礼拝でのお話
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ワーシップ/メッセージ
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シティーチャーチ
メッセージ20120429 
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十字架だ。十字架につけろ。
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<いのり>

皆さんハレルヤ。
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、私たちの罪の身代わりに十字架で死に蘇られた方。
完全な救いと、完全な赦しと、完全な勝利を成し遂げられた方です。
この方を覚えて聖書を開いて参りましょう。

さて、いつものようにまず、東日本の為に祈りましょう。
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<災害にあった地域の為の祈りの課題>
1、原子炉が速やかに安全な状態になるように。作業者の身体と命が守られるように。日本中が放射能から守られるように。
2、余震その他の災害から守られるように。
3、被災者に慰めと励ましがあるように。心と霊のケアの為に。
4、被災者への救援活動が効率よく進められますように。ボランティアや作業者に助けと守りがあるように。
5、この国が霊的に目覚めて罪を悔い改めて神様に従う民となるように。
6、日本の教会、クリスチャンが用いられるように。
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では、続いて、聖書の通読箇所を見て見ましょう。

今週の聖書の通読箇所は、
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4月29日(日)[ ]Tサム22-23 /[ ]ルカ22:24-46
4月30日(月)[ ]Tサム24-25 /[ ]ルカ22:47-71
5月1日(火)[ ]Tサム26-28 /[ ]ルカ23:1-32
5月2日(水)[ ]Tサム29-31 /[ ]ルカ23:33-56
5月3日(木)[ ]Uサム1-2 /[ ]ルカ24:1-32
5月4日(金)[ ]Uサム3-4 /[ ]ルカ24:33-53
5月5日(土)[ ]Uサム5-6 /[ ]ヨハ1:1-28
5月6日(日)[ ]Uサム7-8 /[ ]ヨハ1:29-51
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旧約聖書がサムエル記第一からサムエル記第二
新約聖書がルカの福音書からヨハネの福音書です。

このサムエル記の第一から第二へ変わる所にはどんな出来事があるでしょう。
サムエル記第一の最後は、イスラエルの王サウルの死で終わります。
そして、サムエル記の第二で、王権はダビデへと移ります。
そこから、ダビデはあっというまに周辺の国々を平定します。
主が共におられたからです。

新約聖書は、ルカの福音書、そして、ヨハネの福音書。
聖書の中で福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネとあります。

実は、福音書と呼ばれるものはこのほかにも、ペテロの福音書や、トマスの福音書といったものも残されていますが、それらは、様々な理由で調べられ吟味された結果、正典としての聖書には入れられていません。
それだけに、聖書の中の福音書は、聖霊様によって霊感され人々によって吟味されたものです。
聖書の中の福音書の内でも、マタイ、マルコ、ルカは共観福音書と呼ばれ、良く似た視点を持っています。
しかし、ヨハネの福音書は特別な視点を持っています。
それは、主にもっとも愛されたとされるヨハネだから書けたのかも知れません。

ルカの福音書は、お話しの中で見て参りましょう。

では、このルカの福音書から23章を開いて参りましょう。

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【 聖書箇所 】ルカの福音書23章18-26節
・新改訳Up152(贈呈p137、英対p251)
・新改訳Vp166、英対p187(贈呈p157)
・口語訳p131
・新共同訳p157 (贈呈p157、英対p244)
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では、司会者。朗読をお願いします。

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【 聖書箇所のテキスト 】ルカの福音書23章18-26節
23:18 しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」
23:19 バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。
23:20 ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。
23:21 しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。
23:22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
23:24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。
23:25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。
23:26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。
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では、主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。
ルカの福音書23章21節
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では、この所から、
「十字架だ十字架につけろ。」
と題しまして、御言葉を開いて参りましょう。

さて、このタイトルは、非常にインパクトの強いものだと思います。

しかし、これは、聖書に書かれたままの民衆の言葉です。

イエス様は十字架に架かられて死んで、三日目に復活されました。
この復活の日の一週間前が、棕櫚の日で、その日、イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレムに入られ、群集はイスラエルの王様として、イエス様をお迎えしたというお話しをしました。
ホサナ、ホサナと叫ぶ民衆の声に迎えられてイエス様は、エルサレムに入られたのです。
しかし、その声が、今回の箇所で、「十字架だ、十字架につけろ。」という叫び声に変わったのです。

