礼拝でのお話
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※本文中に安息日をシャブオットと書きましたが誤りで正しくはシャバットです。シャブオットは七週の祭りです。お詫びして訂正します。
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シティーチャーチ
メッセージ20120115
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人の子は安息日の主です
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<いのり>
皆さんハレルヤ
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、変わることの無い、平安、状況によらない平安を私たちに与えてくださる方です。
この方を覚えて御言葉を開いて参りましょう。

本日もまず、東日本の為の祈ります。
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<災害にあった地域の為の祈りの課題>
1、原子炉が速やかに安全な状態になるように。作業者の身体と命が守られるように。日本中が放射能から守られるように。
2、余震がおさまるように。これ以上災害がおこらないように。
3、被災者に慰めと励ましがあるように。心と霊のケアの為に。
4、被災者への救援活動が効率よく進められますように。ボランティアや作業者に助けと守りがあるように。
5、この国が霊的に目覚めて罪を悔い改めて神様に従う民となるように。
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続いて、聖書の通読箇所を見てみましょう。旧約聖書は創世記、新約聖書はマタイの福音書です。
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1月15日(日)[ ]創35-36 /[ ]マタ10:21-42
1月16日(月)[ ]創37-38 /[ ]マタ11
1月17日(火)[ ]創39-40 /[ ]マタ12:1-28
1月18日(水)[ ]創41-42 /[ ]マタ12:29-50
1月19日(木)[ ]創43-44 /[ ]マタ13:1-30
1月20日(金)[ ]創45-46 /[ ]マタ13:31-58
1月21日(土)[ ]創47-48 /[ ]マタ14:1-21
1月22日(日)[ ]創49-50 /[ ]マタ14:22-36
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旧約聖書の創世記は、35章から終わりまでです。
この箇所は、ヤコブが逃亡先からカナンの地に戻って後の出来事、ヨセフの物語、そして、ヤコブすなわちイスラエルの一族のエジプトへの移住と続きます。
ヨセフの物語などは、非常に美しいクライマックスです。是非お読みください。
また、新約聖書はマタイの福音書の10章から14章です。
これらの箇所にはイエス様が12弟子を任命し、悪霊追い出しの権威を授けられたところから、さまざまな、御業、そして、教えが続きます。

皆さん毎日、聖書を読みましょう。聖書の御言葉は命の糧です。御言葉に触れるとき、私たちは命のパンであるイエス様に触れるのです。
では、この中からマタイの福音書の12章を開きましょう。
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【 聖書箇所 】マタイの福音書12章1-14節
・新改訳Up19(贈呈p18、英対p32)
・新改訳Vp21、英対p25(贈呈p21)
・口語訳p17
・新共同訳p21 (贈呈p21、英対p31)
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聖書の朗読をお願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
マタイの福音書12章1-14節
1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
4 神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
8 人の子は安息日の主です。」
9 イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
10 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。
11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
++++++++++
では、皆さんで主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。
マタイの福音書12章7節
++++++++++
では、このところから
「人の子は安息日の主です」
と題しまして、御言葉を開いて参りましょう。

この御言葉は、ホセア書6章6節の引用です。このあわれみは、誠実とも愛とも訳されています。
神様は、いけにえ、ささげ物よりも、愛や憐れみ誠実を喜ばれる方です。

さて、今回の箇所で、まず、重要なのは安息日です。
安息日は、ヘブル語ではシャバットと言います。その日は、ユダヤ教では土曜日です。しかし、私たちは、イエス様の復活を記念して日曜日に礼拝しています。

この安息日について、規定されるのは、モーセの十戒です。それは、出エジプト記に書いてあります。
++++++++++
8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人
も。――
11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
出エジプト記 20章8-11節
++++++++++
それは、どんな仕事もしてはならない日です。
また、それは、神様の天地創造との関りから定められています。

創世記も開いてみましょう。
++++++++++
1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
創世記2章1-3節
++++++++++
主なる神様は、7日目に休まれました。
そのことが、先ほどの出エジプト記で、この11節に書かれているわけです。
++++++++++
8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人
も。――
11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
出エジプト記 20章8-11節
++++++++++
この日は、どんな日でしょうか?それは、労働をしてはならない日です。

