礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20121111
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大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
++++++++++

<いのり>

皆さんハレルヤ
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、聖なる方、私たちをイエス様の血潮によって贖われた方。
恵みに満ちた方です。
この方を覚えて御言葉を開いて参りましょう。

まず、いつものように被災地の為に祈りましょう。
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<災害にあった地域の為の祈りの課題>
1、原子炉が速やかに安全な状態になるように。作業者の身体と命が守られるように。日本中が放射能から守られるように。
2、余震その他の災害から守られるように。
3、被災者に慰めと励ましがあるように。心と霊のケアの為に。
4、被災者への救援活動が効率よく進められますように。ボランティアや作業者に助けと守りがあるように。
5、この国が霊的に目覚めて罪を悔い改めて神様に従う民となるように。
6、日本の教会、クリスチャンが用いられるように。
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では、聖書の通読箇所を見てみましょう。
旧約聖書がエレミヤ書、哀歌、エゼキエル書です。
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11月11日(日)[ ]エレ52 /[ ]ヘブ2
11月12日(月)[ ]哀歌1-2 /[ ]ヘブ3
11月13日(火)[ ]哀歌3-5 /[ ]ヘブ4
11月14日(水)[ ]エゼ1-3 /[ ]ヘブ5
11月15日(木)[ ]エゼ4-7 /[ ]ヘブ6
11月16日(金)[ ]エゼ8-11 /[ ]ヘブ7
11月17日(土)[ ]エゼ12-14 /[ ]ヘブ8
11月18日(日)[ ]エゼ15-16 /[ ]ヘブ9
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エレミヤ書の最後の方には、バビロンの王ネブカデレザルがユダ王国を滅ぼし、エルサレムの神殿を焼き、人々を捕囚として連れ去ったという出来事が書かれています。
しかし、その一番最後の文章はこうです。
++++++++++
31 ユダの王エホヤキンが捕え移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、
32 彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。
33 彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。
34 彼の生活費は、死ぬ日までその一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されていた。
エレミヤ書52章31-34節
++++++++++
神様が、王の心を動かされ、捕囚となっていたダビデの子孫であるエホヤキン王はこのような慰めを受けたのです。

神様はいつも哀れみと恵みに満ちた方です。

哀歌はエレミヤ哀歌とも言われる悲しみの歌です。
捕囚の地での彼らの悲しみを歌っています。
そして、いまも、ユダヤ人は嘆きの壁でこの歌を祈りとして唱えるのです。

それに続くエゼキエル書は、エゼキエルの預言です。
捕囚の地でエゼキエルは、世の終わりに向けての預言の言葉を受け取るのです。

これらのところ、是非皆さんお読みください。

また、新約聖書は、ヘブル人への手紙。
こちらはお話しの中で見てまいりましょう。
ヘブル人への手紙4章を開きましょう。
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【 聖書箇所 】ヘブル人への手紙4章1−16節
・新改訳Up392(贈呈p342、英対p648)
・新改訳Vp427、英対p475(贈呈p389)
・口語訳p346
・新共同訳p404 (贈呈p404、英対p598)
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では朗読をお願いします。

++++++++++
【 聖書箇所のテキスト 】
ヘブル人への手紙4章1−16節
4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったか
らです。
4:3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
4:4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。
4:5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。
4:6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、
4:7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
4:9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
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続いて主題聖句を言いましょう。
++++++++++
【 主題聖句 】
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙4章16節
++++++++++

では、今日はこのところから、
「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」
と、題しまして、御言葉を開いて参りましょう。

このヘブル人への手紙ですが、これは不思議な書です。
まず、ヘブル人への手紙は、その著者が特定できません。

ある程度の候補はありますが、それ以外のことは分りません。
パウロとも、ヨハネとも言われます。
この手紙の最初を見てみましょう。
++++++++++
1 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
4 御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。
ヘブル人への手紙1章1-4節
++++++++++
ここで、1章1節に、「神は、むかし先祖達に」と書かれていることから、この著者も、そして受取人も、アブラハム、イサク、ヤコブを先祖とするものたちだとわかります。
それで、この書は、ヘブル人への手紙と呼ばれました。

ヘブル人、一般には、ヘブライ人とも言われます。そして、それはイスラエル人を現しているともいえます。
そして、厳密には、違いがありますが、今は、簡単にはユダヤ人のことだと思ってもらえばいいと思います。
ですからこの手紙はイエス様と同じ先祖をもつ、ユダヤ人が同じくユダヤ人に送った手紙であるということです。

2節以降、この手紙は、とてもはっきりとした信仰告白が書かれています。
御子と書かれているイエス様がどんな方なのか、非常に良く分る言葉だと思います。

さて、今回の箇所に戻ります。その冒頭は、こう書いてありました。
++++++++++
こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
ヘブル人への手紙4章1節
++++++++++
ここで、こういうわけでと書いてありますので、また、少し前を見てみましょう。

