礼拝でのお話
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シティーチャーチ
メッセージ20120812
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信じる人はみな義と認められるのです
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<いのり>

皆さんハレルヤ。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、全能者力ある神、信じるものを義と認めてくださる方。
そのために十字架で全ての罪の代価を支払われた方です。
この方を覚えて御言葉を開いて参りましょう。

さて、まず、東日本の為に祈りましょう。
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<災害にあった地域の為の祈りの課題>
1、原子炉が速やかに安全な状態になるように。作業者の身体と命が守られるように。日本中が放射能から守られるように。
2、余震その他の災害から守られるように。
3、被災者に慰めと励ましがあるように。心と霊のケアの為に。
4、被災者への救援活動が効率よく進められますように。ボランティアや作業者に助けと守りがあるように。
5、この国が霊的に目覚めて罪を悔い改めて神様に従う民となるように。
6、日本の教会、クリスチャンが用いられるように。
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聖書の通読箇所を見て見ましょう。
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8月12日(日)[ ]詩42-45 /[ ]ロマ9:1-18
8月13日(月)[ ]詩46-49 /[ ]ロマ9:19-33
8月14日(火)[ ]詩50-53 /[ ]ロマ10
8月15日(水)[ ]詩54-58 /[ ]ロマ11:1-24
8月16日(木)[ ]詩59-63 /[ ]ロマ11:25-36
8月17日(金)[ ]詩64-67 /[ ]ロマ12
8月18日(土)[ ]詩68-69 /[ ]ロマ13
8月19日(日)[ ]詩70-72 /[ ]ロマ14
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旧約聖書は詩篇。
新約聖書はローマ人への手紙です。
詩篇の中で、ダビデは、私を助けてくださいと祈り叫びます。
その叫びに主はこたえて、ダビデを守り導かれました。
主は、そのような心からの叫びを待っておられます。
また、この45篇などに出てくるコラの子たちですが、コラはレビ族でしたが、モーセに逆らい滅ぼされてしまいました。
しかし、その時、神様は、子ども達を守り、そして、主を賛美するものとされたのです。
新約聖書は、ローマ人への手紙。
こちらも、非常に大切なところです。

では、このローマ人への手紙から、10章を開きましょう。
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【 聖書箇所 】ローマ人への手紙10章1-13節
・新改訳Up279(贈呈p245、英対p468)
・新改訳Vp305、英対p340(贈呈p280)
・口語訳p246
・新共同訳p288 (贈呈p288、英対p438)
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朗読をお願いします。

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【 聖書箇所のテキスト 】
ローマ人への手紙10章1-13節
10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
10:3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
10:4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
10:5 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。
10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
10:7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
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では、主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
ローマ人への手紙10章4節
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では、この所から、
「信じるものはみな義と認められるのです」
と、題しまして御言葉を開いて参りたいと思います。

まず、今、読んで頂いた所の最初をもう一度見てましょう。
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1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
ローマ人への手紙10章1−3節
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ここで、パウロが言っている彼らが誰の事なのか、どのような人たちの事なのかを確認するのに、9章の最後を開きます。
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30 では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
ローマ人への手紙9章30-33節
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ここを見ると、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しなかったことが書いてあります。

それで、パウロが、イスラエルについて言っているのだとわかります。
このイスラエルとは、イスラエル民族、そして、ユダヤ人のことです。
彼ら、イスラエル人、そしてユダヤ人は、義の律法を追い求めたのに、到達せず、異邦人は、信仰による義を得たと書いてあります。

なぜ、イスラエルは失敗したのか、それは、信仰によって追い求めなかったからだと書いてあります。
また、行ないによるかのように求めたからだとも書いてあります。

それらを見て、もう一度、10章に戻ります。
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1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
ローマ人への手紙10章1−3節
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パウロは、そのようにして、救いからはずれたイスラエル人、ユダヤ人が、救われることを望み、祈っています。
パウロは、その働きにおいては、異邦人へ向きを変えましたが、決してユダヤ人を憎んだのではありません。
彼は、どこまでもイスラエル人、ユダヤ人を愛し、救いの為に祈ったのです。