では労働とはどんな事か、聞く所では、エレベーターで各階のスイッチを押すのは労働になるそうです。
火をおこしてはならないという事で、電気のスイッチを入れる事は、パチッと火がおこるというような事で、スイッチはいれられないんだそうです。
それで、イスラエルでは、安息日になると、エレベーターが各階に止まるようになるそうです。そうすればスイッチを押さなくていいという事ですね。

電球が切れても変える事が出来ない。いろいろな不都合はあるそうです。
しかし、今も、聖書の教えをそのように細かく受け止めて信じ行動しているユダヤ人はやはり聖書の民、約束の民なのだと思います。

これも、イスラエルに住んでおられた方から聞いた話ですが、先の電球の話で、ユダヤ人の家で電球が切れたとき、電球を替えてくれと頼まれたそうです。
異邦人ならユダヤ人でないから電球を変えてもいいという解釈だそうです。ちょっと面白いなと思います。

さて、この律法にどんなものがあるかモーセの十戒を一度見直してみましょう。
++++++++++
@3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
A4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四
代にまで及ぼし、
B7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
C8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
出エジプト記20章3-5、7-8節
++++++++++
ここまでが、神様と人との関係。

そして、ここからが、人と人との関係です。
++++++++++
D12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
E13 殺してはならない。
F14 姦淫してはならない。
G15 盗んではならない。
H16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
I17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
出エジプト記20章12-17節
++++++++++
まとめたものを週報に載せておきます。
++++++++++
1.ほかの神々があってはならない。2.偶像を造ってはならない、拝んではならない。3.主の御名をみだりに唱えてはならない。4.安息日を聖なる日とせよ。
5.父と母を敬え。6.殺してはならない。7.姦淫してはならない。8.盗んではならない。9.偽りの証言をしてはならない。10.隣人のものを欲しがってはならない。
出エジプト記20章
++++++++++

さて、安息日の律法にもどります。
++++++++++
8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人
も。――
11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
出エジプト記 20章8-11節
++++++++++

では、この安息日について、それを守ることがどれほど重要だったかを見てみたいと思います。
++++++++++
32 イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。
33 たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。
34 しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。
35 すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」
36 そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。
民数記15章32-36節
++++++++++
彼は、人を殺したのでも盗んだのでも姦淫したのでもありません。
彼は、安息日に薪をあつめていた。そのために殺されたのです。
しかし、実は彼が薪を集めたというこの事は、彼が全く安息日を守る気がなかったことを示しています。

何の為に薪を集めるのですか?
火を起こす為です。また、おそらく何かを調理する為です。

荒野においては、調理すべきマナは安息日にはありません。
ですから、彼のした事は不必要なこと、不自然な事なのです。
神様の戒めをあえて破ろうとする、これは大変な罪です。
律法を破ることは死につながるのです。
この後、主は戒めを忘れないように、房を衣の四隅につけるようにと言われました。

私たちは、今、イエス様の罪の購いという、大きな恵みの中に生かされています。
ですから、聖書の戒めをやぶっても殺される事はありません。

イエス様は、貴方の過去、現在、未来の全ての罪を背負って死んで下さったのです。
ただ、あなたは、罪を犯したとき、それを認め、そして罪の赦しと聖めを求めて祈らなければなりません。
決して罪をいい加減にしてはなりません。

この罪の赦しとは、どんな罪も犯していい事になったという事ではありません。
律法は、変わりません。
++++++++++
18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉
大な者と呼ばれます。
マタイの福音書5章18-19節
++++++++++
ですから、律法をいい加減にすることは出来ません。

しかし、神様が払われた大きな犠牲によって、恵みによって救われたのです。
++++++++++
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
ローマ人への手紙3章24節
++++++++++
わたしたちは、そのように、恵みによって義と認められたのです。
ですから、なおさら律法をいい加減に考えることはできません。

また、イエス様は、
++++++++++
しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
マルコの福音書3章29節
++++++++++
といわれました。

聖霊様は、私たちに罪を示し、罪の悔い改めへと導かれます。
ところが、その聖霊様をないがしろにするなら、その語りかけに耳を傾けないなら、私たちの罪はそのまま残るのです。

もう少しこのことを考えましょう。イエス様は、言われました。
++++++++++
39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
ヨハネの福音書 9章39-41節
++++++++++
「私たちは目が見える」そう言っている事で、私たちの罪は残るといわれました。
この目が見えるというのは、霊的な意味です。私たちの目が開けているなら、罪がはっきりわかるはずです。
しかし、私たちの霊の目は曇っています。だから、その罪がわかりません。
その事を認める事が大切なのです。

