礼拝でのお話
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音声ファイル(作成日4/15)

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ワーシップ/メッセージ
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シティーチャーチ
メッセージ20120415 
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ひとりの罪人が悔い改めるなら
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<いのり>

皆さんハレルヤ
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、全能者、力ある神、王の王主の主です。
この方を覚えて御言葉を開いて参りましょう。

先日、キッズワーシップ集会が開かれました。
素晴らしい集会でした。
ここに写真を出したかったのですが、ちょうど、私の携帯のカメラの調子が悪くなり、写真を撮ることが出来ませんでした。
子どもが150人ほど。
大人が同じくらいで、300人ほど集まったのではないかと思います。
子ども達が一生懸命賛美する姿に感動しました。
きっと、私以上に主が喜んでおられることと思います。
天候も守られました。お祈りありがとうございました。
どうぞ、このKFSMの働きのため、続けてお祈りください。

さて、今日も、いつものように、東日本の為に祈りましょう。
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<災害にあった地域の為の祈りの課題>
1、原子炉が速やかに安全な状態になるように。作業者の身体と命が守られるように。日本中が放射能から守られるように。
2、余震その他の災害から守られるように。
3、被災者に慰めと励ましがあるように。心と霊のケアの為に。
4、被災者への救援活動が効率よく進められますように。ボランティアや作業者に助けと守りがあるように。
5、この国が霊的に目覚めて罪を悔い改めて神様に従う民となるように。
6、日本の教会、クリスチャンが用いられるように。
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では、聖書の通読箇所を開きましょう。
今週の聖書の通読箇所は、
旧約聖書が士師記、ルツ記、サムエル記です。
そして新約聖書がルカの福音書です。
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4月15日(日)[ ]士師18-19 /[ ]ルカ13:22-35
4月16日(月)[ ]士師20-21 /[ ]ルカ14
4月17日(火)[ ]ルツ1-2 /[ ]ルカ15
4月18日(水)[ ]ルツ3-4 /[ ]ルカ16
4月19日(木)[ ]Tサム1-2 /[ ]ルカ17:1-19
4月20日(金)[ ]Tサム3-5 /[ ]ルカ17:20-37
4月21日(土)[ ]Tサム6-8 /[ ]ルカ18:1-17
4月22日(日)[ ]Tサム9-10 /[ ]ルカ18:18-43
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士師記のテーマは、それぞれが、思い思いの事をしていたということです。
彼らのしていることは、自分がよいと思うことでした。
しかし、神様は、主に従うリーダーを求めておられます。

それは、誰かがそうなるのではありません。
御言葉を聞いたあなたがそうなるのです。

あなたが御言葉に聞き御言葉にしたがうのです。
主はそのあなたを祝福し、あなたを通して回りの人々を祝福して下さいます。

士師記に続いて、ルツ記。
このルツという人は、ダビデ王のひいおばあさんです。
彼女は、異邦人でしたが、イスラエルの神様のもとに身をよせ、祝福を受けたのです。

また、サムエル記第一は、預言者サムエルの生涯からはじまり、サウル、ダビデとつづく王権が書かれています。

これらは、非常に読みやすいところです。ぜひ、これらの所をお読みください。

また、新約聖書は、ルカの福音書。
こちらは、お話しの中で見てまいりましょう。

では、今日はルカの福音書15章を開きましょう。
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【 聖書箇所 】ルカの福音書15章1-10節
・新改訳Up133(贈呈p120、英対p220)
・新改訳Vp146、英対p164(贈呈p138)
・口語訳p115
・新共同訳p138 (贈呈p138、英対p214)
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では、朗読をお願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
ルカの福音書15章1-10節
15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
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では、主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。
ルカの福音書15章10節
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では、このところから、
「ひとりの罪人が悔い改めるなら」
と題しまして御言葉を開いて参りましょう。

