礼拝でのお話
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作成日5/1
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ワーシップ
メッセージ


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シティーチャーチ
メッセージ201100501
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父よ。彼らをお赦しください。
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<いのり>

皆さんハレルヤ
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、私たちの罪の為十字架にかかり、
贖いをなして下さった方、あわれみ深い大祭司です。
この方を覚えて、さらに、礼拝を捧げて参りましょう。

では、まず、東日本の震災の為に祈りましょう。
まだ余震が続いています。そのこともお祈りしましょう。
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<東日本大震災の為の祈りの課題>
1、原子炉が速やかに安全な状態になるように。作業者の身体と命が守られるように。
2、余震がおさまるように。 3、被災者に慰めと励ましがあるように。心と霊のケアの為に。
4、被災者への救援活動が効率よく進められますように。ボランティアや作業者に助けと守りがあるように。
5、この国が霊的に目覚めて罪を悔い改めて神様に従う民となるように。
(・石巻市立湊小学校・女川町立女川第二小学校・石巻市立渡波小学校・南三陸町立志津川小学校)
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では、いつものように、聖書の通読箇所を開きましょう。

今週の通読箇所は、旧約聖書が、サムエル記第一からサムエル記第二、新約聖書が、ルカの福音書からヨハネの福音書です。
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5月1日(日)[ ]Tサム24-25 /[ ]ルカ22:47-71
5月2日(月)[ ]Tサム26-28 /[ ]ルカ23:1-32
5月3日(火)[ ]Tサム29-31 /[ ]ルカ23:33-56
5月4日(水)[ ]Uサム1-2 /[ ]ルカ24:1-32
5月5日(木)[ ]Uサム3-4 /[ ]ルカ24:33-53
5月6日(金)[ ]Uサム5-6 /[ ]ヨハ1:1-28
5月7日(土)[ ]Uサム7-8 /[ ]ヨハ1:29-51
5月8日(日)[ ]Uサム9-11 /[ ]ヨハ2
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サムエル記第一はサウルの死で終わり、ダビデの時代が始まります。
サウルは、非常に立派な人物でしたが、神様にゆだねきることが出来ずに死にました。
これに対し、ダビデは、様々な罪を犯しましたが、それでも神様にすがりつき、堅固な王国を築きました。
特に、サムエル記の最初のほうは、ダビデの活躍を見ることが出来ます。
皆さん。聖書を読みましょう。

新約聖書は、ルカの福音書からヨハネの福音書です。
ヨハネの福音書は、この言葉からはじまります。
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初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネの福音書1章1節
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神の言葉であるイエス様がどれほど素晴らしい方かを私たちは知ることが出来ます。

皆さん聖書を読みましょう。

さて、では、聖書箇所を開きましょう。
本日の聖書箇所は、ルカの福音書23章です。
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【 聖書箇所 】 ルカの福音書23章33-47節
・新改訳Up153(贈呈p138、英対p252)
・新改訳Vp167、英対p187(贈呈p158)
・口語訳p131
・新共同訳p158 (贈呈p158、英対p245)
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司会者お願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
ルカの福音書23章33-47節
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。
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では、主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。
ルカの福音書23章34節
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では、この所から、
「 父よ。彼らをお赦しください。 」
と題しまして、御言葉を開いて参りましょう。

皆さん。先週は、復活祭で、イエス様の十字架と復活を覚えて礼拝を捧げました。
今回もまた、イエス様の十字架が聖書の箇所となっています。

私たちにとって、礼拝とは、蘇られたイエス様を称えることです。
そのために、わたしたちは、週の初めの日に集っているのです。
イエス様は蘇られました。ハレルヤ。

ところで、今回の箇所は、そのイエス様が、十字架に架かられた場面です。

皆さん。聖書には、福音書と呼ばれるものが4つあります。
それは、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書です。
この四つの福音書に必ず書いてある事はなんでしょう。

イエス様の降誕でしょうか。
いえ。イエス様がお生まれになったということは、ルカの福音書と、マタイの福音書にしか書いてありません。
ではなんでしょう。

それは、イエス様が十字架で死なれたこと、葬られたこと、三日目に蘇られたことです。
パウロも、こういいます。
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3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
コリント人への手紙第一15章3-4節
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イエス様が死んで蘇られた、このことが福音書という本が伝えようとすること、聖書という書物が伝えようとすることです。
聖書には、素晴らしい道徳、戒めが書かれています。
しかし、聖書はそれを教えるための本ではありません。