だから、ヨハネの手紙にはこうかいてあります。
++++++++++
8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
ヨハネの手紙第一1章8-10節
++++++++++
私たちは、罪を認め、悔い改め、赦しときよめをいただかなければならないのです。

さて、今は、罪を犯したからといっていきなり殺される事はありません。
それは、イエス様による罪の赦しがあるからです。
ところがモーセの時代は時代はそうではありませんでした。

彼はこの罪の為に殺されたのです。
石で打ち殺すとありますが、「石打の刑」それは恐ろしい刑罰です。
回りのものが罪を犯したものに石を投げつけて殺すのです。小石ではありません。大きな石をぶつけるのです。
沢山の石が投げつけられ、その石に苦しみ、気絶し、石の下敷きになって死んでいくのです。
これは恐ろしい刑罰です。

ですから、律法をやぶるというのは、大変なこと、そして、安息日はその中でも重要な律法だったのです。

さて、今回の箇所で、イエス様と弟子達は、安息日に、麦畑を通りました。
++++++++++
1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
マタイの福音書12章1-2節
++++++++++
そこで、その穂をつんで食べ始めたのです。
それを、安息日にしてはならない事といわれています。
安息日にしてはならないのは何ですか?それは労働です。
つまり、これが労働だとパリサイ人たちは言ったのです。

ここでのイエス様の答えはこうです。
++++++++++
3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
4 神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
8 人の子は安息日の主です。」
マタイの福音書12章3-8節
++++++++++
ここで、まず、5節を見ますと、祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないと書いてあります。
どういうことですか?
祭司達は、安息日にも捧げ物をします。
それは、労働だということです。
ですから、安息日に働いている。しかし、それは罪にならないのです。

またこの箇所はマルコの福音書ではこう書いてあります。
++++++++++
25 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
26 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」
27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
28 人の子は安息日にも主です。」
マルコの福音書2章25-28節
++++++++++
この事はサムエル記に書かれていますが、ダビデはおなかがすいたとき、祭司しか食べてはならないパンを食べたのです。
それを主は赦されました。また、祭司もそれを認めたのです。

そして、27節でこう言われます。
++++++++++
また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
マルコの福音書2章27節
++++++++++
安息日は、人間の為につくられた。
先の民数記で、安息日を破って死んだものがいると、安息日の為に人間が造られたかのように思ってしまう。
しかし、そうではありません。

神様が人間の為に造られたルールをあえて破るものに対して、神様は厳しく対処されました。
しかし、神様は哀れみ深い方です。

安息日は、人間の為、人間が仕事をしないため。
それは、体を休めるだけでなく、労働をはなれ、神様との関係をとりもどすため。
神様との交わりを持つためです。

神様は、人間の為に安息日を作られた。
そして、最後はどちらもこの言葉です。
++++++++++
人の子は安息日にも主です。
++++++++++
イエス様は、安息日にも主だといわれます。

弟子達が麦の穂をつんだとき、そこにイエス様はおられました。
おなかがすいて、そのようにした弟子達を哀れみ深い主が赦されたのです。

安息日にも主である方が、弟子達と共におられ、彼らがしたことを咎めるのでなく赦されたのです。
その律法を定めた方、全ての権威をもっておられる方が赦されたのです。

また、ここに宮より大きな者がいると言われました。
++++++++++
6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
8 人の子は安息日の主です。」
マタイの福音書12章6-8節
++++++++++
その方が、共におられたのです。

この方は、あわれみは好むが、いけにえは好まないといわれる方です。

この意味を良く考えてください。
おなかがすいたという弱さのゆえに麦を摘んで食べてしまったもの。
それを主が赦された。哀れみ深い主が赦された。
しかし、それを責め、罪に定めようとするパリサイ人。

皆さん。私たちは、そのようなものになっていないでしょうか?