では、今お読みいただいた箇所。

これも、パリサイ人や律法学者たちと、イエス様とのやりとりから始まります。

パリサイというのは、分けるという意味をもつ言葉です。
それは、この世から分かれるということです。

この世から分かれて、神様にしたがって生きる。
それが、パリサイ派のもともとの考えでした。

この当時、ユダヤ教の中には大きく、3つの派があったといわれます。
その一つが、パリサイ派です。
あとの二つは、サドカイ派とエッセネ派です。

サドカイ派は、神殿の祭司達を中心としたグループです。
しかし、その信仰は形骸化しており、世俗的なものとなっていました。
彼らは、御使いの存在や、神様が生きて働かれることを信じられなくなっていました。

もう一つのエッセネ派ですが、バプテスマのヨハネもこのエッセネ派だったといわれます。
また、イエス様も、この派に属しておられたのでは無いかと考えられています。
バプテスマのヨハネが、荒野にいて、毛衣を着て、いなごと野蜜で暮らしたような暮らしをする人たちだったようです。

パリサイ派は、律法に熱心でした。
それで、律法の学者となるものが多くいました。

使徒パウロも、イエス様を信じる前の自分について、こういっています。
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「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。
使徒の働き22章3節

5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
ピリピ人への手紙3章5-6節
++++++++++
ここに出てくるガマリエルは名の通った律法学者で、パウロはその元で律法を学んだのです。
また、かれは、自分が律法に熱心だったといいます。

しかし、彼らは、自分が律法を守り行うことに熱心で、神様の御心がなにであるかを考えることが出来ませんでした。
皆さん。駅で電車を待っていると、黄色い線までお下がりくださいとアナウンスがながれます。
黄色い線までさがらなければならないと、そこに下がり、そして、電車が到着します。
ドアが開きます。
そこで、黄色い線から出てはいけないと頑張っていたらやがてドアが閉じて電車は出ていきます。

パリサイ人たちは、そのように、イエス様がこられても、自分の考えにとらわれて踏み出すことが出来なかったのです。

今回の箇所に書かれていることは、それをあらわしています。
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1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
ルカの福音書15章1-2節
++++++++++
罪人達でさえ、イエス様の話を聞こうとしてやってきた。
しかし、彼らは、イエス様の話を受け入れることが出来なかったのです。

では、神様のみこころはなんでしょう。
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39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
ヨハネの福音書6章39-40節
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神様のみこころは、信じるものが永遠の命を持つことです。

また、イエス様は、罪人を救うためにこられました。
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イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
マルコの福音書2章17節
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イエス様は、罪人を招くためにこられました。

その罪人とはどんな存在ですか。
それは、いまお読みいただいたところに書いてあった、逃げ出した羊のようなものです。
羊は、群れ飼われ養われています。
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4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
ルカの福音書15章4-6節
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羊は、弱い存在です。だから、犬や猫のように野良羊になって生きていくことは普通出来ません。
すぐに死んでしまいます。
一匹はなれて、まあ、自由に暮らしていけばいいというわけにいかないのです。
そのような羊を探すためにイエス様はこられました。

私達は自分で立派に生きているように思います。
しかし、そうではありません。
本来、人は、神様の恵みなしに本来生きることは出来ないのです。
イエス様はいわれました。
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イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」
ルカの福音書4章4節
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また、ここにある硬貨の例えもそうです。
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8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
9 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
ルカの福音書15章8-9節
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彼女の元にこそ、その硬貨の存在する意味がありました。

罪人は、神様から失われているのです。
しかし、その罪人を救うためにイエス様はこられました。
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あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
ルカの福音書15章7節
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そして、主にとってわたしたちは、それほどに価値のある存在だという事です。

イエス様は、罪人の為にこられました。

それで、パウロは、こういいます。
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「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
テモテへの手紙第一 1章15節
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彼は、イエス様が罪人を救うために来られたというだけでなく、自分が罪人のかしらだといっています。
自分こそ、罪人だというのです。
そして、罪人のかしらだというのです。
ワーストワンっていうことです。
一番悪い。
パウロは、自分をそのように言って、主の前にでたのです。

