礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20050327
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究極の愛の教え
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23:1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めで
す。
23:5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
詩篇23篇
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---祈り---

皆さんイースターおめでとうございます。

聖なる聖なる聖なる主をたたえます。

主は十字架に架かり、私たちのあがないを成し遂げ、そして、蘇られた方です。
この、蘇られた方を覚えて、主の御言葉を共に聞いてまいりましょう。

さて、では、早速ですが、いつものように、聖書箇所を御読みいただきましょう。
本日の聖書箇所は、ルカの福音書6章の20から38節です。
新改訳k聖書第二版はp109新改聖書第三版ですとp119です。
では、司会者お願いします。

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6:20イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
6:21いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
6:22人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
6:23その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。
6:24しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。
6:25いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くよう
になるからです。
6:26みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。
6:27しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。
6:28あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。
6:30すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。
6:31自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。
6:32自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。
6:33自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。
6:34返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人
たちに貸しています。
6:35ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたが
たは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。
6:36あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
6:37さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれ
ば、自分も赦されます。
6:38与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あ
なたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
ルカの福音書6章20−38節
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はい、ありがとうございます。
では、続いて、主題聖句の暗唱をお願いします。

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主題聖句:
しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。
ルカの福音書6章27節
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はい、ありがとうございます。
では、このところから、

「究極の愛の教え」と題しまして、御言葉を共に聞いてまいりたいと思います。
今日は、イースターですね。
イースターは、キリスト教の最も重要なお祭りです。
日本では、クリスマスに比べると、ずいぶん静かですが、アメリカなどでは、イースターグッズが数々ならびます。

このイースターという名前には、諸説があり、古代ゲルマン民族の春の女神であるエスターに由来し、春の女神に対する祭りが、イエス様の復活を祝う祭りに代わ
り、名前だけが残ったと言う説と、英語のイースト(パン種)から来るという節があります。
どちらも、あいまいで、今ではよくわからないというのが正しいかも知れません。
しかし、それは、横においておいて、だから、イースターといわずに、復活祭と言おうとも思ったのですが、
復活祭おめでとうございます。では、なんだか硬すぎて、やっぱり、イースターで行くしかないなあと思います。

日本には、キリスト教は、欧米の文化、そして、英語と共に入ってきていますから、いろいろなことが、その影響下にあります。
最近ギリシャ語を見ていますと、その事を改めて感じるようになりました。
たとえば、英語で、イエス・キリストは、ジーザス・クライストという感じですが、ギリシャ語ですと、イエスー・キリストゥーという感じで、日本語の方が近い
なあと思います。
まあ、キリスト教の歴史の長い英語は、それだけなまったのかも知れないと思いますが、その文化全部を鵜呑みにするのでなく、本当にキリストの教えは何かを、
聖書に当たりながら、つかみ、そして、それを日本の文化の中に流し込んでいくようなことが、日本には必要だなあと、感じます。

ところで、復活祭ですが、ギリシャ語では、この日の事を、パスカと言いまして、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りを意味する、パスハーというヘブル語から来ていると
いわれます。
このほうが、意味がはっきりしていますが、それでも、いきなり、パスカおめでとうございます。と、言っても、は?といって、相手にされないとこまりますので、
これは、パス カ と、、。
どうでもいい冗談ですが、とにかく、イエス様が、蘇られた、このことを本当に感謝します。

なぜ、一番重要な御祭りか、それは、イエス様の蘇りがなかったら、私たちの信じていることは全てむなしいからです。

パウロはこういいます。
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そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
コリント人への手紙第一15章14節
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そして、パウロはこういいます。

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しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
コリント人への手紙第一15章20節
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キリストは、確かに蘇られました。
そして、私たちも、このキリストによって、神の子とされたのです。

皆さんが良くご存知だと思いますが、聖書の中で、一番大切な事だと、パウロの言うのは、このことです。
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私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこ
と、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
コリント人への手紙第一15章3ー4節
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イエス様の復活このことは、私たちの信じる最も大切なことです。

