礼拝でのお話
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苦しみを受ける為に生まれた方
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11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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---祈り---

皆さん、おはようございます。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
私たちの信じる方は、この世界の全てを創りおさめておられる方
そして、私たちを愛し、ご自身天から下り、十字架で死んでくださった方です。
この方を覚えつつ主のみ言葉をきいて参りたいと思います。

では、さっそくですが、本日の聖書箇所をお読みいただきましょう。
本日の聖書箇所は、ルカの福音書2章22節から52節です。

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2:25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまって
おられた。
2:26また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
2:28すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対
を受けるしるしとして定められています。
2:35剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
ルカの福音書2章
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はい、ありがとございます。
では、続いて、主題聖句の暗唱を教会学校の皆さんでお願いします。

<あんしょう>

では、皆さんで言いましょう。

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主題聖句:
この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
ルカの福音書2章34節
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今日は、このところから、苦しみを受ける為に生まれた方と題しまして、御言葉を共に見てまいりたいと思います。

今日は、棕櫚の日つまり、イエス様がエルサレムにロバに乗って入られた日です。
この日、人々はイエス様をお迎えする為に、しゅろの木の枝を取って、出てきました。
それで、この日をしゅろの主日といいます。この日から、受難週が始まります。

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その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そ
して大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
ヨハネの福音書12章12-13節
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エルサレムに入られたイエス様は、神殿の中で売り買いしているものたちを追い出されます。

それを、「宮聖め」といいます。

また、今週の木曜日が、イエス様が、過ぎ越しの食事をされた日。
つまり、最後の晩餐のあった日です。

そして、このことが、私たちの聖餐式の元になっています。

また、その日は、イエス様が、ゲッセマネで祈られた日です。

そしてイエス様は、弟子の一人であったユダの裏切りによって、捕らえられ、十字架に付けられます。
これが金曜日です。

しかし、その後、次の日曜日は、このイエス様が蘇られた事を記念するイースターです。

ざっと見てみましたが、この受難週、このような事を思いながら、聖書を読んでいただくのも良いかと思います。
通読の箇所とは違いますが、

マタイの福音書21章から28章
マルコの福音書11章から15章
ルカの福音書19章28節から23章
ヨハネの福音書12章から19章

のところが、この受難週、棕櫚の日から十字架のところです。

さて、しかし、今日の聖書箇所は、イエス様の誕生の直ぐ後のところです。

今月の聖歌も、ふけゆくのはらので、どちらかと言うとクリスマスの歌なのですが、
このところで、私たちは、イエス様がこの世にお生まれになったことが、何のためだったのか、その事をもう一度見てみたいと思います。

この場面で、イエス様は、両親に連れられてということですが、両親に抱かれて、神殿に入りました。
このエルサレムの神殿。そこで、シメオンという人がいて、この幼子イエス様が、救い主である事を語りました。
そして、そのあと、シメオンは母マリヤに言います。

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2:34また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対
を受けるしるしとして定められています。
2:35剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
ルカの福音書2章34-35(新改訳)
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このところは、新共同訳ですと、こうなります。


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2:34シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、
反対を受けるしるしとして定められています。
2:35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
ルカの福音書2章34-35(新共同訳)
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このほうが、わかりやすいと、私は思うのですが、イエス様は、人々の心があらわにされ、反対を受ける印となり、それは、母の心が剣で刺し貫かれるほどの事だ
ということです。

ヨハネの福音書の一章にはこうかいてあります。

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1:9すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
ヨハネの福音書1章
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ここにも、世がこの方をしらず、民がこの方を受け入れなかった事が書いてあります。

しかし、それはなぜだったでしょう。
それは、人々の心の思いが表れる為だと書いてあります。
イエス様は罪の無い正しいお方でした、この正しい方を十字架に付けるように、定めたのは誰でしょう。

先週は、そのことの為に、ローマから派遣されたユダヤの総督ピラトがイエス様を引き渡したところを見ました。

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それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
マルコの福音書15章15節
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でも、その前に、イエス様はピラトに対して言われました。

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イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者
に、もっと大きい罪があるのです。」
ヨハネの福音書19章11節
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では、ここで、イエス様を引き渡したものとは誰だったでしょう。

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夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。
マルコの福音書15章1節
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イエス様を引き渡したのは、祭司長、長老、律法学者たち、民のリーダーたちでした。
ユダヤの社会の中で、立派な人たちと思われていたそんな人たち、その人たちが、罪の無いイエス様を罪があるとして、十字架に付けようとしたのです。

ユダヤの社会の中で、彼らは、律法を守り行い、立派に生きていました。
しかし、その彼らの心の中には、隠れた様々な罪がありました。
表面的には、なんの問題もなく、立派な祭司長、立派な長老、立派な律法学者でした。
しかし、彼らの中には、罪がありました。
聖書はいいます。