こうやって少しでも聖書の言葉に直接触れていただければと思っています。
++++++++++
15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
ヘブル人への手紙3章15-19節
++++++++++
この箇所で言われているのは、イスラエルの民のことです。
彼らは、モーセに率いられて、エジプトを出ましたが、不信仰のゆえに40年、荒野をさまよったのです。

そのため、彼らは、安息に入ることが出来ませんでした。

そして、その理由は明確です。
不信仰です。

彼らは、不信仰のゆえに、荒野をさまよったのです。
彼らは、不信仰のゆえに、安息に入れなかったのです。

ですから、逆に、安息は信仰から来ます。

安息というと思い出すのはこの御言葉です。
++++++++++
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです
マタイの福音書11章28−30節
++++++++++
この御言葉をはじめて耳にする方おられますか?
おられませんね。
この教会に来た方は、必ずこの御言葉を耳にします。
それは、毎週私がここを読むことに決めているからです。

また、この教会の看板にも、おおきく、ここから引用して「わたしのところに来なさい」と書いてあります。

この御言葉は、イエス様の語られた言葉です。
私たちにイエス様は安息を与えようとされます。
休みを与えようとされます。
霊と魂に安息のあることが平安です。
イエス様は平安を与えてくださる方です。

しかしその平安はこの世の与える平安とは違うとも言われます。
++++++++++
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりま
せん。
ヨハネの福音書14章27節
++++++++++
その平安は、どんな嵐の中でも変わらない平安です。

イエス様はそのような平安の中にいつもおられました。

それゆえ、このような事が書かれています。
++++++++++
23 イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
24 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
25 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
マタイの福音書8章23-26節
++++++++++
丁度、先日のJMCのフェスティバルで岡田先生がこの箇所から語れました。

暴風で、舟が大波をかぶっても、イエス様は安息の中におられたのです。
なんという安息でしょう。平安でしょう。

弟子たちはあわてましたが、イエス様はそれをしずめられました。
そして、弟子たちに、信仰が薄いといわれたのです。

ここで、弟子たちは、「私たちはおぼれそうです。」と言っています。
「イエス様は、起きないとおぼれますよ」とは言いません。
イエス様は大丈夫だと信じているのです。
それで、「助けて下さいと」イエス様に言うのです。

その時イエス様は、眠っておられました。
平安の中で眠っておられたのです。

平安は、信仰から来ます。
イエス様は、父なる神様が良い方だと信じておられました。
父なる神様の愛を信じておられました。
それゆえ、平安の中におられたのです。

弟子たちが同じ平安の中にいたら、一緒に寝ていたかもしれません。

ところが弟子たちは、イエス様が偉大だとは知っていても、イエス様の愛は信じられなかったのです。
神を信じるものは、神のおられることと、神が報いてくださる方である事を信じなければなりません。

この信仰に、平安がともないます。
++++++++++
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
ヨハネの福音書16章33節
++++++++++

そこに平安があります。
しかし、それを疑わせようと悪魔のもたらす患難があります。
ですから、それを超えた神様に目を向け、神様に信頼しなければならないのです。
これは、これこそが、霊の戦い、信仰の戦いです。
そして、世に勝ったイエス様がともにおられるのです。

皆さん。このことを忘れてはなりません。

このことを忘れるなら、不安に駆られるか、いつなくなるかも分らないこの世の与える平安にしがみつくかです。

この世の与える平安は変化します。
永遠ではありません。

しかし、イエス様につくものは、永遠の平安を得ることが出来るのです。

ちなみに、私たち自身が平安の主と共にいるので、主はこのように言われます。
++++++++++
5 どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。
6 もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。
ルカの福音書10章5-6節
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互いの平安のために祈りあいましょう。
どこに行ってもそこに平安の主が働いてくださるように祝福して祈りましょう。
しかし、ここで平安を祈るとき、それは、単にその家が争いがなく落ち着いているようにと祈っているのではありません。

6日で天地を作られた神様は、7日目に休まれました。それが安息です。つまり、その安息は、創造の完成をも表しています。
それは、神様のみこころの実現です。
つまり、平安を祈ることは、神様のみこころの実現、ご計画の完成、神の栄光の表れを祈ることなのです。

さて、御言葉の箇所に戻りますが、
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9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
ヘブル人への手紙4章9-11節
++++++++++

ここで、安息日の休みが神の民の為に残っていると書かれています。
この神の民とは、信じたわたしたちです。
そして、この神の安息に入るなら、休むのです。
それは、神様にゆだねて歩むという事を意味しています。

ところで、この続きのこの御言葉は、よく引用される御言葉です。
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12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
ヘブル人への手紙4章12-13節
++++++++++

神の言葉は生きているということは非常に重要です。
ヨハネの福音書は、神の言葉が人となられたのがキリスト・イエス様であると教えています。
また、それらからすれば、神の子とは、神の言葉の実体なのです。

