礼拝でのお話
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作成日11/27
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ワーシップ
メッセージ
メッセージの音声ファイルは、原稿と若干違う場合があります。



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シティーチャーチ
メッセージ20111127    
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心を強くしなさい
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<いのり>

皆さんハレルヤ
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、私たちと共におられ
私たちに平安を与え、心を強くして下さる方です。
この方を覚えて御言葉を開いて参りましょう。

では、まず、今日も東日本の為に共に祈りましょう。
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<災害にあった地域の為の祈りの課題>
1、原子炉が速やかに安全な状態になるように。作業者の身体と命が守られるように。日本中が放射能から守られるように。
2、余震がおさまるように。これ以上災害がおこらないように。
3、被災者に慰めと励ましがあるように。心と霊のケアの為に。
4、被災者への救援活動が効率よく進められますように。ボランティアや作業者に助けと守りがあるように。
5、この国が霊的に目覚めて罪を悔い改めて神様に従う民となるように。
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つづいて、聖書の通読箇所を開きましょう。

今週の聖書の通読箇所は、
旧約聖書がエゼキエル書からダニエル書
新約聖書がヤコブの手紙からペテロの手紙第一です。
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11月27日(日)[ ]エゼ37-38 /[ ]ヤコブ3
11月28日(月)[ ]エゼ39-40 /[ ]ヤコブ4
11月29日(火)[ ]エゼ41-43 /[ ]ヤコブ5
11月30日(水)[ ]エゼ44-45 /[ ]Tペテ1
12月1日(木)[ ]エゼ46-48 /[ ]Tペテ2
12月2日(金)[ ]ダニ1-2 /[ ]Tペテ3
12月3日(土)[ ]ダニ3-4 /[ ]Tペテ4
12月4日(日)[ ]ダニ5-6 /[ ]Tペテ5
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預言者エゼキエルに主が語られた預言は、世の終わりについての事柄を多く含みます。
まだ、ダニエル書は、バビロンに捕囚となったダニエルとその仲間達を主が祝福しバビロンにおいても用いて下さることが書かれています。
命がけの信仰に主は答えて奇跡を起こされます。
是非、そのところもお読みください。
新約聖書のヤコブの手紙は、信仰は行いに現れるということが書かれています。
それは、結局の所、御霊の実であり、キリストにしっかりと結びついていることでその実は実ります。
私たちは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった御霊の実を日々の生活の中で表して行くのです。

ペテロの手紙は、キリストに根ざした信仰生活を教えてくれます。
皆さん、是非、聖書を読みましょう。
聖書の言葉は、あなたの霊を成長させます。
あなたが理解できても、出来なくても、聖書の言葉はあなたに働きます。
ですから毎日聖書を通読するのです。

では、今日は、ヤコブの手紙の5章を開きましょう。

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【 聖書箇所 】ヤコブの手紙5章7-20節
・新改訳Up413(贈呈p359、英対p682)
・新改訳Vp450、英対p499(贈呈p409)
・口語訳p364
・新共同訳p426 (贈呈p426、英対p629)
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聖書の朗読をお願いします。

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【 聖書箇所のテキスト 】
ヤコブの手紙5章7-20節
5:7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
5:8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
5:9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
5:10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
5:11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちてお
られる方だということです。
5:12 私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばき
に会わないためです。
5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
5:14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
5:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。
5:18 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。
5:19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、
5:20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。
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主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
ヤコブの手紙5章8節
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では、この所から、
「心を強くしなさい」
と題しまして、御言葉を開いて参りましょう。

今回の聖書箇所、ヤコブの手紙。
これは、宗教改革者マルチンルターが藁の書だと言ったと言われる書です。
マルチンルターは、信仰による義について語りました。
ガラテヤ人への手紙や、ローマ人への手紙には、そのことがはっきりと書かれています。
ところが、ヤコブの手紙には、信仰だけではダメだと書いてあるのです。
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私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
ヤコブの手紙2章14節
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それで、この書は価値が無いと言う意味で、藁の書と呼んだというのです。

ルターのような偉大な人物の聖書解釈において、ダメだといってるものを、わたしのようなものがいやいやというのはおこがましくも思うのですが、
子どもが親に肩車されると親よりも背が高くなり遠くが見えるように、後のものは、先の者にもの肩に乗りもっと先が見せてもらえるという事があります。
この書についても、ルターがはっきりと信仰によって義とされるということを見出したからこそ、信仰によって義とされるという土台の上で、この御言葉を見ることが出来ます。