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それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
ローマ人への手紙3章10節
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義人はいない、つまり、罪の無いものはいないということです。
しかし、人々は、律法をしっかり守って行っているから、罪がないと考えていました。
しかし、心の中は、苦い思いでいっぱいでした。

ここで、一つ確認しておきたいのですが、
時に、私たちは、旧約の律法は行いについて書かれていて、新約聖書は、心のことについて書いてあると考える場合があります。
しかし、それは、大きな間違いです。
なぜなら、旧約聖書にこうかいてあるからです。


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6:4聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
6:5心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
申命記6章4ー5節
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これは、愛するという、心の問題です。
そして、こうも書いてあります。

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あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。
レビ記19章18節
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聖書は、旧約聖書も、新約聖書も、愛の書です。
これは、旧約聖書の律法が、新約聖書で、愛に変わったのではありません。
さて、この愛によって、行うはずの律法が、心の伴わないものになっていた。
そして、民のリーダーたちは、形だけ、正しい行いをしていた。
しかし、神様は、私たちの心をご覧になる方です。

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しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主
は心を見る。」
サムエル記第一16章7節
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本当に私たちが、神様の前に出ようとする時、私たちの心が、明らかにされなければなりません。

イエス様は、罪の無い方でした。この方を、十字架に付ける、そのことは、逆に、それをした人々を罪に定めました。
民のリーダーたちは、自分たちが正しいと思っていました。しかし、そうではありませんでした。

イエス様は、そのための印として、こられました。
そして、イエス様は、十字架で死なれました。
このことは、人々の罪を明らかにすることでした。

イエス様を十字架に付けたのは、何も、民のリーダーたちだけではありません。
群集はいいました。

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だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪いことをしたというのか。」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫んだ。
マルコの福音書15章14節
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人々は、皆で、イエス様を十字架に付けたのです。

精神医学の世界で言われる事として、いや、私たちが、経験の中でもおそらく知っていることとして、
人の苦しみは自分の苦しみを癒すといわれます。
私たちの心に傷があると、人が苦しんでいるのを見てそれが癒されるというのです。

わたしたちは、いろいろな不満を抱えて生活しています。
しかし、それらの不満それは、何に向かっているでしょう。
あなたは、あなたの妻や夫や子ども、親、そのような家族や親族に不満を持っておられるかもしれません。
また、あなたは、あなたの、仕事に、仕事場のだれかに、学生は、学校の先生や同級生に、不満を持つかもしれません。

しかし、私達の不満は、全て、最終的には、私たちを創り、天地の全てを治めておられる神様に向かっています。
なぜなら、全ては神様の支配の中にあるからです。
また、全てのものを、神様は御自分のものとしておられます。

だとするなら、私たちが、感じる、あの人への不満、この人への不満は、みな、神様への不満です。
その不満を、私たちは、お互いにぶつけあう。しかし、それは、みな、神様に向かっているのです。

その究極が十字架です。
ですから、私たちの、あの人への不満、この人への不満。それが、イエス様を十字架に付けたのです。

あなたが、イエス様を十字架につけた。聖書は、その事を教えています。

イエス様の受難、イエス様が受けられた苦しみ、それは、私たちが持っている罪を明らかにするものでした。

イエス様を十字架に付けた人々の心理を考えて見てみましょう。

ピラトは、自分の政治的な利益の為に、イエス様を十字架につけました。
民のリーダーは、イエス様へのねたみの為に。
そして、群集は、うっせきするローマの支配への不満、そして、そこからの解放者ではなかったイエス様への不満。
ローマの兵士たちは、ユダヤの地での自分たちのうさはらしの為に、イエス様を十字架につけました。

人々のそれぞれの、心の中にある罪が、このイエス様の十字架において、明らかになったのです。

しかし、これは、たまたまそうなったのではありません。

今回のこの聖書の箇所は、イエス様がおうまれになった時の箇所です。

イエス様は、この人々の罪が明らかにされる為に、おうまれになりました。
つまり、人々から、十字架に付けられる為にお生まれになったのです。

でも皆さん、この十字架は、人々の罪を明らかにするだけで終わりませんでした。

罪のない方が、自ら罪を背負って死んでくださったそのことは、私たちの罪を取り除く事となったのです。

イエス様は、確かに、十字架で死ぬ為におうまれになったのです。

その事を信じるなら、あなたには、何があたえられますか?

神の子とされる特権です。

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しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
ヨハネの福音書1章12節
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あなたは、このことを信じていますか?

あなたの為に十字架で死に、そして、あなたを神のこどもとするために、イエス様は、十字架で死んでくださいました。
この事を私たちは、心に刻んで、この受難週をすごしてまいりましょう。

では、共に祈りましょう。



<祈りの課題>・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(台風、地震、津波で被災された方々のため)
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。




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