礼拝でのお話
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豊かに与えてくださる主
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23:1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めで
す。
23:5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
詩篇23篇
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---祈り---

聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、この世界の全てのものを創り、私たちに、与えてくださる方です。
この主を思いつつ、主の御言葉を聞いてまいりましょう。


では、本日の聖書箇所を、司会者お読み下さい。

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8:1そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。
8:2「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。
8:3空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」
8:4弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」
8:5すると、イエスは尋ねられた。「パンはどれぐらいありますか。」弟子たちは、「七つです。」と答えた。
8:6すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与
えられたので、弟子たちは群衆に配った。
8:7また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。
8:8人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。
8:9人々はおよそ四千人であった。それからイエスは、彼らを解散させられた。
マルコの福音書8章1-9節
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ありがとうございます。
では、続いて、主題聖句の暗唱を教会学校の皆さんお願いします。

<あんしょう>

では、皆さんで言いましょう。

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主題聖句:人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。
マルコの福音書8章8節
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今日は、このところから、「豊かに与えてくださる主」と題しまして、御言葉を見て参りましょう。

ところで、昨日の朝、グレイスチャペルの安藤先生が、ハーベストタイムに出演しておられました。
見られた方はおられますでしょうか?
安藤先生は、現在、創造科学研究会の講演者として活躍しておられます。
私たちは、同じ、グレイスチャペルで、安藤先生が説明してくださる創造論を何度か聞かせていただきましたが、今回のテレビの中でも15分ほどの時間のなかで、
分かりやすくまとめておられました。
途中からですが、ビデオもありますので、どうぞ、ご覧下さい。
その、番組の結びとして、中川先生が、進化論から、創造論へ変わったことで、人生の意味、目的を持つようになったと語っておられました。

私たちは、神様が、この世界を造られた事を知っています。
これは、大きなことです。
人々は、その事をしりません。
この、聖書というものが、全て偽りの騙しごとだという方もおられます。
インターネットを見ると、あまりにひどいホームページがあり、正統なキリスト教を批判しています。
しかし、それらを見てみると、かなりでたらめで、当然のことですが、先日私がお話した、「イエスとは誰か」という本と同じで、全く信仰というものがありません。

詩篇はそのような方について、こういいます。

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悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない。」の一言に尽きる。
詩篇10章4節
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愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。
詩篇53章1節
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神は、私達人間を、善を行う為に造られました。
しかし、私たちが、創造主である神様を否定する時、私たちは、おろかで、高慢で、忌まわしい不正を行う、腐ったものとなってしまいます。

神様は、私たちが神様に目をむけるとき、私たちの心を正してくださいます。

無神論の結果のもたらすものはなんでしょう。
無神論は、私たちを創造した方を否定します。
つまり、私たちは、誰に作られたのでもない、たまたま存在するものになってしまうのです。
それは、むなしいことです。

神様は、存在の根源としておられ、完全な存在としておられます。
それゆえ、神様は、言われます。

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神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはある
という方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
出エジプト記3章14節
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最初、このところを読んだとき、私は何のことか分かりませんでした。

じつは、私が統一教会にいたころ、ある方は、「私は、あるんだ」と神様は、ご自身の存在を知らしめようと叫んでおられるんだ、と説明してくれました。そういう
ことが無いことも無いかもしれませんが、
「わたしはある」というところを、英語のニューキングジェームズ訳の聖書は、

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And God said to Moses," I AM WHO I AM."
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と、書いています。
これは、わたしは、わたしだとでも訳せる言葉です。
この言葉は、天と地を造られた神様が、根本的には、ご自身を指してしか、ご自身を示されない事を意味します。
全ての根源である方は、このように、ご自身をあらわされました。
この根源である方を無視して、人間は自分の存在を考えることが出来ません。
もし、それをするなら、それは、線路の無い電車のように、無軌道な、どこにいくか分からないものになってしまいます。
そして、おれは、自分の行きたいところに行くんだと、高慢に、不正に進んで行きます。
その行き着くところは地獄です。

また、進化論の結果のもたらすものは、なんでしょう。
それは、巧妙に出来上がった無神論ですが、世界は偶然の積み重ねで出来たということです。
そして、進化論の根底にある、自然淘汰は、弱肉強食であり、愛のない世界です。
そして、勝ち残ったものにさえ、生きている意味などありません。

しかし、天と地を造られた神様は、確かに生きておられます。

そして、この方に目を留めるとき、私たちの存在の意義があり、人生に意味があります。
それは、人生に意味を持たせるための詭弁ではありません。

神様の造られた世界の秩序が、それをあらわしています。

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神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに
弁解の余地はないのです。
ローマ人への手紙1章20節
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ですから、科学と聖書は矛盾しません。
科学が本当に進む時、聖書の言葉は証明されます。

皆さん聖書にこう書いてあるのをご存知ですか?

