礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20050612

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新しいからだ
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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---祈り---

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、蘇られた方、そして、天に上げられた方、今も聖霊様によって、ここに臨在される方です。
この方を覚えて主の御言葉を聞いてまいりましょう。

ではまず、本日の聖書箇所を御読みいただきましょう。
本日の聖書箇所は、ヨハネの福音書20章1-10節
新改Up203新改Vp222口語p175新共p209です。
では、司会者お願いします。

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20:1さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに
置いたのか、私たちにはわかりません。」
20:3そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
20:4ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
20:6シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
20:7イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
20:9彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
20:10それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
ヨハネの福音書20章1-10節
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ありがとうございます。では、主題聖句の暗唱をお願いします。

<あんしょう>

では、皆さんで言いましょう。

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主題聖句:
イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
ヨハネの福音書20章7節
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では、今日は、このところから、新しいからだと題しまして、共に御言葉を聞いてまいりたいと思います。

今週の通読箇所は、この箇所を含みまして、イエス様の十字架と復活、そして、使徒の働きの初めのところですから、イエス様が天にあげられるところと、そして、
ペンテコステの出来事とつづきます。
大変重要なところですので、是非御読みください。また、旧約聖書の通読箇所は、明日のところに、あの有名なヤベツの祈りがあります。みなさん一緒に聖書を読
みましょう。

さて、この箇所は、イエス様が蘇えられたという出来事です。
すこし、出来事をたどって見ましょう。
週の初めの日、ですから、安息日の次の日です。ユダヤの安息日は、私たちの土曜日なのですが、この安息日の間、彼らは律法に従って休んでいました。

ルカの福音書を見るとこうかいてあります。

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ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。
そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には、戒めに従って、休んだが、
ルカの福音書23章55-56節
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そして、この女たちは、次の24章で、

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週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
ルカの福音書24章1節
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と、書いてあるように、墓に行きました。
これは、今回の聖書箇所と同じシーンです。ここで、週の初めの日となっているのは、土曜日の次の日つまり、私たちにとっての、日曜日の朝ですね。
その日マグダラのマリヤは朝早くまだ暗いうちに墓に来たと書いてあります。そして、墓から石が取り除けてあるのを見ました。

このシーンを、全ての福音書が記していますが、墓から石が取り除けてあることについて、マルコが書いていることを見て見ましょう。

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16:3彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
16:4ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
マルコの福音書
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ここで、墓の入り口の石は大きかったことが書いてあります。彼女たちは、それを動かすことが出来ないと考えていたのです。
前にも説明しましたが、このイエス様の入れられていた墓は、洞穴で、そこを、円盤状の大きな石で蓋をしていました。
その石を女たちは自分たちで動かすことが出来ないのでどうしようかと考えていたのです。
ところが、マタイの福音書にこうかいてあります。

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28:2すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
28:3その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
マタイの福音書
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突然現れた御使いが、大きな地震と共に、その石をころがして、そこにすわりました。
そして、御使いたちはいいました。

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28:5すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
28:6ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
28:7ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、
あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
マタイの福音書
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イエス様は蘇られました。
先ほど、その日が、週の初めの日である事をお話しましたし、また、それは、日曜日であることをお話しましたが、私たちが、日曜日にこのように集まり、礼拝を
捧げる一つの意味は、このイエス様が、蘇られた日曜日に、イエス様の蘇りを記念して、礼拝を捧げるのだと言う意味があります。
しかし、私達にとって、真の礼拝とは、なんでしょう。聖書の言う真の礼拝とはこれです。

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そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物
としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
ローマ人への手紙12章1節
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ここにあるように、私たちが私たちを捧げることが礼拝です。
そして、それは、日曜日の朝、そのときだけのことではありません。
また、ユダヤの祭司たちは、毎日毎日礼拝を捧げました。
私たちも、日毎に主を覚えて礼拝を捧げましょう。
それは、個人的なデボーション、御言葉と祈りの時を持つことでもありますが、また、この教会において、私たちのビジョンである、365日24時間の礼拝をささ
げることでもあります。
この日本でいつも主に礼拝が捧げられている教会を立て上げていきましょう。

すこしお話がそれましたが、このイエス様の復活、この復活のあと、イエス様がどのように現れておられるかを見てみたいとおもいます。

まず、今回の聖書箇所ですが、こうかいてあります。

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20:6シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
20:7イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
ヨハネの福音書
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ここで、一つ重要なことは、イエス様の頭に巻かれていた布が、巻かれたままで、あったということです。
このことは、不思議なことです。それは、イエス様の頭が、この布をすっと通り抜けた事を意味しているのです。
別な福音書を見てみましょう。

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24:36これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。
24:37彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
24:38すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
24:39わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
ルカの福音書
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24:42それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
24:43イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
ルカの福音書
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20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って
言われた。「平安があなたがたにあるように。」
ヨハネの福音書
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これらを見ると、イエス様の身体が、いろいろなところを通り抜けている事を見ます。
しかし、イエス様は、自分が霊ではないといわれました。
では、イエス様はなんでしょう。
イエス様は、霊ではなく、新しい体でした。

すこしだけややこしい話になりますが、私たちの身体は、一つ一つ細胞からできています。そして、それらは、もっと細かく見ると、分子があり、そして原子にま
で分かれるわけですが、原子と原子と言うのは、実際には、ぴったりくっついているのではありません。
それぞれの間に大きな隙間があります。
たとえば、この手も、原子の世界で見ると、粒粒が距離があいて存在しているということです。
そうすると、この手と手を併せると、通り過ぎてもおかしくないのです。ところが、そんなことはありません。
それは、その原子と原子の間に働くちからが、横から来た別な力に抵抗するからです。
その細かな説明は、物理学のお話になりますので、いま、ここではしません。
しかし、イエス様の新しい体は、霊つまり、この世界における実体の無いものではありませんでしたが、逆に、この私たちの体や、この世界にあるものよりも、し
っかりとした実体であったということなのです。
そのイエス様の体は、水の中や、クリームの中を鉄の玉が通りすぎるように、この世界を通り過ぎることが出来たのです。

私たちは、やがて、世の終わりに、新しい体を得ると聖書は語ります。
その体は、単に、若くなったとか、病気でないとかそういう体でなく、本質から新しい、このイエス様の復活の体であるのです。

わたしたちは、死んだら霊魂になるとか、なにかふわふわした存在になるとか、その様な考えが、あります。
しかし、聖書の教えていることは、そのようなことではありません。
私たちが、存在の根源である方にしっかりと結びついているなら、やがて、私たちは、今までと違う確かな存在に変えられるのです。
それが、新しい体です。
そして、私たちは、その体をもって、天の御国で、主の共にあることになるのです。
これが、聖書の約束です。そして、これは、大きな希望です。
主が、皆さんに、この希望による、喜びを与えて下さいます様に。
共に祈りましょう。

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
・列車事故の犠牲になった方々その関係者の為に。原因究明と再発の防止の為に。
(台風、地震、津波で被災された方々のため)
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。



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