ところで、その前に、このヤコブですが、一般的には主の兄弟ヤコブだと考えられています。
この使徒の働きとガラテヤ人への手紙に出てくるヤコブです。
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次の日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこには長老たちがみな集まっていた。
使徒の働き21章18節

しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。
ガラテヤ人への手紙1章19節
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ヤコブという名前は聖書に沢山出てきます。
イスラエル民族の祖であるイスラエルは、これは、彼が神様からもらった勝利者という意味の名前です。
しかし、そのもとの名はヤコブでした。アブラハムの子、イサクの子、ヤコブ。
ですから、このヤコブの名をつけたものが聖書には沢山出てくるのです。

旧約聖書の名前からとった人物として、今のヤコブもそうですが、マリヤの名前もそうです。モーセの姉ミリヤムがマリヤです。
イエス様の名前もそうです。モーセの後継者のヨシュアがイエスです。

お話しをヤコブに戻しますが、新約聖書には、ゼベダイの子ヤコブなども出てきます。
このゼベダイの子ヤコブは、黙示録を書いたヨハネの兄弟です。
彼は、最初の殉教者となったステパノについで、殉教し、使徒の中では最初の殉教者となりました。

で、ヤコブの手紙を書いたヤコブですが、イエス様の弟でもあった彼は、初代のエルサレムの教会を支える大きな柱となりました。
使徒の働きなどに、彼が発言して人々を治めるところが出てきます。

彼は、人としてのイエス様を見、また、イエス様のその生涯の全てを見た人です。
そして、信仰というものが、決して空想的なものや現実から離れたものではないということを良く知っている人でした。
それは、彼が見たイエス様の歩みだったのです。

信仰による歩みとはどんなものか、私たちは、このことを見落とさないようにしなければなりません。
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信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
ヘブル人への手紙12章2節
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このイエス様が十字架を忍ばれたその歩みは、信仰によるものです。

イエス様は、この行いによって全うされました。
そして、主は神の御座の右に着座されたのです。
ですから、私たちは、このことを忘れてはなりません。

信仰には行いが伴うのです。
しかし、前回もお話したように、行いで信仰を示すことは出来ません。

信仰がなくても行うことが出来るからです。
中には、見栄や自慢の為に献金や施しをする人もいます。

聖書ははっきりといいます。
++++++++++
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
ヘブル人への手紙11章6節
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信仰がなくては、神様を喜ばせることは出来ません。

そのような信仰ですが、ヤコブの手紙にはこう書いてあります。
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14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

20 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
ヤコブの手紙2章14、20節
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ヤコブは、行いの無い信仰は、役に立たない空しいものだといっています。
しかし、それは信仰を否定しているのではありません。

信仰は言葉だけのものではなく、現実に力をもって働くのだとヤコブはいっているのです。
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14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
ヤコブの手紙5章14-15節
++++++++++
ヤコブはイエス様の歩みが信仰によるものであるという事を良く知っていました。
ヤコブは、イエス様の弟として、イエス様の生き様の全てを見て、信仰が行動になり、現実のものとなることを良く知っていたのです。

そして、そのことをアブラハムになぞらえて説明します。

アブラハムは神を信じたということは、新約聖書の3つの箇所に出てきます。
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聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
ローマ人への手紙4章3節

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
ガラテヤ人への手紙3章6節

そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
ヤコブの手紙2章23節
++++++++++
同じようにアブラハムの信仰が義とされたことが書いてあります。
しかし、この中で問題になるのがヤコブの手紙です。

前後はこう書いてあります。
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20 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、
23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
24 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
ヤコブの手紙2章20-24節
++++++++++
このヤコブの手紙だけは、同じところから、行ないによって義とされると言っているのです。

アブラハム。
彼は、信仰の祖といわれる人物です。

旧約聖書の創世記に出てきます。

アブラハムは、神様から祝福するといわれて、それを信じました。
彼は豊かになりましたが、自分が90歳、妻が80歳になっても跡取りの子どもがいませんでした。

しかし、神様はアブラハムに、アブラハムの子孫が、空の星、地の砂のようになるといわれたのです。

アブラハムは信じました。神様はそれを義とされました。
そして、アブラハムが百歳。妻サラが九十歳のとき、息子のイサクが生まれたのです。

ところが、イサクが成長すると、今度は、主はこのイサクをいけにえとして捧げるようにいわれました。
サラとの間には一人しかいない子どもを捧げるなどとんでもないことに思えるでしょう。