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神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。
ヨブ記26章7節
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仏教では、地面をいろんなものが支えていると教えていました。

しかし、聖書は、地をなにもない上に掛けられる。
と、書いているのです。
わかりますか?
何も無いところに物を掛けることが出来ないと、人は考えます。
幼稚園児は、地球がまるいと聞くと、じゃあ、裏側の人はなぜ落ちないのと聞きます。
そして、あるときは、そんなことありえないと納得するかも知れません。
科学が幼い頃、そのことはわかりませんでした。
しかし、神の言葉は、人がまだ、そのことを知らないうちに、このことを語っていたのです。

この地球が、何も無いところに浮いていることは、いま、皆が知っています。これが、科学の進歩(進化ではありません。)です。
そして、そのことは、ますます、聖書を解き明かしていくことでしょう。

さて、この世界を造られた神様は、私たちを愛してくださる神様です。

もう少しすると春になります。

たくさんの花が咲きます。
その花を見るとき、思い出す話があります。
それは、上にある花の多く、どんなものがありますか?
桜なんかそうですね。それらは、下に向かって咲き、
下にある花の多くは、上に向いて咲くということです。
そして、私たちと同じくらいの背丈の花、どんなものがあります?
百合や、ひまわりは、人と同じくらいの背丈になります。
そして、これらは、横を向いて咲くのです。
それは、まるで、神様が、私たちの見えやすいところに花を飾ってくださってるみたいだと思いませんか?

神様は、私たちを喜ばせようと、綺麗な花を創り、私たちの前に置いてくださったのです。
神様やるなあ。神様は、本当に愛の神様です。
ところで、イエス様はいわれました。

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28なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
30きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょ
うか。信仰の薄い人たち。
31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
34だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
マタイ6章28−34節
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私は、ここで、最後の労苦はその日その日に十分あります。を忘れないようにしないといけないと思っているのですが、これを忘れると、何もしないで遊んで暮ら
せるように考えるかも知れません。
しかし、イエス様は、このその日の労苦をしっかりと行う事を教えつつ、先のことでおもいわずらうなといわれます。
わたしたちが、本当に天地を造られた神様によって、養われているなら、主は言われます。


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だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
マタイ6章33節
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あなたが、神の国と神の義を求めておられるなら、その日その日の労苦をしていく中で、全てのものは、添えて与えられるんだと、主は語っておられるのです。

さて、ここで、聖書の中に、あるとき、神様を求めた人々が出てきます。
人々は、神様の教えを求めて、イエス様のところに来ました。
そして、三日間も、イエス様の話を聞いていました。
人々は、およそ4000人といいますが、このたくさんの人々は、イエス様のお話が聞きたくて、空腹でも一生懸命お話を聞いていたのです。
イエス様は、この人々に、食べるものを与えたいとお考えになりました。
それで、弟子たちに、その事をお話になりました。
そうすると、弟子たちは、どこからパンを探せばいいんだ、4000人ぶん。
パン屋にいって、パン4000個下さいなんて、お金があっても、直ぐになんとかなるものではありません。
しかし、イエス様は、そこにパンがどれくらいあるか聞かれました。
4000人分のパンなんてもって歩いているはずがありますか?
しかし、その7つのパンを、感謝を捧げて、そのパンをさき、人々に配られたのです。
4000人が満腹し、
パン切れのあまりは、七つのかごにいっぱいになりました。

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8:6すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与
えられたので、弟子たちは群衆に配った。
8:7また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。
8:8人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。
マルコ8章6-8節
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これは、本当に考えられないことです。
しかし、神様は、無いものを、呼び出される方です。

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このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
ローマ人への手紙4章17節
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別なところで、イエス様は、5つのパンをわけて、5000人を養い、そして、12の籠がいっぱいになった。
というお話があります。
7つで7籠なんだから、5つだと5カゴと思いませんか?
しかし、無いところから引き出される方にとって、そのことは関係がありません。