聖書には、イエス様がなされた素晴らしい奇跡がかかれています。
それも、このもっとも大切なことの前では、重要ではありません。

また、聖書には、イエス様の降誕からの出来事が書かれています。
しかし、そのこともこの聖書の中心ではありません。

そういう意味では、イエス様を信じるものにとって、クリスマスは特に重要ではないともいえます。
そういう目で見ると、マルコやヨハネの福音書は、イエス様が降誕を取り上げてさえいないのです。
ヨハネの福音書にはこうかいてあります。
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14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
ヨハネの福音書1章14-15節
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この14節は、クリスマスのときにも用いられる御言葉です。
しかし、この証言は、15節にみるように、洗礼者ヨハネの証言に基づくものであり、
世に来られたというのは、イエス様の降誕よりも、イエス様が働きを始められたときの事をさしています。

イエス様が十字架で死んで下さった。
それは、なんの為ですか?
イエス様の目的は、はっきりと書かれています。
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人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
マルコの福音書10章45節
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先日、サイババという方がなくなったというお話を耳にしました。
偉大な宗教指導者であったということです。
沢山の奇跡を行ったといわれます。

しかし、わたしたちは、奇跡で競争する必要もありません。

なぜなら、イエス様がお与えになるのは、ご自信のいのちだからです。
誰も、このように言える人はいません。
ただ、イエス様だけが命をお与えになったのです。

イエス様は、私たちの罪の購いの代価として、ご自身の命を与え、また、私たちに、永遠の命を与えるために来られたのです。
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14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書3章14-16節
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誰も、このように言うことの出来る人はいません。

サイババは復活するといったそうですが、サイババが復活しても、あなたの命と関係がありません。
しかし、イエス様の命は、あなたの命とつながっているのです。

イエス様が十字架で、罪の代価をはらって下さった。
ですから、イエス様は、普通に死なれたのではありません。

罪を背負って十字架で死んで下さったのです。

このイエス様の死。
それは、他の宗教の指導者たちと比較することなど出来ません。
また、それは、たまたまおこったことではなく、ここに書かれているように、イエス様が捕らえられる前から、預言されていた出来事だったのです。

イエス様は、十字架で死んでくださいました。

この中で「どくろ」と呼ばれている所とありますが、このどくろが「ゴルゴダ」です。
イエス様は、どくろ、ゴルゴダと呼ばれるところで、十字架に架かられたのです。

そのとき、イエス様はいわれました。
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「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
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そのように人々をとりなすイエス様の足元では、人々は、くじでイエス様の着物を分けていたのです。

民衆も、指導者も、みながイエス様をあざけりました。
あるものは、「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と言い、
あるものは、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言いました。

イエス様は、そのような中で、「父よ彼らをお許しください。」と祈られたのです。
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7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
ローマ人への手紙5章7-10節
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敵であった私たちの為に、イエス様は祈られました。

そして、十字架の上でさえ、二人のうちの一人は、イエス様を信じたのです。
イエス様の死を目撃した百人隊長は、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」といいました。
マタイの福音書では、こうも書いてあります。
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百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。
マタイの福音書27章54節
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イエス様は、神の子です。
そのことは、弟子たちだけでなく、その生涯を見るときに、ローマの兵士にさえわかったのです。

この方は、祭司としてのつとめを持っておられます。
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しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
ヘブル人への手紙7章24節
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祭司の務めは何ですか。
その一つに、罪の購いということがあります。
罪を犯したものが、捧げ物を持ってきます。祭司は、その血を流し、祭壇に注ぎ、その捧げ物を祭壇で焼いて、罪のための購いの儀式をします。
捧げたものの罪が赦されるためです。
イエス様は、ご自身の身体を持って十字架で罪の為のいけにえとし、血を流し、そして、「彼らの罪を赦してください」ととりなして下さったのです。
ですから、この祈りは、イエス様の愛の表れであり、また、恵みであり、また、祭司としてのとりなしであったのです。

そして、このイエス様は、いまも、とりなしておられるのです。
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罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
ローマ人への手紙8章34節
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
ヘブル人への手紙7章25節
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ですから、いま、私たちは、恐れることなく大胆に、あわれみを受けるために主の前に出ることができます。
なぜなら、それが、あなたの正しさによらないからです。イエス様にあって私たちは、恵みの御座に出ることが出来るのです。
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15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙4章15-16節
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主は、いまも、私たちを愛し、とりなしてくださっておられるのです。

お祈りしましょう。



<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。 
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・日本宣教センター、キッズ&ファミリー・サポート・ミッションの為に。

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シティーチャーチメッセージ20110501 父よ。彼らをお赦しください。
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