礼拝でのお話
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ワーシップ
メッセージ



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シティーチャーチ
メッセージ20110327  
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安息日の主
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 
マタイの福音書11章28−30節
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<いのり>

皆さんハレルヤ
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、安息日の主、
私たちに変わることの無い平安を与えてくださる方です。
この方を覚えて、御言葉を開いて参りましょう。

さて、先週に続いて、東日本大震災の為に祈りたいと思います。

<東日本大震災の為の祈りの課題>
1,原子炉が炉心熔融しないように。速やかに回復処置が成功しますように。(安全な状態になるように。)
2・日本が試されていますが、一致してこの難局を乗り越えられるように。
3・現状が早く把握され、被災者への救援活動が効率よく進められますように。
4・この国が霊的に目覚めて罪を悔い改めて神様に従う民となりますように。

大久保先生から祈祷会の呼びかけも来ています。
ご確認ください。

では、続いて、いつものように聖書の通読箇所から見て参りましょう。
旧約聖書は申命記が終わり、ヨシュア記
新約聖書はルカの福音書です。
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3月27日(日)[ ]申33-34 /[ ]ルカ5:1-16
3月28日(月)[ ]ヨシ1-2 /[ ]ルカ5:17-39
3月29日(火)[ ]ヨシ3-5 /[ ]ルカ6:1-19
3月30日(水)[ ]ヨシ6-7 /[ ]ルカ6:20-49
3月31日(木)[ ]ヨシ8-9 /[ ]ルカ7:1-17
4月1日(金)[ ]ヨシ10-11 /[ ]ルカ7:18-35
4月2日(土)[ ]ヨシ12-14 /[ ]ルカ7:36-50
4月3日(日)[ ]ヨシ15-17 /[ ]ルカ8:1-26
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モーセは民を導いてカナンに向かいますが、入ることが出来ず、その生涯を終え、その働きはヨシュアへと引き継がれます。
そしていよいよ、カナンの地、約束の地に入っていくのがヨシュア記です。

それは、素晴らしい希望の時です。エリコの攻略は、主の勝利とはこういうものだと教えられます。
ところが、そのような時でさえ、時に民は反逆し、多くの命が失われます。アコルの谷での出来事は、本当に悲しい出来事です。
なんと人は罪深いものかと教えられます。
しかし、その民を、主はあわれみ導かれるのです。
是非、ヨシュア記をお読みください。

また、ルカの福音書は、御話の中で見て参りましょう。

本日の聖書箇所を開きましょう。
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【 聖書箇所 】 ルカの福音書6章1-16節
・新改訳Up108(贈呈p97、英対p178)
・新改訳Vp118、英対p133(贈呈p111)
・口語訳p93
・新共同訳p111 (贈呈p111、英対p174)
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司会者お願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
6:2 すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
6:3 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
6:4 ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」
6:6 別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。
6:7 そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
6:8 イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
6:9 イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
6:10 そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
6:11 すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。
6:12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。
6:13 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
6:14 すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、
6:15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、
6:16 ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
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主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。
ルカの福音書6章9節
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では、この所から、
「安息日の主」
と題しまして、御言葉を共に見て参りましょう。

さて、今回の箇所は、安息日にイエス様がなさった事について書かれている所です。

この箇所は、まず、イエス様の弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで食べ始めたことから始まります。
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1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
2 すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
ルカの福音書6章1-2節
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それをみて、パリサイ人たちは言いました。
「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
ここで、何故、このことがいけないのかわかりますか?
彼らが 麦を食べたことが悪いのではありません。

彼らが麦の穂を摘んだ事と、そして、それを手でもみ出して食べた事。
これが労働だと考えたのです。

その背景は、旧約聖書にあります。
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13 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。
14 その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。
15 イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。
16 主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
17 そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。
18 しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。
19 モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」
20 彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。
21 彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。
出エジプト記16章13-21節
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ここに書かれているのはマナについてです。
皆さん。マナは、命のパン、イエス様を象徴しています。
そして、それは、私たちへの霊の糧である御言葉も象徴しているのです。