その上で、パウロは、彼らイスラエル人、ユダヤ人が、神に対して熱心だといっています。

そうです。
ユダヤ人について見るなら、彼らは、いまでも神様に熱心です。
彼ら多くの者の一年は、トーラー、すなわち律法の朗読と共に進み、その例祭一つ一つをきちんと守り、毎週安息日を守り、神に祈りを捧げ、律法に従って歩んでいます。
しかし、そのような彼らが、救いから外れてしまったのです。

何故なのか、彼らは熱心であったけれども、その熱心が知識に基づくものではなかったからです。
知識がたらないというのは、彼らが聖書を読んでいなかったのでしょうか。

パウロは自分について話しているところがあります。
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私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。
使徒の働き22章3節
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パウロは、律法についての厳格な教育を受けました。

ユダヤ人には、バルミツバといわれる儀式があります。
それは、男性の成人の儀式です。
そこでは、成人する若者はヘブル語で律法を朗読するのです。
また、多くの者は、律法を暗唱すことが出来るとも聞きます。
厳格に律法の教育を受けたパウロなどは、律法を正確に暗唱していたのではないかと思います。

聖書の言葉に親しみ、聖書を良く知っている。そして、その言葉を行っている。
それでも、彼らは、救いを得なかったのです。

それはなぜか、その熱心が知識に基づくものでなかった。

彼らは、律法について十分な知識を持っていたのではないでしょうか?
しかし、彼らの知識では不十分だったのです。

それは、何が違っていたのですか?
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1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
ローマ人への手紙10章1−3節
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彼らは、神の義を知らなかったのです。

アブラハムと言う人が旧約聖書に登場します。
彼は、信仰の祖ともいわれました。
彼が、神様を信じ、それが義と認められたと書いてあります。

このアブラハムと主との契約がなされたとき、主は、獣を二つに裂いて、向かい合わせに置くように言われました。
三頭の獣が殺され、主が言われたとおりにされました。
それは、古代の契約の儀式です。
もし、契約を破ればそのようにされてもいいというものです。

約束をするのに、指きりげんまんといいますね。
うそついたら針千本飲ます。
針を千本飲まされるのも恐ろしいですが、このように二つに裂かれるのも恐ろしいです。

契約の当事者は、一緒にそこを通り抜けるのです。

ところが、そのとき、ただ、主の臨在が、その間を通り過ぎたのです。
アブラハムはそこを通りませんでした。

それは、アブラハムの行ないによらない、神様の一方的な契約だったからです。

同じように、この十字架は、誰がここに架かりましたか。
それは、イエス様ただ一人です。
私たちが一緒に架かったのではありません。

父なる神様が、神の御子イエス様を遣わし、イエス様が一人で十字架で死なれたのです。

イエス様が一人で全てをなしとげて下さったのです。

私たちは、それをアブラハムのときのように、信じて受け止めるしかないのです。

ところが、彼らは、義が神によって与えられるものであるという事を知らずに、自分で義を立てようとし、神の義に従わなかったのです。
その結果、彼らは、彼らの為に用意されたものを得ることが出来ませんでした。

神様の与えようとされたのは、信仰による義です。
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3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
ローマ人への手紙10章3-4節
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ユダヤ人は、律法を行い義を立てようとしましたが、その律法をキリストが終わらせたのです。

律法は、モーセが受け取りました。
それは、出エジプトのあとのことでした。

モーセは、エジプトでパロの元で育てられました。
パロというとなじみがないのですが、いま、ツタンカーメンが話題になっています。
あのツタンカーメンは、ファラオと言われます。
聖書でパロと書かれているのは、ファラオの事で、エジプト王の称号です。

モーセは、パロの元で育てられ、40歳でエジプトを追われ、荒野で80歳まで過し、その後、神様から遣わされて、エジプトからイスラエルの民を救い出しました。
紅海が二つに別れ、その海底を歩いて荒野に渡り行った先はシナイ山。

そのシナイ山でモーセは、二つの石の板を神様から頂いたのです。
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こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。
出エジプト記31章18節
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その板に、十戒がかかれていました。
それが、律法の中心です。
それに加えて、神様が語られたことを、モーセは民に語り、書き留めました。
それが、律法です。
その律法によって、義とされようとするなら、律法の全てを行わなければなりません。

律法は、ヘブル語でトーラーと呼ばれます。
それは、聖書の最初の5つの書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記をさしています。