しかし、彼は、主が言われるとおり、モリヤの山に行きました。

この山はいまのエルサレムであり、また、かって神殿のあった場所だともいわれます。

そこにたどり着くまでのやりとりが、創世記には書いてあります。
イサクはまきを担げるほどに成長しています。
そのイサクは、父アブラハムに、
「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
と聞くのです。

アブラハムは、答えます。
「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」

++++++++++
6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
創世記22章6-10節
++++++++++
ここには様々なアブラハムの葛藤があります。
真の神様はご自分の作られた命を大切にされる神様です。
こんなことをされるはずがあるだろうかとも考えたでしょう。

また、イサクは約束の子です。
かれが死んだらどうなるのかとも考えたでしょう。
しかし、アブラハムは彼を捧げたのです。
ところがその時、
++++++++++
11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないで
わたしにささげた。」
13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
創世記22章11-14節
++++++++++
主はアブラハムの手を止められたのです。そこにはいけにえにする雄羊が用意されていました。
アドナイ・イルエ主は備えたもう神です。

そして主はアブラハムに語られます。
++++++++++
15 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
創世記22章15-18節
++++++++++
皆さん。この約束は偉大です。

あなたの子孫によって、地の全ての国々は祝福を受けるようになると書いてあります。
アブラハムが聞き従ったそのことは、アブラハムだけではなく、私たち全ての者が神様の祝福を受けることにつながったのです。
アブラハムからはじまって全世界に祝福が及ぶ。いま、確かに私たちはその祝福を受けています。
それは、アブラハムの子孫としてこられたイエス様による祝福です。
全世界がイエス様によって祝福されているのです。

全世界がアブラハムの子孫によって祝福される。このイエス様に通じる偉大な約束が与えられたのは、それは、アブラハムが、ひとり子を惜しまなかったからだと書いてあります。
一人子を惜しまない。同じように一人子をおしまずに与えて下さった方がおられます。それは、父なる神様です。

これに変えて、父なる神様は、ひとり子イエス様を惜しまずに与えてくださいました。
++++++++++
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書3章16節
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それがイエス様です。

さて、アブラハムは、神様を信じるからこそ、このことをしました。
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彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。
ヘブル人への手紙11章19節
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イサクは約束の子どもでした。
イサクを通してアブラハムの子孫が増えることは約束だったのです。
だから、アブラハムは信じたのです。神様はイサクを蘇らせることが出来る。

そしてそのことは行動となったのです。
だから、ヤコブの手紙には書いてあるのです。
++++++++++
20 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、
23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
24 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
ヤコブの手紙2章20-24節
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人は行ないによって義と認められるとヤコブは言います。
信仰は、行動にあらわれるからです。

信仰は、神様との関係です。神様への心です。
神様は、私たち人間を愛し恵みを与えてくださいます。
人はそれに対して、信仰で答えるのです。

ですから、神を愛するというのは、神を信じる事です。
信仰がなければ喜ばせることは出来ません。
信仰は、人と神様との関係です。
でも、イエス様大好きですとか、わたしは信じますといいながら、わたしに信仰があるといいながら、聖書も読まない、祈らない、教会にもいかないなら、その信仰はどうなるでしょうか。
ですから、その行いが信仰を表しています。わたしたちは正直に悔い改めなければなりません。

しかし、そこで注意するべきことがあります。
それは、聖書読んでますから私の信仰は大丈夫ですとか、教会にいってるからわたしの信仰は大丈夫ですとか、そういうことではないということです。

信仰は、神様との心のつながりです。
本当に神様を愛するところから、行動があらわれるのです。
そこに聖霊様が働かれ、実が現れます。それが、御霊の実なのです。

さて、やっと今回の箇所に入ります。
++++++++++
7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておら
れる方だということです。
ヤコブの手紙5章7-11節
++++++++++
何度も、耐え忍びなさいと書いてあります。
ヨブも耐え忍んだ人でした。
細かい話をし出すと終わりませんので、旧約聖書のヨブ記を読んでもらえればと思います。
ヨブは苦難にあいましたが耐え忍び神様から何倍もの祝福を頂きました。

