礼拝でのお話
テキスト版
画像がある場合は
クリックすると
表示されます
※携帯で表示できない
物もありますので
ご了承下さい



−−−−−−−−−−
シティーチャーチ
メッセージ20050515
−−−−−−−−−−
永遠の命を与えるパン
−−−−−−−−−−

++++++++++
11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
++++++++++

---祈り---

みなさんおはようございます。聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は天から下れたいけるまことのパン。
永遠の命を与える方です。この方をあがめつつ。主のみ言葉をきいて参りましょう。

さて、昨日は、家内の妹、大坪徳代姉と矢加部和之兄の結婚式がありました。
厳粛な中に行われ、兄弟姉妹の愛にあふれた、本当に素晴らしい祝福に満ちた時でした。
皆さんからも、色紙、祝電を頂き本当にありがとうございました。
この御二人がクリスチャンホームとして、素晴らしく整えられていくように、そしてまた、両方のご親族の方々がイエス様を信じ受け入れることが出来るようにお祈り下さい。

さて、御言葉に入って参りたいと思います。
本日の聖書箇所は、ヨハネの福音書6章53-58節のところです。
司会者御読み下さい。
聖書箇所:ヨハネ福音書6章53-58節
新改Up171新改Vp187口語p147新共p176

++++++++++
6:53イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
聖書箇所:ヨハネ福音書6章53-58節
++++++++++

はい、ありがとうございます。
では、続きまして、主題聖句の暗唱を、教会学校の皆さんでお願いします。

<あんしょう>

では、主題聖句を皆さんで一緒に言いましょう。

++++++++++
主題聖句:
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
ヨハネの福音書6章54節
++++++++++

では、今日はこのところから、永遠の命を与えるパンと題しまして、御言葉を共に見てまいりたいと思います。

本日の聖書箇所は、キリスト教信仰におきまして、非常に重要なところです。
そして、このことについてお話しするなら、一日かかっても話しきれないほどの、深い意味と、多くの意味を持っています。
それは、この聖書全巻の様々なところに書かれている事の凝縮でもあります。
聖書は、律法の書であるとも言われます。

皆さんは、律法というと、何を思い浮かべますか?
殺してはならないとか、そういうもののかかれた、十戒の石版を思い浮かべるでしょうか?
ヘブル語で、律法をトーラーと言いますが、このトーラーは、モーセ五書を意味します。
モーセ五書とはなにか、教会学校の皆さんで分かる人はいますか?
これは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つですね。
この中には、ユダヤ教の持つ、様々な祭儀、つまり、神様の前で行う儀式と、それにまつわる出来事が書かれています。
そして、それらの中には、今、私たちが行う儀式の元になるものも数多くあります。

その、様々な儀式、たくさんの儀式が書かれた律法のその全てを凝縮して、そして、人類の歴史の中の、一点で成し遂げられたその究極の出来事の意味が、この箇所には書かれています。

ある方は、イエス様の御身体というと、次の御言葉を思い出されるかもしれません。

++++++++++
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ペテロの第一の手紙2章24節
++++++++++

これは、大事な御言葉です。あなた方は、キリストの打ち傷によって、いやされた。
こうも書いてあります。

++++++++++
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
マタイの福音書8章17節
++++++++++

確かに主は、病とわずらいを、身に引き受けて癒されました。
しかし、私は思うのです。なぜ、十字架で死んでくださったことではなく、打ち傷が私たちを癒すのか。
イエス様の受けられたことは、全てが私たちの身代わりです。
イエス様は十字架で死んで下さいました。
死んで下さったその事、それは、私たちの罪の身代わりでした。罪の身代わりに死んでくださった。
このことは、私たちにとって、罪の赦しと、神の子としての立場、そして、永遠の命、永遠の御国を与えるものでした。

しかし、ここで、御身体について、言われていることの一つは、癒しです。
イエス様が死んで下さった。しかし、死んだものは、もう、病で苦しむことはありません。
その苦しみから解放されています。しかし、イエス様は、生きておられる時、打たれたうち傷によって、身体に苦しみを受けられました。
その痛みと苦しみ。それは、本来私たちが受けるべきムチによる痛みと苦しみでした。

良く聞いてください。
本来イエス様は、神の御子です。そして、天におられて、身体をもっておられませんでした。ですから、病も、傷つけられることもありませんでした。
しかし、私たちの救いの為に、この地上に来られる時に、私たちと同じように、身体をもたれました。そして、病を知る者となってくださいました。
そして、十字架の前に、私たちの罪の身代わりに、ムチを受けてくださいました。
その傷、それは、現実にその、目に見える肉体で、キリストが背負って下さった身代わりの苦しみです。
その苦しみ、それは、身代わりの苦しみです。私達、信じる全てのもののための、身代わりの苦しみです。
現実に身体に受けられた、身代わりの苦しみ、それによって、私たちのこの現実の身体が癒されるのです。
聖書は、病やわずらいが、罪の結果でありサタンのもたらすものである事を教えています。

++++++++++
3主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実
を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」
4サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。
5しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」
6主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」
7サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
ヨブ記2章3-7節
++++++++++

