礼拝でのお話
テキスト版
画像がある場合
クリックで表示されます
※携帯で表示できない
物もありますので
ご了承下さい
トップページへ


音声ファイル
ワーシップ/メッセージ(MP3形式10/13作成)
※現在PCトラブルにより新規の音声ファイルが登録出来ません。
御了承下さい。
テキストの終わりへ



−−−−−−−−−−
シティーチャーチ
メッセージ2015/03/08 
−−−−−−−−−−
人が死人の中からよみがえるとき
−−−−−−−−−−

++++++++++
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
++++++++++

<いのり>

皆さんハレルヤ
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主なる神様は、天と地を造られた方です。
主なる神様は、愛と惠に満ちておられます。
主なる神様は、良い事しかされません。
この方を覚えて御言葉を開いて参りましょう。

まず、災害にあった地域の為に祈りましょう。
−−−−−−−−−−
<災害にあった地域の為の祈りの課題>
1、原子炉が速やかに安全な状態になるように。作業者の身体と命が守られるように。放射能から守られるように。
2、余震がおさまるように。 3、被災者に慰めと励ましがあるように。心と霊のケアの為に。
4、被災者への救援活動が効率よく進められますように。ボランティアや作業者に助けと守りがあるように。
5、この国が霊的に目覚めて罪を悔い改めて神様に従う民となるように。
−−−−−−−−−−

聖書の通読箇所を見てみましょう。
旧約聖書が民数記から申命記
新約聖書がマルコの福音書です。
−−−−−−−−−−
3月8日(日)[ ]民30-31/[ ]マコ11
3月9日(月)[ ]民32-33/[ ]マコ12:1-17
3月10日(火)[ ]民34-36/[ ]マコ12:18-44
3月11日(水)[ ]申1/[ ]マコ13
3月12日(木)[ ]申2-3/[ ]マコ14:1-26
3月13日(金)[ ]申4/[ ]マコ14:27-42
3月14日(土)[ ]申5-6/[ ]マコ14:43-72
3月15日(日)[ ]申7-8/[ ]マコ15:1-24
−−−−−−−−−−
民数記は、イスラエルの民の荒野の生活。
申命記は、モーセの遺言ともいえる書です。
是非お読みください。
わたしたちが、聖書に触れるとき、神様の命に触れているのです。

マルコの福音書はお話の中で見てまいりましょう。
では、今日は、マルコの福音書の12章を開きましょう。
−−−−−−−−−−
【 聖書箇所 】マルコの福音書12章18−27節
・新改訳Up84(贈呈p75、英対p138)
・新改訳Vp92、英対p104(贈呈p87)
・口語訳p72
・新共同訳p86(贈呈p86、英対p134)
−−−−−−−−−−

朗読を御願いします。
++++++++++
【 聖書箇所のテキスト 】
マルコの福音書12章18−27節
12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。
12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』
12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。
12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。
12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」
12:24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。
12:25 人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であ
る。』とあります。
12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」
++++++++++

主題聖句を言いましょう。
++++++++++
【 主題聖句 】
神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。
マルコの福音書12章27節
++++++++++

では、これらの所から、
「人が死人の中からよみがえるとき」
と、題しまして御言葉を開いて参りましょう。

今回の箇所で、まず、サドカイ人と呼ばれる人たちが出てきます。
彼らは、どんな人たちでしょう。

ご存知のように、それは、人種ではありません。

サドカイ派に属するもの、ということです。

当時のユダヤ教には、いくつかの派がありました。
聖書に登場するのは、パリサイ派とサドカイ派です。
そして、バプテスマのヨハネなどが含まれていたと考えられている。エッセネ派というものがあったと言われます。
これは、悔い改め、自分の罪を認めることを大切にするグループです。

パリサイ派は、律法を真剣に学び、この世界から分離して生きて行こうとするグループです。
律法学者などの多くはこのグループに入っていたと考えられます。
パウロもパリサイ派だったことが書いてあります。
彼らは、自分が律法を守ることによって神様に認めてもらおうとしていました。

では、ここに出てくるサドカイ派はどんなグループでしょう。
簡単に言うと、それは、祭司達です。
神殿の勤めをする祭司達を中心としたグループがサドカイ派でした。

−−−−−−−−−−
パリサイ派(律法学者・律法による義)
サドカイ派(祭司・神殿を中心とした儀式的な生活)
エッセネ派(悔い改め・バプテスマのヨハネら))
−−−−−−−−−−


では、サドカイ派はどんな考えをもっていたのか。
それが、ここに書いてあります。
++++++++++
また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。
マルコの福音書12章18節
++++++++++