そこに聖書全体の、神様の救いのご計画の原点があります。

この律法を受け取ったモーセはいいました。
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モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。
ローマ人への手紙10章5節
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律法を行うものは、律法の義によって生きる。

ところが、ヤコブの手紙にはこう書いてあります。
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律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
ヤコブの手紙2章10節
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律法を守ることで義とされようとするなら、全てを完全に守らなければならないのです。

しかし、誰も、その律法を完全に守り行えるものはありません。
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それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
ローマ人への手紙3章10節
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では、どうすればいいのか。
ガラテヤ人への手紙にこう書いてあります。
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ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。
ガラテヤ人への手紙3章11節
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義人は信仰によって生きる。

では、この信仰はどこら始まるでしょう。
イエス様が十字架で死に蘇えられた今、それは、この御言葉であらわされます。
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そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
ローマ人への手紙10章17節
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信仰は、イエス様について聞くことからはじまる。
これは非常に大切です。

私たちは、イエス様について、キリストについて、聞くことから信仰がはじまるのです。
キリストについての御言葉とは何か、それは福音です。

その福音に、ついてこう書いてあります。
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なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
ローマ人への手紙1章17節
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その福音は、神の義を得させ、信仰から信仰へと進ませるのです。

では、その福音とは何か。
それは、前回もみたこの御言葉です。
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3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
コリント人への手紙第一 15章3-4節
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イエス様が罪の身代わりに十字架で死に、三日目に蘇えられたこと。
これが、福音です。
あなたが何かすることではありません。
方法ではありません。
イエス様がして下さった事そのものが福音なのです。

そして、この十字架こそ、あなたへの神様の祝福の扉が開かれた印。
信じるあなたにとっての祝福の印です。

そして、これを自分のものとするのが、今回のこの箇所です。
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9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ローマ人への手紙10章9-10節
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ですから、イエス様が死んで蘇えられたと信じるなら、あなたは救われるのです。
心に信じ、口で告白して救われるのです。
ただそれだけです。それで、この大きな祝福を、神の義を、自分のものとすることが出来るのです。

ところで、この信じて告白するということは、救いだけでなく全ての事にあてはまります。

あなたの信じたとおりになれとイエス様はいわれ、告白の通りになるのです。

ですから、私たちは、祝福を告白するのです。
神様はよい事をして下さると信じ告白するのです。
もし、悪い事を信じ告白するなら、それさえもその通りになります。

人を呪ってはならないと聞くと、呪うなんてそんなことをしませんと言われるでしょう。
しかし、相手を心配しているといいながら、「あなたそんなことをしていると 悪いことが起こりますよ。」とか、言う事はありませんか。
その告白の通りになるなら、それはのろいです。
わたしたちは、悪い告白によって互いを呪うことが出来るのです。

ですから、良い告白をしなければなりません。
互いを祝福するとは、互いの為に良い告白をすることでもあります。

「食べ過ぎて、体を壊しますよ」というのと、
「体の為、食べすぎ無いようにしましょう。でも、神様が体を守って下さると信じます。」というのでは全然違うのです。

さて、お話しを戻します。
あなたの為に全てを成し遂げてくださったイエス様を信じるものについて聖書はいいます。
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11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
++++++++++
イエス様を呼び求める全ての物、地の果ての異邦人の私たちさえも、主は救われました。

しかし、まだまだ、主を知らない同胞がこの日本にいます。

その人々の為に祈りましょう。
また、ユダヤ人も、その多くは、まだ、イエス様を信じることが出来ません。

イスラエル、エルサレムの為に祈るものを主は祝福されます。

アブラハムを祝福するものを主は祝福されます。
その祝福を、私たちは信仰によって受け継いでいますが、ユダヤ人たちもまた、その祝福を受けついでいます。
ですから、ユダヤ人の救いの為にもいのりましょう。

それは、これを教えてくれた、パウロの祈りでもあるからです。
主の御名を、呼び求めるものは誰でも救われる。

この救いの中に、信仰によって入れられていることを感謝します。

お祈りしましょう。

<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・濱本先生の癒しの為に。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。 
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・日本宣教センター、キッズ&ファミリー・サポート・ミッションの為に。

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シティーチャーチメッセージ20120812 信じる人はみな義と認められるのです
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