義認とはいったいどういうことでしょう。

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もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
ローマ人への手紙11章6節
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恵みによるのであれば、行いによるのではありません。
ですから、私たちは、自分の行いでなく、どこまでも神様の恵みに目を留めて歩まなければならないのです。
それを見続けるために、私たちは、聖書を読みましょう。
そして、神様への信頼を深める為に、祈りましょう。

信仰は、ゆだねることだといいます。
しかし、それは、崖から飛び降りることではありません。
神様との信頼関係を築きながら、少しずつ降りていけばいいのです。

そのような歩みの中で、主が素晴らしい恵みの人生を歩ませてくださるように祈りましょう。

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(多発するテロからの守りがあるように。)
・列車事故の犠牲になった方々その関係者の為に。原因究明と再発の防止の為に。
(台風、地震、津波で被災された方々のため)
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・夏のキャンプの為に。子どもたちが主を知るものとされるように。全てが守られるように。



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