彼らは、復活はないと信じていました。
このことは、後に、使徒の働きの中で、パウロが受けた裁判のところにも出てきます。
++++++++++
6 しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さば
きを受けているのです。」
7 彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。
8 サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。
使徒の働き23章6−8節
++++++++++
サドカイ人は、復活はなく、御使いも、霊もないと言っていました。
祭司の全てがそうだったのではありません。
バプテスマのヨハネの父、ザカリヤは、神殿の中で御使いに会いました。
しかし、当時の祭司たちの多くは神様の存在がわからなくなっていたのです。

いま、キリスト教会でも、霊や、御使いを信じないという先生もおられます。

そうだとしたら、いった何を信じておられるのだろうと私は思ってしまいます。

皆さん。今も、イエス様は生きておられます。
見えない神様は、霊です。そして、私たち人間を通して働かれるのです。
信じるものの信仰を通して働かれるのです。

わたしは、神様が、生きておられ、そして、いまも働いておられる、そのことだけを信じて生きて来ました。

それは、小さな信仰ですが、神様は、その信仰を通して現れてくださり、多くの素晴らしいことを見せて下さいました。

しかし、それは、信じた私のためだけでなく、実は、神様は全ての人の為に良いものを用意しておられます。
それを引き出すかどうかは、信じるかどうかだけなのです。

世界は、見えない世界からなっていて、神様は無から有を生み出すように、全ての事をなさるのです。

人は多くのものを作ります。
橋やビル、パソコンも。
でも、人は材料がなければ造れません。
神様は、無から有を生み出されたのです。
わたしたちは、この神様を信じているのです。

さて、サドカイ派は、祭司のグループです。
多くの人が神殿に行き、捧げ物をします。

捧げる人々にとってそれは、心からの捧げ物でした。
丁度、今回の所の同じ章にこんな記事があります。

++++++++++
41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
マルコの福音書12章41−44節
++++++++++
このやもめは、生活費の全てを投げ入れました。

金額の大小ではありません。

神様に彼女は全てゆだねたのです。

だからこそ、神様は彼女を祝福されました。

一人の裕福な若者が同じマルコの福音書に出てきます。
++++++++++
21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことに
なります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
マルコの福音書10章21−23節
++++++++++
彼は、自分の持っている全てを捧げることが出来ませんでした。
それで、イエス様は裕福なものが神の国にはいることは難しいと言われました。

この時、彼が差し出せなかったのは、彼の持っているものではありません。
彼自身です。彼がへりくだり、神様の前に出ることが出来るかどうか。それが問題だったのです。

この時、イエス様は言われました。
++++++++++
24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
マルコの福音書10章24−25節
++++++++++
ここで、針の穴というときに、裁縫用の針の穴を考えると、不可能だと思いますし、想像することも出来ません。
この針の穴とは、エルサレムの城壁の門の一つで、針の門をさすといわれます。
らくだは多くの荷物を積んでいます。針の門はせまく、らくだが荷物を下ろすことなしには通る事ができないそうです。
わたしたちは、裸で生まれてきました。死ぬとき、何も持っていくことは出来ません。

それらに執着してはならないことをイエス様は教えておられます。

知識も、名誉も、財産も、天国には持っていくことが出来ません。

そこに持っていくことの出来るのは御霊の実だけです。
御霊の実とはなんですか。
それは、神への愛、人への愛の表れです。

私たちが天国に持って行けるのは愛だけなのです。

そして、神の国とは何ですか。
それは、神様とのつながりです。
神様との愛のつながりこそが、神の国なのです。
人が神様に信頼すること、神様に目を向けること。それが神の国です。

ですから、イエス様は、神の国があそこにあるここにあるというものではないといわれたのです。
神の国はあなたがたのただ中にあるといわれたのです。

当時のサドカイ人たち神殿の祭司たちは、ヘロデが建て直した神殿で働き、その保護もあるなかで生活していました。

ですから、神様を必要としませんでした。
いや、本当は、そのように、ヘロデを用いられたのもまた、神様です。
全ての事を通して神様が働いておられるのです。

私たちは、国家によって守られています。
これもまた、その背後に神様がおられます。

さまざまな、保障制度があります。
それらも、神様によるのです。

医療もそうです。
ある時は、信仰によりますと、医療を受けることをやめて、神様に期待して祈ることもあります。
そして、癒されることで、本当にイエス様の素晴らしさを証ししておられる方もおられます。
しかし、また、神様が用意されたものとして、医療を用いることも出来るのです。
++++++++++
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
ローマ人への手紙11章36節
++++++++++
すべては、この世界の全ては、神様の御手の中にあるのです。
しかし、この世のものが大きすぎて、神様を向くことが出来ない。

それが、多くの人の問題です。

その結果、彼らは、霊の存在を認めることの出来ないほどになっていました。
++++++++++
サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。
使徒の働き23章8節
++++++++++
見えないもの、見えない神様に期待することが出来なくなっていました。
当然、見えない神様の事を思うこともなくなっていたのです。