また、弱いところにこそ働いて、5つから大人だけでも5000人を養い、12の籠をいっぱいにされる方です。
私たちの必要を満たしてくださる方は、そういう方なのです。
あなたは、その事をしんじていますか?
ところで、この事を信じるものに対して、マラキ書のなかで、神様は、厳しい事をいわれます。

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8人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのも
のを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。
9あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。
10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがた
のために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
マラキ3章8-10節
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ここで、言われているのは、私たちが、十分の一を捧げないことは、神様のものを盗んでいる事だということです。
あなたが、神様を信じておられないなら、このことは、何の意味も持たないかもしれません。なぜなら、神様は信仰に働かれるからです。
しかし、あなたが、信じておられるなら、これは、大事なことです。

私たちは、この教会で、皆さんが献金されたその献金の十分の一を、グレイスチャペルに十一として、献金しています。
これは、上納金とか、そういうものではありません。
毎月毎月の献金の総額を、正確に計算していただいて、その十分の一をグレイスチャペルに献金しています。
もし、しなかったら、それは、つまり、神様の物を盗んで、手元に置いておくことです。
それは、呪いをもたらします。
神のものを盗んでいるなら、のろいを受けるとかいてあるのです。
もし、神様の祝福を信じるなら、私たちは、このことも心に留めておかなければなりません。
しかし、この事を言われた目的は、私たちが捧げ、そして、神様が、天の窓を開いてあふれるばかりに祝福する為です。

江戸っ子は宵越しの銭をもたないなどといいますが、私たちは、十分の一を手元に置いておいてはなりません。
急いで、自分の所から、どこかにやらなければなりません。

そして、私たちが捧げるなら、天の窓を開いて、あふれるばかりに祝福すると言われるのです。
私たちは、この教会が祝福されたいです。
そして、この教会にいる皆さんが祝福されて欲しいです。

ですから、これは、私たちの祝福の為です。
もし、グレイスチャペルの為に献金していると思っておられる方があるなら、それは大きな間違いです。

また、今月の祈りのリストに濱本先生のお名前を入れました。
それも、また、父母を敬うものを祝福すると主が約束しておられるからです。
勿論、私は、濱本先生ご夫妻を大切に思っていますが、それと同時に、御言葉に従うことが大切です。

それでは、あまりに、自己中心だと思いますか?
自己中心をエゴイズムといいますが、
ギリシャ語で私は、というのを、エゴーといいます。
たとえば、前にお話した、道という意味のホドスですと、
エゴーエイミーへーホドスで、
私は道であるという意味になります。
ま、ホドスを忘れない為にお話したどうでもいいお話ですが、

このエゴー、私が、神様の御言葉を信じ、応答するのです。
神様の言葉に対する応答、それは、自分がしなければなりません。

神様は、そのことを強制的にされません。

しかし、あなたが、たとえ、自分の祝福の為と思ってでも、父母を敬うなら、あなたとお父さんお母さんとの間の関係が生まれます。
そして、その関係は、キリストにある愛へと成長していくのです。

捧げることもそうです。
あなたは、自分の祝福の為に捧げるかも知れない。でも、そこで、生み出される関係は、神への信頼、神への大きな信仰、神への愛へと成長していくのです。

聖書はいいます。

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与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなた
がたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
ルカの福音書6章38節
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私たちが与えるなら、私たちの信じる神さま、無いものを引き出される神様は、あなたに与えてくださるのです。
これは、大きな安心です。
この祝福を引き出す鍵は、

十分の一を捧げること、
そして、
神の国と神の義を求めること。

この二つは、私たちを祝福へと運びます。

もし、あなたがイエス様を信じて、教会に集い、その事を信じておられるなら、あなたは、与えることについて、躊躇されないはずです。
なぜなら、与えるものに与えるというのが神様の約束だからです。
勿論、私たちは、目に見えるものに頼りがちです。
しかし、私たちは、御言葉を読み、祈り、信仰によって、捧げるものとならせていただきましょう。

この事を信じましょう。
そして、豊かに与えてくださる方の祝福を自分の物としましょう。


最後に詩篇の1篇からお読みします。

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1幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
2まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
3その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
詩篇1篇1−3節
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<祈りの課題>・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(台風、地震、津波で被災された方々のため)・寝屋川の事件の為
・主がこの日本の子どもたちを守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。





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