イエス様の復活された日を記念する日、それは、
クリスマス、ペンテコステ、イースターという、3つの祭りのなかで、一番早くから祝われたそうです。

この復活祭は、年によって、日が変わります。
いまでは、春分(3月21日)後の最初の満月の後に来る第1日曜日とされますが、
これも、完全に統一されたわけではなく、教派によっては、他の日になるところもあるようです。

また、この主の復活を祝う祝は、もっと、頻繁に祝われるようになりました。
それは、日曜日です。
もともと、ユダヤ教の安息日は土曜日でしたが、安息日の次の日、すなわち主の復活されたその日を、毎週祝うそのことが、日曜日となっていきました。
ですから、私たちが、日曜日に礼拝をする、それは、主の復活を記念して、集まり、お祝いしているともいえるわけです。
わたしたちは、年に一度でなく、毎週毎週、イエス様の十字架での死と復活、すなわち、イエス様の勝利を称えて集まっているのです。

イエス様は、十字架で、死に悪魔に勝利され、そして、そのことによって、蘇られました。
この、イエス様の死には、多くの意味があり、また、イエス様の蘇りにも、多くの意味があります。

イエス様が死なれたこと、それは、簡単にいいますと、神様のご計画であり、イエス様の使命であり、私たちに対する愛でありました。

そして、イエス様が蘇られたことは、御言葉に忠実なものを主が守られるということ、そして、イエス様の悪魔に対する勝利の証明でした。

なぜ、このイエス様の復活が、悪魔に対する勝利の証明なのでしょう。

聖書の教える死それは、命の根源である、神様から引き離されることです。
そのことによって、私たちは、命を失い、朽ちるものとなります。それが死です。

アダムが罪を犯したことによって、わたしたちも、死、すなわち、悪魔の支配の中にあって、死ぬものとなりました。

これに対し、イエス様は、罪の無い方として、十字架で、私たちの身代わりに死んで、くださいました。
ところで、罪が無いなら、本来、悪魔の支配下にありませんから、死とは無関係です。
ところが、死とは無関係な方が、死なれました。
その、身代わりの死は、完全に律法を全うしました。
友の為に死ぬ、それよりも大きな愛はないとイエス様は言われました。
しかし、イエス様は、友どころか、敵対していたものたちに対し、愛を示し、死んでくださいました。
そして、その愛は、神様の戒めを全うしました。

悪魔の支配とはなんだったでしょう。
それは、神様の戒めを破るということでした。

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「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
創世記2章16−17節
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という、神様の戒めを破ったことで、アダムは悪魔の支配下に下り、死にました。

しかし、イエス様は、完全に律法を全うされました。

律法は、ただの戒めの羅列ではありません。それは、本当の愛の教えです。
ですから、神を愛し、隣人を愛することが、律法の根源です。
で、その、人々に対する愛の為に、また、神への愛の為に、死ぬという、そのイエス様の十字架での死は、完全に律法を全うしたわけです。
そのことは、神の戒めを破るという、悪魔の支配を逆に破りました。
そして、そのことによって、人類にもたらされていた、死が、打ち砕かれました。

イエス様は、死の力である、悪魔の支配を打ち砕かれました。
そうすると、どうなりますか?
私たちは死につながれることはなくなったのです。
ですから、イエス様は、死という悪魔の鎖を断ち切って、帰ってこられました。これが復活です。

イエス様は、そのように、蘇られました。
ですから、そのことは、イエス様の悪魔に対する勝利を意味するのです。

もちろん、死がはいったこの肉体は、朽ちていき、やがて私たちは、死にます。
しかし、私たちは、朽ちない物に、よみがえらされるのです。

いま、お話した中で、イエス様の示された愛。それが、本日の聖書箇所。
から、お話しようとする、究極の愛です。

なぜ、この事を、イースターにお話しするか、それは、この愛こそが、イエス様の十字架の御業の動機であり、そして、悪魔に対する勝利をもたらし、復活をなさ
せたからです。

10年ほど前に、「必ず最後に愛は勝つ」という歌詞の歌がはやりました。
まあ、その歌の歌う愛は、男女の間の愛で、どうなるかわかったものではありませんが、神様の愛は、決して変わることのない愛です。