それに続く、神の前で隠しおおせるものは何一つないというのも重要なことです。
神の言葉は私たちの心の考えを判別し、魂と霊の間を切り分けるのです。

では、どんな考えを判別するのですか。
それは、不信仰です。

神にゆだねない、神の安息にはいろうとしない考え。
それを神の言葉は判別するのです。

11節と12節を並べると良く分ります。
++++++++++
11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
ヘブル人への手紙4章11-12節
++++++++++

どうですか。
安息に入るよう力を尽くそうと11節で書かれ、落伍者がいないようにと言った上で、それを判別するのは生きた神の言葉だと教えているのです。

神の言葉は生きていると聞くとき、また、神の言葉は心を判別すると聴くとき、そう聞きながら、ああ、それじゃあちゃんとしなきゃとおもうけど、
そのちゃんと、の基準は、結局自分の考えであることが多いのです。

しかし、その判断の基準は、あなたが信仰によって神の安息に入っているかどうかです。
安息、平安こそが、神の御心の完成だからです。

いや、そんなことを言っても自分のこの考えを捨てれません。
わたしがいままで生きてきた基準を捨てれません。
わたしはこれが正しいと思っているのでそれを捨てれません。

それが、不信仰です。
それは、神様にお任せしきるのが不安だからです。
わたしたちは、全てを神様にゆだねなければなりません。
そのために力を尽くして努めるのです。
神にゆだねるため、安息にはいるため、休むために、わたしたちは戦います。
それは、この世の考えから目を離してただ、神様に目を向けるという信仰の戦いです。
これは、先程も言った霊の戦い、神様から引き離そうとする悪魔との戦いなのです。


さて神様にゆだねる。というとき、ペテロが水の上を歩いた話を思い出します。
これも、岡田先生が先日引用しておられました。
イエス様から「来なさい」との御言葉を頂いて、ペテロは踏み出しました。

そして、水の上を歩いたのです。

ペテロは、身をもって奇跡を体験しました。

最初の一歩を踏み出すとき、どれだけ不安だったでしょう。
いや、彼が不安だったかどうか分りません。
その瞬間平安の中にいたかも知れません。
どちらにしてもペテロはこの瞬間イエス様にゆだねたのです。

わたしたちも、時にはこのようにゆだねることが出来るかも知れません。
ある方がゆだねきれましたと言われる。感謝して祈ると、しばらくして落ち込んでいる彼と出会う。
そんなこともあるかも知れません。しかし、それでもまた神様に目を向けて歩いていく。
これが信仰生活です。

皆さん。
あなたが、真っ暗な中はしごをおります。
一番したまでおりたところで、はしごはありません。
足を伸ばしますが、地面には届きません。
なんとかはしごのいちばんしたから、ぶらさがります。
しかし、地面に届きません。

下にいる人が、暗い中でみて、もう10センチしたに地面があるから手をはなしなさいといいます。

あなたは手を離せますか?

自分の目で見るまで手を離せない。
地面が上がってきてくれて足につかないと手を離せない。
地面は普通上がってきません。
不安で手放せない。ゆだねきれない。
そこにいて大丈夫だといった人が、知らない人なら、安心できません。
でも、あなたの父や母、親しい信頼できる友であるなら、手を離すことが出来るかもしれません。

それは、その人との信頼関係によります。
ですから、神様との信頼関係、つまり、信仰が重要なのです。

イエス様は言われました。
++++++++++
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
ヨハネの福音書20章29節
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見ずに、ただ、神の言葉を信じるなら、それは幸いです。

何を信じるのですか。
神を信じるものは、神がおられることと、信じるものに報いて下さる事を信じるのです。

神様のおられることは、悪魔も信じています。
いや、知っています。
しかし、悪魔は、神様の愛を知りません。
神様の愛がどれだけ素晴らしいかを悪魔は知らないのです。

今、その愛は、十字架に示されました。
そして十字架を信じる信仰によって、私たちは、この愛の中に、恵みの中にいれられているのです。

あなたの信じる方はどんなかたですか。
それが、冒頭にあった、1章2節からの信仰告白ですし、また、続くこの箇所です。
++++++++++
14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙4章14-16節
++++++++++
イエス様は、もろもろの天を通られたかた。
天には、少なくとも3つあるといいます。
私たちが空と呼ぶ天。
そして、空中の支配者といわれる、悪魔や悪霊のいる天。
そして、最後に、神様のおられる天です。

イエス様は全ての天をとおり、それら全てにたいし、支配と権威を持っておられるのです。
しかし、同時にその方は、私たちを哀れんでくださる大祭司です。

それゆえ、この方の贖いの中で私たちは、大胆に恵みの御座に近づくことが出来るのです。

大胆に祈りをもって信仰をもって神の前にでて、そして、この安息に入ることが出来るのです。

お祈りしましょう。

<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答 ・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。教会の問題で傷ついた人々の為。・濱本先生の癒しの為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りとテロリスト達の悔い改めの為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。リーダー達が主に謙る様に。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・JMC、KFSM、NRAの為に。 ・EMPOWERD21の為に。

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シティーチャーチメッセージ20121111 大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか
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