礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20050424
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聖霊による知恵
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23:1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めで
す。
23:5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
詩篇23篇
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---祈り---

皆さんおはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、全てを造られた方。初めからおられた方。
全てを知り治めておられる方です。
この方が、今もここにおられます。
この主を思いつつ、御言葉を聞いてまいりましょう。

では、まず、本日の聖書箇所を御読みいただきましょう。
本日の聖書箇所は、ルカの福音書20章1-8節です。
新改Up143新改Vp157口語p123新共p148
司会者お願いします。

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20:1イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、
20:2イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」
20:3そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。
20:4ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」
20:5すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
20:6しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」
20:7そこで、「どこからか知りません。」と答えた。
20:8するとイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。
ルカの福音書20章1-8節
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では、続いて、主題聖句の暗唱を教会学校の皆さんでお願いします。

<あんしょう>

では、皆さんで言いましょう。

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主題聖句:
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
ヤコブの手紙1章5節
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はいありがとうございます。
では、今日はこのところから、聖霊による知恵と題しまして、御言葉を見て行きたいと思います。

さて、昨日の新聞だったと思いますが、戦艦大和の復元が記事にのっていました。
なんでも、10分の一、の大きさ、この部屋の倍の長さの大和の模型が呉の博物館に造られているとの事でした。
大和ミュージアムという博物館で正式名称は呉市海事歴史科学館。先日23日にオープンしたそうです。
なぜ、今頃大和なのかという事ですが、明治維新から、たった70年程であるにもかかわらず、大和を造ることの出来た、日本の技術力を知り、また、
戦後、60年になる今も、大和建造の技術が生きている事、そして、その平和利用に至るまでを説明しているとのことです。

確かに、日本の戦後の技術は、戦争中に兵器開発の為に培われたものが多くあります。
以前に、NHKの「プロジェクトX」で、新幹線の開発についてのお話がありました。
新幹線のあの流線型は、戦闘機のための空気力学にもとづいていますし、
新幹線を高速で走らせる為の振動抑制は、もともと、戦闘機の機体振動の抑制の技術です。
しかし、そのような技術を、平和の為に役立てたいとの気持ちが、新幹線を作り上げて行きました。

そのような、技術を見ると、なんと、人間の作り上げるものはすごいのだろうと思います。
それらを作り上げることの出来る人間の知恵、それは、大変なものです。
しかし、この数年、それらの多くの最先端の技術において、そのもろさが明らかにされる事件がありました。
たとえば、高速増殖炉もんじゅの事故があり、また、阪神大震災での新幹線や高速道路の橋脚の崩壊など、まだまだいろいろなものを上げることが出来ると思いま
す。

今のもんじゅなどは、三人よればもんじゅの知恵とも言われる文殊に由来しています。
この文殊は、仏教で、学問をつかさどるとされる、文殊菩薩から来ており、文殊菩薩のような知恵といった意味のようです。
ま、三人で話し合えば、文殊菩薩のような優れた知恵が浮かぶという事でしょう。

聖書は、
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密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する。
箴言15章22節
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と、語り、計画の為に話し合うことの大切さを教えています。

しかしまた、聖書は言います。
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人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。
箴言19章21節
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このことからすると、私たちの計画は、主からのものでなければなりません。

しかし、こう書いてあります。
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神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
ピリピ2章13節
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そして、さらに、こうも言われます。
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人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。
箴言16章1節
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主は、私たちのうちに志をたてさせ、また、それを実現へと導かれます。
また、私たちの求める答えを、主は、私たちの舌にお与えになります。


ちょうど、今日、午後から、運営会議がありますが、これらの御言葉は大切な事を教えています。
まず、私たちの心に主が志を与えてくださる事を求めることは大切です。
そして、私たちが語り合う中に、主は語ってくださいます。
ですから、皆さんで良い知恵を出し合って行きたいと思いますので、宜しくお願いします。

さて、知恵のお話でした。今回の主題聖句は、聖書箇所と違うところから選びました。ご了承下さい。
で、この主題聖句ですが、

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主題聖句:
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
ヤコブの手紙1章5節
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ここで言われているのは知恵ですね。
知恵を辞書で引きますと、「事の道理や筋道をわきまえ、正しく判断する心のはたらき。」とあり、物事を知っているという、知識とは、とはまた違うものである事
がわかります。
ゆとり教育ということが言われ、生きる力を養うとの事でしたが、とうとう、見直さなければならないところに来てしまいました。
知識偏向型の教育ともいわれますが、知識に偏っていた教育をやめて、生きる力を身に付けさせる教育に変えようとした、そのゆとり教育の結果、子どもたちが手
にしたのはなんでしょう。
のびのびと生きるための時間ではなく、詰め込み式の塾の時間であったり、テレビゲームをするための時間であったりと、それがどう生きる力につながるのかが分
からない結果になってしまいました。

