礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20130414 
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努力して狭い門からはいりなさい。
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<いのり>

皆さんハレルヤ
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は力ある神全能者王の王主の主です。
この方を覚えて御言葉を開いて参りましょう。

さて、いつものように、東日本の為に祈りましょう。
昨日は、この関西で淡路島を震源として地震が起こりました。
日本中が揺さぶられています。日本の為に祈りましょう。
また、先日、イスラエルの為に祈るハイナイトの祈り会で見たBFPのビデオの中で東北の現状の報告がありました。
まだまだ、支援を必要としているといわれました。
その地に神様の助けがあるようにお祈りしましょう。
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<災害にあった地域の為の祈りの課題>
1、原子炉が速やかに安全な状態になるように。作業者の身体と命が守られるように。日本中が放射能から守られるように。
2、余震その他の災害から守られるように。
3、被災者に慰めと励ましがあるように。心と霊のケアの為に。
4、被災者への救援活動が効率よく進められますように。ボランティアや作業者に助けと守りがあるように。
5、この国が霊的に目覚めて罪を悔い改めて神様に従う民となるように。
6、日本の教会、クリスチャンが用いられるように。
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では、聖書の通読箇所をみて見ましょう。
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4月14日(日)[ ]士師13-15/[ ]ルカ12:41-59
4月15日(月)[ ]士師16-17/[ ]ルカ13:1-21
4月16日(火)[ ]士師18-19/[ ]ルカ13:22-35
4月17日(水)[ ]士師20-21/[ ]ルカ14
4月18日(木)[ ]ルツ1-2/[ ]ルカ15
4月19日(金)[ ]ルツ3-4/[ ]ルカ16
4月20日(土)[ ]Tサム1-2/[ ]ルカ17:1-19
4月21日(日)[ ]Tサム3-5/[ ]ルカ17:20-37
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旧約聖書が士師記からルツ記サムエル記第一
新約聖書はルカの福音書です。

士師記はカナンの地に入った民の混乱の時代です。
さまざまなリーダーが立ちますが、民はそれそれに好き勝手な事をしているのです。
また、ルツ記、それは、ダビデの系図にかかわるお話しです。
一人の異邦人の女性がイスラエルの神を自分の神とする。
そして、イエス様の系図の中にその名は残るのです。
そして、サムエル記。
預言者サムエルが登場します。
動きのある面白いところですので是非お読みください。

また、新約聖書、ルカの福音書はお話しの中で見て参りましょう。

では、ルカの福音書13章を開きましょう。
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【 聖書箇所 】ルカの福音書13章22-35節
・新改訳Up131(贈呈p118、英対p216)
・新改訳Vp143、英対p161(贈呈p135)
・口語訳p112
・新共同訳p135 (贈呈p135、英対p209)
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朗読をお願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】ルカの福音書13章22-35節
13:22 イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。
13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
13:24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
13:25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでし
ょう。
13:26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
13:27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
13:28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
13:29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
13:30 いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」
13:31 ちょうどそのとき、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに言った。「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」
13:32 イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。
13:33 だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』
13:34 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あな
たがたはそれを好まなかった。
13:35 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを
見ることができません。」
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では、主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
努力して狭い門からはいりなさい。
ルカの福音書13章24節
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ではこのところから、
「努力して狭い門からはいりなさい。」
と題しまして、御言葉を開いて参りましょう。

イエス様は、エルサレムに向けて旅をしておられました。
すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と聞いた人がいました。
それに対する主のお答えがこれです。
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24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
30 いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」
ルカの福音書13章24-30節
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この箇所を読んで皆さんどんなことをお感じになりますか。
はいろうとしてもはいれなくなる人が多い。
そう聞くと、やっぱり私はダメだと思う人もおられるのではないでしょうか。
では、どんな人が入れないのですか。

その人たちは言います。
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26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
ルカの福音書13章26-27節
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彼らは聞いてはいたのです。
主の恵みを受けてはいたのです。
聞いてはいるがということで、マルコの福音書の4章を開きます。
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18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。――みことばを聞いてはいるが、
19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
マルコの福音書4章18-19節
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聞いているが、世の事に目が行きみことばをふさぎ実を結ばない。
この世はさまざまなもので私たちを誘惑します。
また、テレビを見ていると、偉い学者が出て来て、聖書の言葉に反対するような事さえ言います。

しかし、そのような時、わたしたちにとって大切なのは、どちらが正しいかを調べようとすることではなく、どちらを選ぶかということです。
最近は何でもテレビがいっているからと、テレビの言う事は全て正しいかのように思われます。
しかし、テレビを多くの偽りでなりたっています。スポンサーがその情報を操作するのです。
それを信じてはなりません。