しかし、サタンが、私たちにもたらすべき災いの身代わりに、イエス様が苦しまれた。
つまり、サタンは、私たちに下すべき苦しみを、イエス様にもたらしてしまった。
そのことの為に、私たちの、身体に触れる。そして、私たちを苦しめる許可証を使ってしまったわけです。
ですから、その事を宣言するなら、サタンは私たちに対する力を持ちません。
癒しの為に祈る時、

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
の御言葉から、
「キリストの打ち傷のゆえに、私は癒された。」
と大胆に宣言しましょう。それは、サタンに立ち向かうことです。

お話がそれました。
今日のタイトルは
「永遠の命を与えるパン」
ここで、皆さんにまず、覚えておいて欲しい大事なことがあります。
それは、永遠の命って何かということです。

ここで、何度かお話ししたことがあります。
永遠の命、それは、永遠につづく、命の根源である神様との関係です。

私たちは、命というと、この肉体の命だけを考えます。
その命はいったいなんでしょう。その命も、実は、神様との関係です。
私たちのこの肉体の命はどうやって守られますか?
息をする事と、食べることです。
息をしていて、食べていれば、その人は生きていくことが出来ます。
でも、私たちが生きるために必要な食物は、全て、もともと命のあったものです。
植物も、動物の肉も、全て、そこにいのちがあります。
わたしたちは、命との結びつきのなかで、生かされているのです。
わたしたちは、命と無関係に生き続けることは出来ません。
そして、命は、私たちを成長させ、また、新しい命を生じさせます。
それらの命は、全て、神様の創造によるものです。
私たちが何かを食べる時、それを通して、それらを与えてくださった神様の命にふれている。
神様の愛に触れているのだという事を忘れないようにしましょう。
そして、そういう意味で、感謝をもって祈り、食事をするのです。

しかし、そのような、命との関係は、私たちの肉体の命が終わったところで終わりです。
死んだ人は、食べる事が出来ません。

でも、命とは、神様との関係であるといいました。

命とは、永遠に生きておられる方、そして、そして、命を創造された方との関係です。

今、私たちは、この命の根源である方を見ることが出来ません。
しかし、私たち、イエス様を信じるものは、この肉体の命が終わった時に、神様の元にいきます。

++++++++++
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じよ
うに、私も完全に知ることになります。
コリント人への第一の手紙13章12節
++++++++++

その神様との関係、神様との関係が命であるなら、私たちがいま、ぼんやりとしかわからない神様を、はっきりと顔と顔をあわせてわかるなら、それは、どれほど素晴らしい命でしょう。
そして、それは、永遠に続くのです。これが、永遠の命です。
私たちは、この方との関係の中で、永遠に生かされ続けるのです。
そこには、喜びが満ち溢れています。生き生きとした命があふれているのです。

しかし、私たちは、罪によって、その全てを失っていました。
では、それらは、どのように取り戻されるのでしょう。
この箇所で、「天からのパン」という言葉が出てきます。
58節ですが、こう書いてあります。

++++++++++
これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
ヨハネの福音書6章58節
++++++++++

ここで、先祖が食べたパンと言われているのは、出エジプトの時に、荒野に降ったマナのことです。
マナは神様が、荒野で食べるもののないイスラエルの民の為に、与えてくださったものです。
しかし、そのマナを食べたからといって、その民が今も生きているわけではありません。
それに対して、イエス様が与えるパンは、イエス様ご自身の身体であり、それは、永遠の命を与えるとイエス様は言われます。

このイエス様ご自身の身体をいただくとは、どういうことでしょう。
聖餐式はその型であり、象徴ですね。
しかし、最も重要なのは、その信仰です。
それは、イエス様とは、父なる神様が、私たちの為に与えて下さった神の御子であり、天からのパンである事を信じ受け入れるということです。

私たちは、ただ、信仰によって、この事を受け止めます。
そして、その事によって、イエスキリストが私たちの人生の主であると、心に迎え入れるのです。
そのとき、私たちの内に、聖霊様が注がれます。
聖霊様は、イエス様と全く同じ方です。それは、イエス様が私たちのうちにおられる事を意味します。

そして、それは、私たちと、命の根源である、神様との間の完全な関係をつくります。

なぜなら、私たちの内におられる、聖霊様とイエス様と、父なる神様は、完全に一つである方だからです。

私たちは、この父と子と聖霊の愛の関係の中に、本当の命の中に入れられるのです。
これが、永遠の命です。
そして、それは、イエス様によります。

また、聖書は、聖書の御言葉がすなわちイエス様であると語ります。
ですから、私たちは、この聖書の御言葉をいただきましょう。
そして、さらに深い神様との交わりのなかにいれられていきましょう。
そうするなら、あなたから、神の命があふれ、人々をも、その愛がうるおします。

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
・列車事故の犠牲になった方々その関係者の為に。原因究明と再発の防止の為に。
(台風、地震、津波で被災された方々のため)
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。



////////////////////////////////////////////////////////////////


INDEX
TOP