そして、ただ、儀式だけを行うようになっていたのです。

それは、今の日本人にも似ています。
神社に行き、さほど信じていないのに、儀式をおこないます。
そして、大丈夫だという気持になるのです。

皆さん。神様が喜ばれるのはなんでしょう。
++++++++++
私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
詩篇27篇4節
++++++++++
その心が主に向いていることです。
この詩を書いたダビデを神様は喜ばれました。
この子のソロモンは王として治めるための知恵を求め与えられました。
神様はそれを喜ばれました。
しかし、ダビデが求めたのは、それ以上のものだったのです。

他の何もいらない、ただ主の前につどいたい。
そのようにして私たちがともにいるなら、それは神様にとって大きな喜びなのです。
++++++++++
1 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
2 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
3 それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
詩篇133篇1−3節
++++++++++
そこに神様は聖霊様を注ぎ、祝福を注がれるのです。

さて、彼らの質問はこうでした。
++++++++++
19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』
20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。
21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。
22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。
23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」
マルコの福音書12章19−23節
++++++++++
ここで、彼らが言いたいのはなんですか。
それは、「復活などあると矛盾が生じるでしょう。」ということです。

人間の頭で、霊の世界の事を計ろうとすると、こうのようになります。

霊の世界のことは、わたしたちの頭で全てを考えることなど出来ません。
人間の知恵をはるかに超えた、神様の知恵を、人間の頭ではかろうとすることなど出来ないのです。

だから、このことに対して、イエス様のお答えはこうでした。
++++++++++
24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。
25 人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
マルコの福音書12章24−25節
++++++++++
いま、この地上において、夫婦である、その親しい関係は天においてもあるでしょう。

ただ、地上の夫婦がみな、親しい関係かはわかりません。
それはいろいろでしょう。

しかし、天においては、めとることも、とつぐこともないと書かれています。

いや、皆さん。わたしたちは、共に、キリストの花嫁とされます。
++++++++++
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知
るためです。
ヨハネの福音書17章23節
++++++++++
つまり、夫婦として一つである以上に、キリストの花嫁として、一つのものにされるのです。
私たちがそのように一つであるなら、わたしたちは、争うことなど考えられないでしょう。
そして、そのために大切なことは赦しあい、受け入れあうことです。

そのように一つとなる。
これは、具体的にはわたしたちの考えをはるかにこえた事です。

そして、神は死んだものの神ではないと書いてあります。
++++++++++
26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であ
る。』とあります。
27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」
マルコの福音書12章26−27節
++++++++++

ここで言われている柴の章とは、出エジプト記の3章です。
++++++++++
1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
出エジプト記3章1−3節
++++++++++
ここで、モーセは、主にお会いしました。

++++++++++
4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。
5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
出エジプト記3章4−6節
++++++++++
そして主は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神としてご自身を示されました。

彼らは、生きていると神様は言われます。
では、彼らの人生はどんな人生でしたか。

それは、神様にたより、神様に導かれる人生でした。
ただ、神様とのつながりのなかにある人生だったのです。

この神様とのつながりこそが、神様から見れば生きていることです。

神様とのつながりがないなら、どんなにこの世で立派に生きていても、生きているとはいえないのです。

イエス様は言われました。
++++++++++
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネの福音書15章5節
++++++++++
わたしたちは、イエス様につながらなければ何も出来ません。いや、イエス様につながらなければ実は生きてさえいないのです。
わたしたちは、このことを認めなければなりません。

そして、イエス様に目を向けるのです。
++++++++++
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
ヘブル人への手紙12章2節
++++++++++
そうするなら、あなたの中に命が流れます。

そして、いま、この命によって人々は生き返るのです。イエス様は今がその時だと言われました。
++++++++++
【 主題聖句 】
神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。
マルコの福音書12章27節
++++++++++
神様は、神様に目を向けるものの神様です。
主に目を向けて参りましょう。
お祈りしましょう。

<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答 ・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。教会の問題で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りとテロリスト達の悔い改めの為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。リーダー達が主に謙る様に。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・JMC、KFSM、NRAの為に。 ・EMPOWERD21の為に。

−−−−−−−−−−
シティーチャーチメッセージ2015/03/08 人が死人の中からよみがえるとき
−−−−−−−−−−




最新の音声ファイルはこちら
(MP3形式.PCのみ再生可)
※拡張子をMP3からmp3に変更(20130728)
・ワーシップ
http://www.cityc.net/weekly/worship.mp3

・メッセージ
http://www.cityc.net/weekly/message.mp3


テキストの先頭へ
INDEXへ
TOP Pageへ