聞いているだけの者達は、時にはテレビの声を聞きます。時には教会で聖書の話を聞きます。
キリスト教国といわれるアメリカなどには、日曜日にだけ教会に行く人が沢山います。
その人たちは、聖書の言葉を聞いています。教会で一緒に食事もするかもしれません。
しかし、それだけなのです。

時にはテレビの声を聞き、時には聖書のお話しを聞き、いざとなると、テレビの声を選ぶ。
そうであってはなりません。
私たちは、いつも、神の言葉である聖書を選ばなければなりません。

みことばを聞いているだけのものについてヤコブはこう言います。
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22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
23 みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。
ヤコブの手紙1章22-25節
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御言葉の実を結ぶために必要な事は行なうことです。

救いは律法を守り行なうことでは得られません。
しかし、御言葉は行なわなければなりません。

しかし、それを行うためにどうすればいいのですか。
それが、25章に書いてあります。
完全な律法、自由の律法を一心に見つめて離れない。ということです。
完全な律法とはなんですか。
それは、律法の完成者であるイエス様です。
神を愛し、隣人を愛するという律法を完全になしとげて十字架で救いの御業を完成して死に、命を受けて蘇えられたこの方。
この方にしっかりと目を向けること。
そうするなら、すぐ忘れる聞き手にはなりません。ことを実行する人になるのです。

ところで皆さん。信仰は告白と行動によってあらわされます。

皆さん。信じたとおりになれと、告白の大切さを良く聞いておられると思います。
ところが、行いについてはどうでしょうか。

行いも同じです。
信仰が行いになるのです。

ある農夫の祈りについてのたとえ話を聞きいたことがあります。
日照りで雨が降らず困った農夫が畑で祈ろうと手に傘を持って出かけました。
すると、その農夫を見た人が言いました。
「どうしてこのカンカン照りなのに傘を持っているのですか。」
農夫は答えました。
「神様が雨を降らせて下さると信じるからです。雨が降ったとき、ずぶ濡れになっては困りますから。」
皆さん。
信仰は行動になるのです。

自分を迫害する人を赦すなど出来ない。
罪を犯さないでいることなど出来ない。
そんな言葉を聞くことがあります。

あるとき、イエス様が水の上を歩かれました。
ペテロがお願いすると、イエス様は来なさいといわれました。
それで、ペテロは、舟から水の上に足を下ろしました。
そして、ペテロは水の上を歩いたのです。

ペテロは修行を積んだから水の上を歩けるようになったのですか。
そうではありません。御言葉に従ったから、聖霊様が働かれて歩けたのです。

赦すことなどできない。
そうです。人間は自分に害を加えた人を赦せないかもしれない。
しかし、赦しなさいという御言葉に対し、アーメンと答えるのです。
それは、修行を積んだから赦せるようになるのではありません。
御言葉に素直に応答するとき、聖霊様が働かれて、貴方の中の肉を殺して下さるのです。

すべての信仰生活は、信仰によるのです。
自分の努力によるのではありません。
では、何を頑張るのですか。
それは、主を見つめること、主に目を向けることです。

その信仰が行いになるのです。
それが一番良くあらわれるのは十分の一のささげ物です。

十分の一を捧げましょうというと、ある方は言われます。
「それを捧げるくらい与えて下さったら捧げます。」
これは信仰とは言いません。
なぜなら、信仰は、見ないものを信じることだからです。
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信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
ヘブル人への手紙11章1節
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そして、見ないで信じるものは幸いだと主も言われます。
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イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
ヨハネの福音書20章29節
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この信仰の根拠は、私たちを愛し、十字架に架かって下さったイエス様と御子イエス様さえお与えになった神様にあります。
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そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
ローマ人への手紙10章17節
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キリストが十字架で示された愛こそが、私たちの祈りが聞かれる保証です。

ですから信仰は、十分の一を捧げましょうと聞くなら。
神様は豊かに与えて下さると信じて捧げるのです。

今、千円しか手元になくてそれが明後日支払わなければならないなら、それを捧げるのは苦しいかも知れません。
しかし、明日、百万円入金されると知っていたら千円を楽に手放せるのではないでしょうか。

神様は、あなたにあふれるばかりの恵みを注ぐと約束されました。
だから、安心して収入が入った最初に十分の一を捧げることが出来るのです。

それが、まだ目に見えないものを信じる信仰です。
そして、そのように御言葉を聞いて素直に信じ行なうなら、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです。
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良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
マルコの福音書4章20節
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ところで、マタイの福音書にはこうも書いてあります。
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20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
マタイの福音書7章20-23節
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ここで、預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行なうものが、しらないと言われていることを見てください。
それは、実ではないということです。

では、実とはなんですか。
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22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
ガラテヤ人への手紙5章22-26節
++++++++++
それは、御霊の実です。
そして、それは、肉によらず、御霊に導かれることです。
ですから、互いにあらそったり虚栄にはしってはならないのです。