パウロは、律法に熱心でした。
律法を熱心に学び、律法を熱心に行いました。
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「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。
使徒の働き22章3節

5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
ピリピ人への手紙3章5-6節
++++++++++
しかし、彼は、自分の罪を認めざるをえなかったのです。

パウロはいいます。
++++++++++
18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
ローマ人への手紙7章18-21節
++++++++++
気をつけて下さい。
パウロはいいかげんな人ではありません。
しかし、熱心になればなるほど、パウロは、こころの中の罪を認めざるを得なかったのです。

さらにパウロはいいます。
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22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
ローマ人への手紙7章22-25節
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だから、パウロは、自分は罪人のかしらだといったのです。
自分こそワーストワンだと言ったのです。

もし、あの人と比べて私はましだとか、自分はあの人ほどの罪は犯していないと考えるなら、自分をワーストワンだとすることはないでしょう。
しかし、パウロは、神様の前で、自分の罪を認めたからこそ、自分こそ比べようの無い罪人だ、ワーストワンだと認めたのです。
そして、救いは、キリストイエス様にしかないということを認めたのです。

これらのことからすると、
へりくだるというのは、自分の罪を認める事と、神様の素晴らしさを認める事です。
本当に、自分の罪を認めるなら、人を裁くことなど出来ないと思います。
また、本当に神様の素晴らしさを認めるなら、自分の立派さを誇ることなど出来ないでしょう。

それだけではありません。パウロは、自分が罪人のかしらだといいますが、
++++++++++
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
テモテへの手紙第一 1章15節
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それは、自分にイエス様が必要だという事をあらわしています。

なぜなら、イエス様は、罪人の為にこられたからです。
そして、自分を罪人だと認めて主の前に出るものに主は言われます。
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心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
マタイの福音書5章3節
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この言葉は、自分の心の貧しさを知るもの、へりくだったものに神様が天の御国をお与えになるということです。

先ほどの律法学者パリサイ人たちはどうでしたか?
彼らは、自分達こそ正しいと考えていました。
だから、イエス様の周りにいる人たちを、罪人たちと言ったのです。

本来、彼らこそ、自分の罪を律法に照らして認め、主の前に出なければならない人たちでした。
++++++++++
1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
ルカの福音書15章1-2節
++++++++++
しかし、彼らは、イエス様を裁くことしか出来なかったのです。

ここで、私達は思います。
本当に、自分の罪を認め、へりくだっているだろうか。
人を裁いていないだろうか。

わたしたちは、自分と違う存在をすぐに裁いてしまうものです。
実際、わたしたちが、パリサイ人や律法学者を悪く言うことすらおこがましいことです。

ところが、つい人を裁いてしまう。そのように裁くとき、後で、愛がないと感じたり、人を裁くのを我慢しようと考えたりします。
しかし、大切なのはそんなことではありません。

わたしたちに大切なのは、イエス様の素晴らしさを知ることと、自分の罪を認める事、そこに赦しを受け止めることです。
あなたの罪が本当に赦されているなら、またイエス様の素晴らしさを知り、本当にイエス様の前にへりくだっているなら、私達は、互いに赦しあうことができます。

その赦しは、主との関係からくるのです。
++++++++++
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
ヘブル人への手紙12章2節
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この主と関係を築くのに、私達は、聖書を読み祈るのです。

また、私たち自身、しっかりと主に留まるだけではありません。

主の御心は、人々が救われることです。
パウロが、なんとかして幾人か救うためといったように、私達もこの福音を告げ知らせるものとならせて頂きましょう。



<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・濱本先生の癒しの為に。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。 
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・日本宣教センター、キッズ&ファミリー・サポート・ミッションの為に。

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シティーチャーチメッセージ20120415 ひとりの罪人が悔い改めるなら
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ちょっとイラスト
(お話しを元にしたイラストです)
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