群集はイエス様を見捨てたのです。
群集にとって、ローマに捕らえられて鞭打たれた救い主は、もう、彼らにとって、大切な存在ではなくなってしまったのです。

まず、この時、何が起こったのか、少し様子を見てみたいと思います。
最後の晩餐と呼ばれる過ぎ越しの食事の後、イエス様は、オリーブ山のゲッセマネと言う園で最後の祈りを捧げられました。
そして、そこにイエス様を裏切ったユダに率いられてイエス様を捕らえるために群集がやってきました。

イエス様は、彼らに捕らえられ、祭司長のところに行き、そこで、イエス様が神の子であるという宣言をされたという事で、神に対する冒涜であるとして、罪に定められました。
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67 こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、
68 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。
69 しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」
70 彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と言われた。
71 すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから。」と言った。
ルカの福音書22章67-71節
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そして、イエス様は、総督ピラトのもとへつれていかれました。
ピラトは、イエス様はエルサレムにいたヘロデの所に送られ、また、ピラトの所に送り返されました。
結果、ピラトは言います。
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13 ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、
14 こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。
15 ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。
16 だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
ルカの福音書23章13-16節
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そこで、今回の箇所に続きます。

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18 しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」
19 バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。
20 ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。
21 しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。
ルカの福音書23章18-21節
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彼ら群集は、イエス様をねたんだ、民のリーダー、祭司長や律法学者たちによって先導されてもいたようです。

しかし、彼らは、熱狂的にイエス様を十字架につけようとします。

暴動や人殺しをしたものよりも、イエス様の死を望んだのです。
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22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。
ルカの福音書23章22-24節
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ピラトの判決は、無罪なのです。
なのに、群集は、イエス様を十字架につけようとしました。
これは、冤罪どころではありません。
ただ、感情をぶつけているに過ぎないのです。
しかし、それによってイエス様は死刑となったのです。

イエス様がロバの子にのってエルサレムに入られたとき、イエス様を迎えた群衆はこう叫びました。
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しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
ヨハネの福音書12章13節
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彼らは、イスラエルの王を待っていました。
しかし、イエス様は、イスラエルの王としてこられたのではありません。
それ以上の存在、全世界の救い主としてこられました。

また、この方は、全ての物の為の罪からの救い主でした。

彼らは、ローマの圧制から救ってくれる救い主を待っていました。
しかし、神が与えられた救い主は、そのような方ではありませんでした。
彼らを、罪から、永遠の滅びから、死から、悪魔から救ってくださる救い主だったのです。

彼らは、そのようなイエス様が自分にとって必要であることを理解しませんでした。

以前伝道するために路傍でトラクトを配っている時だったと思います。救いなんかより、金をくれと言われたことがあります。
人は、目の前の必要にしか目が行かないときがあります。

どんな人も、やがて、人はその人生の終わりを迎えます。
人生の終わりより先に世の終わりが来るかもしれない時代に私たちは生きています。
どちらにしても、そのとき、人はお金を必要としません。
お金は何のやくにも立ちません。
そうなった時、はじめて、自分が永遠に滅びるものである事を知り、そして、救いが必要であったと知るかも知れません。
それでは遅いのです。行き先は永遠の滅び以外にありません。

ですから、今、私たちはイエス様を信じなければなりません。
永遠の命の木であるキリストにしっかりと結びつかなければならないのです。

この時の群集は、イスラエルの王を待っていました。
しかし、イエス様は、王の王主の主、全ての者を死と悪魔から救う救い主でした。

それで、彼らはこの方を必要ないと考えたのです。
また、ローマの圧制の元、彼らにとって力をもったリーダーは危険でした。
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47 そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。
48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
ヨハネの福音書11章47-48節
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ローマが、一斉蜂起とみてそれを理由に攻めてくることを恐れてもいたのです。

それで、イエス様を殺してしまうことが、一番いい結論になったのです。
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しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。
ルカの福音書23章21節
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十字架につけろと叫んで、人々はイエス様を殺すためにローマに引き渡しました。

その結果、ローマの兵はイエス様を十字架につけました。

その十字架の上でさえ、イエス様は、人々のとりなしをされました。
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「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
ルカの福音書23章34節
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イエス様は、十字架で死ぬために来られたのです。
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人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
マタイの福音書20章28節
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そういう意味で、ユダはその務めをしたから良かったなどと言う人もいます。

しかし、イエス様は言われました。
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確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
マルコの福音書14章21節
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救い主を殺そうとするものが神様からのろわれるのは当然の事です。