私たちの御霊の実は、自分の努力によるのではありません。
信仰によって聖霊様が働かれた結果なのです。
ですから、自分はこれだけやったと誇ることは出来ません。
自分の努力や修行ではないからです。

教会には、自分こそへりくだっていますという高慢さえあります。
気をつけなければなりません。

私はこれだけやりました。
++++++++++
20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
マタイの福音書7章20-23節
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そういったものたちを主は喜ばれませんでした。

ところで、聖書箇所にもどりますが、
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24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
30 いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」
ルカの福音書13章24-30節
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気になるのは、この箇所です。
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家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
ルカの福音書13章25節
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ここで、すでに戸がしまっているのです。
皆さん。私たちは、戸が閉まってからどうやって入るかではなく、戸が閉まる前に入らなければならないのです。

戸が閉まるというお話しで10人の乙女の事を思い出します。
++++++++++
1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
マタイの福音書25章1-4節
++++++++++
5人の娘は賢く、5人は愚かでした。
その違いは何ですか。
それは、予備の油を用意したかどうかです。

花婿は遅れ、みな、眠りはじめました。
++++++++++
5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
マタイの福音書25章5-7節
++++++++++
いいですか、みな、眠りはじめたのです。
賢い娘は起きていたのではないのです。

そして、賢い娘達は予備の油があったので、ともし火が消えずなかったのです。
++++++++++
8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
マタイの福音書25章8-9節
++++++++++
愚かな娘達は、油を買いに行っている間に戸がしめられ、中に入れなくなりました。

++++++++++
10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
マタイの福音書25章8-13節
++++++++++
ここで、目を覚ましていなさいとあるので、ずっとおきて待っているのかと思いますが、愚かな娘と賢い娘を比べるとそうでないことがわかります。

覚ましているのは霊の目です。
その目を覚ましているために必要なのは聖霊様です。

なぜ彼女たちは入れなかったのですか。
油を持っていなかったからです。
油は聖霊様です。

聖霊様に満たされて生きる。
それは、今、満たされているから大丈夫と言うのではありません。
いつも、油を備えていなければならないのです。
それは、日々の御言葉と祈り、神様との交わりです。

いま、私たちは聖霊様の宮です。
++++++++++
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
コリント人への手紙第一6章19節
++++++++++

そして、その聖霊様を神は愛しておられるのです。
++++++++++
それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。
ヤコブの手紙4章5節
++++++++++
それゆえやがて主は、この聖霊様もろとも、私たちを引き上げて下さるのです。

また、聖霊様を受けていることは、信じるものに与えられた主との関係です。
信じるものすべてに聖霊様が与えられているのです。

その聖霊様をわたしたちはないがしろにしてはならないのです。

先日地震が起こりました。
その時緊急の警報が携帯からなりました。
私は、警報が早く、30秒くらい地震の到着までにあったと思います。
すごい技術だと感心しましたが、その間なにも出来ませんでした。
用意をしていなかったからです。
後で考えても火を消すことと、危険なところから離れること。
それくらいでしょうか。

今世の終わりが来たとき私たちはどうするでしょうか。
その時に向けて私たちが備えていなければならないのは聖霊様です。
それは主との関係であり、信仰としてあらわれますが、それは実によってあらわされるのです。
++++++++++
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
ガラテヤ人への手紙5章22-26節
++++++++++
皆さん。この関係は実によって表されるのです。
ですから、もし、この実が出来ていないなら、足らないのは修行ではなく、主との関係です。
しっかりと主に目を向けなければなりません。

努力して狭い門から入りなさいとイエス様が言われました。
その努力は、主に目を向けるという努力です。
主との関係をしっかり整えるという努力です。

それは、基本は日々の聖書の朗読と祈りです。

忙しくて読めない、祈れないと言わないで下さい。
これもまた、アーメンと答えるときに主が力を与え、時間を与えて下さいます。

さて、狭い門とはなんですか。
門はイエス様です。
++++++++++
7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
ヨハネの福音書10章7-10節
++++++++++
イエス様は、良い牧者であり、わたしたちの為に命を捨てて下さった方です。

人々の中には、命を狙われているからエルサレムにいくなと言うものもいました。
しかし、イエス様は命を捨てるために、エルサレムにいかれたのです。

それは、羊である私たちが命を得るためです。

この方にただ目を向けて、この方の御言葉を聞き、信じて行いましょう。
その時、聖霊様が働いて、御言葉を行なうものとならせて下さるのです。
そのことにより、あなたは御霊の実を豊かに結ぶのです。

お祈りしましょう。

<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答 ・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。教会の問題で傷ついた人々の為。・濱本先生の癒しの為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りとテロリスト達の悔い改めの為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。リーダー達が主に謙る様に。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・JMC、KFSM、NRAの為に。 ・EMPOWERD21の為に。

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シティーチャーチメッセージ20130414 努力して狭い門からはいりなさい。
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