教会は人間の立派さを競い合うところではありません。
もし、競うとするなら、神様に対して、どれだけ正直か、へりくだっているかを競うのです。

だから、私たちは互いを罪に定め、責め合うことはできません。

愛するが故の助言はあるでしょう。責め戒め勧めなさいとあります。

しかし、それはどれも愛の故でなければなりません。

正直に心の中を見て、愛でないなら、相手を責めることは出来ません。
それは、相手をほっておくとか見逃すとかいう相手のためではなく、あなたのためです。

貴方に愛がないなら相手を責める資格がないからです。
自分の考えうる義でもって裁きあうことは出来ないのです。

主の祈りにこうあります。
++++++++++
12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
マタイの福音書6章12節
++++++++++
そして、さらにこう書いてあります。
++++++++++
14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
マタイの福音書6章14-15節
++++++++++
私たちにとって互いを赦すという事は非常に大切なのです。
恩赦という言葉があります。
辞書では、「行政権によって公訴権を消滅させ、あるいは刑の言い渡しの効果の全部または一部を消滅させること。」
とか、
「天皇の大権によって刑罰を軽減すること。」
などと書かれています。

私たちは、イエス様の贖いにより、神様の偉大な権威によって赦されています。
つまり、聖書の言う赦しは、神様による恩赦です。

日本語でゆるすという言葉は、恩赦という赦すと、許可という許すがあります。
許可は、車の免許証などがそうであるように、その技能がなければ与えられません。

しかし、聖書の言う罪の赦しは、恩赦です。それは、許可ではありません。
ですから、相手の罪を、恩赦として赦す。そして、神の愛で相手を愛するがゆえに責め戒め勧めるのです。

もし、相手に対して怒りをもっているなら、まず、祈らなければなりません。
私たちと共におられる方は、私たち自身とその相手を含め、すべてを治めておられる方です。
罪を見逃すことを言っているのではありません。あなたに、罪を犯したものへの怒りや憎しみがあるなら、祈り悔い改めなければならないと言っているのです。

私たちは、弱いものを責めることがないようにしなければなりません。支え励まさなければなりません。

この世は相手を責め、つぶそうとする世界です。
しかし、教会は互いに支えあい、励ましあうところです。
++++++++++
3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
ローマ人への手紙14章3-4節
++++++++++

さて、お話しをもどしましょう。
さらにイエス様は、会堂に入られました。そこには、片手のなえた人がいました。
++++++++++
9 イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
10 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。
11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
マタイの福音書12章9-14節
++++++++++
イエス様はその人を癒されました。
そのとき、イエス様は、穴におちた羊を例にとって、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」という質問に「安息日に良いことをすることは、正しいのです。」と言われました。

また、先ほどの箇所で、主は言われました。
++++++++++
7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
8 人の子は安息日の主です。」
マタイの福音書12章7-8節
++++++++++
あわれみ深い大祭司であるイエス様は、罪を赦し、病のものを癒されたのです。
先ほどの箇所で、主は、安息日に宮につかえる祭司はその神聖を犯しても罪にならないといわれました。

祭司はいけにえを捧げ、神と人との関係をとりもつ仕事をします。
主は、神と人とをとりもつために、祭司以上の働きをされました。
そのために、病のものを癒し、そして、安息日に良いことをすることは、正しいといわれるのです。

安息日は、人間のためにあるとイエス様はいわれました。そして、主は安息日の主であるといわれました。
人が本当の安息を得るため。では、安息とはなんですか?それは神様との正しい関係です。

本来安息日はそのような神様との関係を正し、神様に目を向ける日です。そこに本当の安息があるのです。

罪によって、病やさまざまな問題によって、神様から離されている人間。そのような人間を主は、安息へと、神様との本当の関係へと導かれます。

あなたは、この主の憐れみと恵みにすがりたいと思いますか?
あなたが主の前にへりくだるなら、あなたを主は癒して下さいます。
あなたは、自分の罪を認めますか?
あなたが主の前にへりくだるなら、主は赦して下さいます。

主は安息日の主です。あなたに、本当の安息を与えてくださる方です。
主は今も働いておられます。お祈りしましょう。

<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。 
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・日本宣教センター、キッズ&ファミリー・サポート・ミッションの為に。
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シティーチャーチメッセージ20120115 人の子は安息日の主です 
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ちょっとイラスト
(お話しを元にしたイラストです)
http://www.cityc.net/weekly/illust.gif

今回はもう一つあります

最新の音声ファイルはこちら
(MP3形式.PCのみ再生可)
・ワーシップ
http://www.cityc.net/weekly/worship.MP3

・メッセージ
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