しかし、イエス様は祈られました。
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「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
ルカの福音書23章34節
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このとりなしには全てのものが含まれていると思いませんか。

裏切っているという事で言えば、ペテロも同じです。
しかし、その罪の中でどこを見たかで結果は変わります。

十字架の上で、一人の罪人はいいました。
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42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
ルカの福音書23章42-43節
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イエス様はこの罪人をイエス様と共にいるといわれました。
十字架の上の罪人でさえイエス様の方をみて救われたのです。
彼は救いに預かったのです。

皆さん。救いは、自分の罪を認め、イエス様の前にへりくだり、イエス様を信じる信仰によって与えられます。

この方以外に救いはないのですかと聞かれることがあります。
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この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
使徒の働き4章21節
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聖書にはこう書いてあります。
この御名の他にないのです。

誰も、それ以外にないかどうか、自分で試してみて欲しいとは思いません。
試した結果は永遠の滅びです。

さて、このイエス様の十字架の意味をもう少し考えましょう。
コリント人への手紙第二に、これは神の和解だと書いてあります。
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18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
コリント人への手紙第二 5章18-21節
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神の和解。
これは、神から与えられた和解です。
ここで、使徒たちは、神からの和解の使節だといっていますが、そのはじまりはイエス様です。
和解を自分から神様はしてくださったのです。

和解が必要であるのは、そこに何かのトラブルがあったからです。
それは、どんなトラブルでしょう。

両方に問題のあることもあるでしょう。
片方が一方的に悪い場合もあります。
その時は、悪いほうから、謝罪をするのが普通です。
そして、和解をすることができます。

神と人との関係は、一方的に人間が神様を裏切り神様から離れたのです。
しかし、人間は自分が神様から離れている罪すら判っていません。

そんな罪の中にいる私たちの為に、神様は一方的に和解の手を伸べてくださったのです。
そのために来られたのがイエス様です。
ここには、神が懇願しておられるとも書いてあります。

そうするとき、十字架には二通りの意味があります。
一つは、あなたの罪の身代わりとしての十字架です。

そしてもう一つは、あなたを苦しめた者の代わりの十字架です。

イエス様への、十字架につけろとの叫びは、本来だれにむけられたものですか。
それは、彼らを苦しめたものです。ローマへの怒り、憎しみ。自分の生活の苦しみ。
そういった怒りや苛立ちが、イエス様に向けられたのです。
それが十字架につけろという言葉になりました。

十字架は極刑です。
誰かが人を殺す。殺されたものの見ている前で、犯罪者が十字架で死ぬ。
そうすると、それを見て遺族が慰めを受けるのです。

沢山の人が殺されるような事件が起こると、死刑にしろという声が出ます。
それは、その事によって回りの者のかき乱された心がなぐさめられるからです。

そのような怒り、憎しみ。イエス様はその全てを背負って十字架で死んで下さったのです。

いま、あなたは誰かに対して怒りをもっていないでしょうか。憎しみを持っていないでしょうか。あなたがその人に向ける怒り。
全てのものの罪の身代わりにイエス様が死なれたという事は、あなたが怒る相手の罪の身代わりにもイエス様は死なれたという事です。
つまり、その十字架は、あなたの十字架につけろという叫びの結果だということです。

私たちが、誰かに怒りを向けるなら、その怒りこそがイエス様を十字架につけたのです。
また、その十字架は、あなた自身の罪のためでもあります。

イエス様は、あなたの罪の代価として十字架に死んでくださいました。
また、あなたの怒りの向かうところとして、十字架で死んで下さったのです。
それが、イエス様の十字架です。

だからイエス様は、互いに赦し合いなさいといわれます。
主の祈りにも、
我らに罪を犯すものをわれらが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ。 
と、書かれています。

イエス様は、十字架の上で、わたしたちをとりなして下さいました。

そして、十字架に付かれたイエス様は、その十字架の上で、全ての罪を背負われました。
それは、あなたを苦しめたものの罪。そして、あなたの罪です。

この方にお祈りしましょう。

<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・濱本先生の癒しの為に。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。 
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・日本宣教センター、キッズ&ファミリー・サポート・ミッションの為に。

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シティーチャーチメッセージ20120429 十字架だ。十字架につけろ。
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ちょっとイラスト
(お話しを元にしたイラストです)
http://www.cityc.net/weekly/illust.gif


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