私たちが耐え忍ぶことは、主を待ち望むこと、主が来られることと関係があります。
主の来られるのが近い、主が戸口に立っておられると、書いてあります。

私たちは、主を待ち望むから耐え忍ぶのです。
やがて来られる主を待ち、また、いまも助けて下さる主を待つのです。

教会は、我慢大会の場所ではありません。
忍耐は、我慢ではありません。そこには救いを与えてくださる主への希望があるのです。

しかし、耐え忍んだものの信仰に主は働かれます。

耐え忍んだものたちの信仰。それらを見るときに、逆に、自分に苦難を与えてくださいなどという考えが出てきます。
日本には、「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った武将もおり、それが美談と考えられます。

しかし、それは、聖書的ではありません。

アブラハムは、自分からイサクを捧げようと考えたのではありません。
愛するわが子を捧げるほどの私の信仰を見てくださいと息子を殺そうとしたのではありません。
そのようなことは神を試すことにつながります。
アブラハムはただ神様の命令に従ったのです。

危険の中に自ら入りこんで行くことも、時には神様を試すことにつながります。
聖書には、神を試みてはならないとはっきり書いてあります。
もちろん宣教の為に危険なところに行くこともあります。
宣教師は命がけで福音を伝えます。しかし、それは神様の命令によります。
神様の福音宣教命令に忠実に従うからその事をしているのです。

神様の与えて下さったものをそのまま受け取ることが大切なのです。

誓いというと、わたしはこんなことをやり遂げて見せますとか、わたしはこれこれをしますとか、わたしはいくら捧げますとかそういうことですが、
ヤコブの手紙にはこうあります。
++++++++++
13 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。
14 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。
15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
ヤコブの手紙4章13-15節
++++++++++
わたしたちは、主にいかされている。
その中で、主にへりくだると共に、積極的に生きるのです。

そういう意味で、誓わないようjに、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」と書かれているのです。
++++++++++
私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会
わないためです。
ヤコブの手紙5章12節
++++++++++
ここで、いいえをいいえと書いてあることにも注目してください。
あなたが、神様に向かうなら、神様の前で正直であるなら、はいだけでなく、いいえでもいいのです。
なぜなら、あなたの心を主はご存知だからです。

あなたが、神様の命令を聞けないなら、正直に出来ませんと祈っていいのです。
あなたが罪を離れることが出来ないなら正直に、神様にできませんと祈っていいのです。
そして、神様の命令に従うことが出来るように、罪を離れることが出来るように助けてくださいと祈ればいいのです。
ハイと答えないと、地獄に行くと考えるなら、それは大きな間違いです。
なぜなら、罪深い私たちを知っておられる神様は、わたしたちを赦すためにイエス様を与えて下さったからです。
主の前に正直であること、それは、信仰です。

そして、さらに、信仰が、祈りや賛美につながるということが書かれています。
++++++++++
13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。
18 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。
ヤコブの手紙5章13-18節
++++++++++
苦しいとき、信仰は祈らせます。
嬉しいとき、喜んでいるとき、信仰は、神への感謝と賛美につながります。
また、その信仰は現実に働いて、病を癒すのです。
エリヤの祈りは雨を止め、また、雨を降らせました。

世界の全てを治めておられるかたに私たちは祈っているのです。

さらにこう書いてあります。
++++++++++
19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、
20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。
ヤコブの手紙5章19-20節
++++++++++
また、その最後にヤコブは、真理から迷い出たものを連れ戻すことは、罪をおおうことだと教えています。

ヤコブは、信仰が行ないに現れるということを教えます。
行いのない信仰など空しいと教えます。

しかし、それは、互いを裁きあうためではありません。

そんな信仰ではだめだと言い合う為ではありません。

互いを励まし、もし、離れたものがあるなら、連れ戻すためなのです。

皆さん。私たちは、この信仰の中におかれています。

その信仰は恵みによって与えられたものです。
また、信仰によって受け取ったものです。

神からの賜物、すなわちそれはプレゼントです。

しかし、その信仰をちゃんと働かせているでしょうか。
使っているでしょうか。
あなたの信仰は苦難のとき祈りを生み出しますか?
嬉しいとき、賛美を生み出しますか?

もしそうでないなら、そのことから、主の前に悔い改めへりくだりましょう。

そんな自分自身を主の前に正直に言い表し、信仰がさらに生きたものとなるように祈りましょう。

その時、皆さんを通して主の栄光が表されます。

お祈りしましょう。

<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。 
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・日本宣教センター、キッズ&ファミリー・サポート・ミッションの為に。

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シティーチャーチメッセージ20111127 心を強くしなさい
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