聖書から見るとき、考えなければならないのは、知恵を養う教育です。

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知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。
箴言4章7節
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聖書はまず、知恵の初めに知恵を得るように教えます。

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知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。
箴言9章9節
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そして、知恵のあるものは理解を深めます。

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あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。
箴言21章11節
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知恵のあるものが学ぶなら、その人は知識を得ます。

でも、聖書の中で、知恵という時に、もっと注意しておかなければならない事があります。
そもそも聖書の中で知恵とは何をさしているかです。

聖書にはこう書いてあります。

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主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。
詩篇111章10節
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もし、あなたが、自分に知恵がないと思っておられるなら、主を恐れましょう。
それは、知恵の始まりです。そして、そのことは、良い明察つまり、理解力をもたらします。
あなたが、主にもとめるなら、主は必ず答えて知恵を与えてくださいます。
なぜなら、主は、知恵そのものである方だからです。

今の時代、本屋に行くと、ハウツー物といわれる本がたくさん並びます。
それは、何かをやってみるための方法が書かれた本です。
こういうときにはこうする。たとえば、パソコンを使っていて、動かなくなったらこことここを押すといいとか、そういう本です。
知識の塊といえるかも知れません。

それに対して、聖書を見る時に、聖書はただのハウツー本としては使えない本です。
その一つの例が、今回の聖書箇所です。
この箇所で、民のリーダーたちが、イエス様に聞きます。
「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」
さあ、正解はなんでしょう。
イエス様はなんと答えられたでしょう。
イエス様は、父なる神様から与えられた、神の子としての権威だと言うことも出来たでしょう。
しかし、イエス様は言われませんでした。
それは、すでに語っておられたことで、彼らが受け入れないこともご存知だったからです。

それで、イエス様は言われました。
「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」

ここに一つの知恵を見るのです。
もし、質問に正面から答えようとするなら、なんと答えるかを考える。また、そのような答えを用意しておくということになります。
しかし、イエス様は、質問には答えておられません。
彼らが、何をしに来たかに答えておられるのです。
彼らは、イエス様に立ち向かってきました。
彼らは、イエス様の言葉尻をつかんで陥れようとしていたのです。
でも、イエス様は、その質問に答える代わりに、彼らが、それ以上聞くことの出来ない情況にされました。

すこし違うのですが、人から、質問を受ける時、私たちは、その聞かれた言葉での、回答を一生懸命考えてしまいます。
たとえば、「聖書は本当に神の言葉ですか?」などと聞かれると、なんと答えますか?

そりゃそうですと、一生懸命説明をしようとするかもしれません。
なんとか、聖書が神の言葉である事を納得してもらう為に、聖書の言葉や、歴史上の人物の事を話して、聖書の歴史を説明するかも知れません。

でも、質問した人が知りたいのはそんなことではないかも知れないのです。

「聖書が本当に神の言葉だろうか?と疑問に感じるんですね」と聞き返します。

そうすると、相手の方が言われます。

「毎日読むようになってから、自分でもそう感じるようになって来たのです。」

なんだ、そういうことだったのか、質問したいのではなくて、共感が得たかったんだと、分かるんです。

でも、そのためには、相手の心を知ろうとする、こちらの心が必要です。

私たちが、全てをハウツーで済まそうとすると、うまく行かないのです。
それは、起こってくる出来事、対する人格が違うからです。

そこで、私たちは、聖霊様の導きが必要です。
私たちは、大事な場面で、言葉を出す前に、聖霊様の導きに頼ることが必要です。
そのとき、主は私たちの舌に答えをくださいます。

前にもお話しましたが、私たちが、神様に求める時、神様は、語ってくださる方です。
人生のあらゆる場面で、主に知恵を求めましょう。
そのとき、主は、あなたが考えたことも無いような知恵を与えて、導きを与えてくださいます。
そして、そのことから、主の誉れは永遠に立つのです。

では、祈りましょう。

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(台風、地震、津波で被災された方々のため)
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。




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