この聖書箇所は、「平地の説教」と呼ばれるところです。
皆さんは、「山上の説教」という名前をご存知だと思います。
それは、マタイの福音書5−7章に書かれています。
なぜ、山上というかというと、マタイの福音書5章1−7節にこうかいてあるからです。

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この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
マタイの福音書5章1−2節
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この山上の説教に対し、このルカの福音書は、6章17節にこうかいてあり、

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それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから
来た大ぜいの民衆がそこにいた。
ルカの福音書6章17節
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このことから、平地の説教と言われます。
知らなかった、。「へー」と思われた方もおられるかも知れません。
で、この二つの説教は、内容も重複する為、同じ時のものだとか、違うとか、そんな議論もあるのですが、それはおいておきまして、とにかく大切なのは、この説
教がの中で、6章の27節から、37節のところです。ここには、敵を愛するということが出てきます。

敵を愛する。自分を憎むものに善を行う。自分をのろう者を祝福する。侮辱するものの為に祈る。片方の頬を打つ者に他の頬も向ける。上着を取る者に下着も与え
る。
求めるものに与え、奪い取るものから取り戻さない。敵に良くしてやる。裁かない。

こう書かれているのをみて、なんて奇麗事だと思ったあなたは、正直者だと思います。
そうです、これは、人間に出来ない奇麗事です。しかし、この事が奇麗事であることこそ、この私達人類が、みな罪の中にある事を示しています。

罪のある私たちは、命の根源である神様から、切り離されています。
だから、自分を攻撃するものから、自分を守らなければなりません。
また、豊かさの根源、全てを持っておられる方から、切り離されていますから、
持っているものを失うわけに行きません。
取られたら取り返さなければなりません。

それは、すべて、神様から引き離された結果です。そして、その当たり前のことが、まさに私たちの罪の性質だというわけです。

それに対して、真っ向からイエス様はこの事を語られました。
でも、この事を見てください。イエス様の十字架のシーンから、この事を見てください。

イエス様はどうでしたか?

イエス様は、十字架に架かり死んでくださいました。
それは、私たちに対する愛。敵であった私たちへの愛のためでした。
その、十字架の場面で、人々はイエス様をのろいました。しかし、イエス様は、言われました。

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そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を
分けた。
ルカの福音書23章34節
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また、人々は、イエス様の着物も下着も取りました。
何もかも、奪い取られて尚、その敵である私たちの為に、命さえも与えて死んでくださった。
それが、イエス様の示された究極の愛でした。
そして、この究極の愛は、律法を全うし、そして、罪の根源である、悪魔の支配を破り、そして、そのことによって、イエス様は蘇られたのです。

皆さん。ですから、このイエス様のなされた事は、すなわち愛です。
愛のゆえに、死んでくださった主。
この愛によって、私たちは救われたのです。
この愛によって、救われた私達にたいし、イエス様は、この愛の中に生きるように、招いておられます。

あなたの敵は誰でしょう。あなたを苦しめるのは誰でしょう。
その人の為に祈る。それは、大変な苦痛かも知れません。
その人を愛する。それは、考えられないことかもしれません。

その苦しみは、あなたにとっては耐え難い十字架の苦しみかも知れません。
しかし、それこそが、あなたを縛る悪魔の鎖です。
それを断ち切るのはなんですか?それは、愛です。
キリストの示された愛は、その鎖を完全に断ち切るのです。
ですから、このイースターわたしたちは、愛によって私たちの為に死に、悪魔の鎖を断ち切られた主を覚えて、あなたを苦しめるものの為に祈りましょう。
そのとき、悪魔の力は打ち砕かれます。そして、神様が、あなたに祝福と力を注いで下さるのです。

祈りましょう。


<ワード>
イースター:復活祭。イエス・キリストの復活を記念する祭り。イースターの名称に関しては、古代ゲルマン民族の春の女神であるエスターに由来するとする説が
有力。英語のイースト(パン種)から来るという説もある。春分(3月21日)後の最初の満月の後に来る第1日曜日に祝われる。
山上の説教:イエス様が、ガリラヤ湖畔の山に登って語られたとされる説教。マタイの福音書の5章から7章に書かれている。

<祈りの課題>・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(台風、地震、津波で被災された方々のため)
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。




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