それは、朝ごとに集め、残らなかったのです。
そして、安息日以外、保存も出来ません。
ですから、私たちは、毎日、それを食べなければなりません。
私たちは、毎日、御言葉を読まなければならないのです。

さて、六日目には、二日分のマナを得ることが出来ます。
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22 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、
23 モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っ
ておけ。』」
24 それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。
25 それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。
26 六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」
27 それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。
28 そのとき、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。
29 主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはなら
ない。」
30 それで、民は七日目に休んだ。
31 イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。
出エジプト記16章22-31節
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しかし、7日目は安息日であり、その日には、マナを得ることは出来ないのです。

ところで、このユダヤ人の安息日は土曜日で、日曜日ではありません。

もともとユダヤ人の安息日は土曜日で、今でもそうです。
しかし、イエス様が十字架に架かられて死に、蘇られて、イエス様を信じるものは、イエス様の復活された日を礼拝の日としました。
イエス様が死なれたのが安息日の前の日、そして蘇られたのが安息日の次の日です。
それで、安息日の次の日を礼拝の日とし、休むようになったのです。

とにかく、彼らは、安息日には、マナを得ることが出来ませんでした。
しかし、それを探しに出たものがいたのです。

安息日の律法については、出エジプト記にこう書いてあります。
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8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人
も。――
11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
出エジプト記20章8-11節
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ところで、この主が休まれたというのは創世記にこう書いてあります。
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31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。
1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
創世記1章31節-2章3節
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主は、天地を創造されたとき、7日目に創造のわざを休まれた。
神様の造られた世界は、そのとき、神様ご自身の造られたその仕組みの中で、調和をもって動いていたのです。

それは、何か細かな機械を作り上げ、それが作ったとおりに動くところを見ている製作者に例えれるかもしれません。

主は7日目に安息されました。

それゆえ、その日を聖なる日とせよと、主はいわれたのです。

この律法は出エジプト記31章には、こう書いてあります。
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13 「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あな
たがたが知るためのものなのである。
14 これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切ら
れる。
15 六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
16 イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。
17 これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」
出エジプト記31章13-17節
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安息日を守らないものは、殺されなければならないのです。

そのことの実例が、民数記に出てきます。
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32 イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。
33 たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。
34 しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。
35 すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」
36 そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。
民数記15章32-36節
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彼は、安息日にたきぎを集めたのです。
そして、石で打ち殺されたのです。
なんということでしょう。 
律法とはなんと厳しいのでしょう。

私たちは、律法の中に生きていたのではない異邦人です。
それで、律法がどれほど厳しいものか知りません。

そのため、イエス様のなされたことを簡単に考えてしまいがちです。

しかし、イエス様が、この安息日に主の働きをなさったというのは、大変な出来事だったのです。

これらの背景を考えると、パリサイ人のあまりに厳格な言葉さえ、もっともにも聞こえます。
++++++++++
1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
2 すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
ルカの福音書6章1-2節
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麦の穂を摘み食べた事を、労働だとして非難していることが、私たちにとってばかばかしく映るのは、彼らより、私たちの心が広かったり、イエス様のお心に近いからではなく、
単に、私たちの文化にそういう戒めがなく、いい加減なだけなのではないかと思います。

イエス様ご自身は、厳格に律法を守っておられるかたでした。
先ほどの民数記の箇所では、彼は、戒めを知っていて、あえてそれをいい加減に扱ったために死にました。

今、学校などで教師に反抗する子ども達は、やってはいけないことをあえてしようとすることがあります。
それは、私たちのうちにある反逆心を表しています。
それにより、どんなに一時的に面白く、満足を得ても、それは、自分の人生を捨てているようなものです。
なかには、大人でもそのことをあおるようなものがいますが、とんでもないことです。
私たちは、主のゆえに、上に立てられた権威に従うことを学ばなければならないのです。
もちろん上に立てられたものが問題を起こすこともあります。
だからこそ、上に立つ権威の為にまずいのるようにと勧められています。

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1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。
テモテへの手紙第一 2章1-3節
++++++++++
私たちは、主のゆえに権威に従うこと、上に立てられたものの為に祈ることを学ばなければなりません。

さまざまな問題を、政府や内閣が起こしても、それを批判するだけであってはならないのです。
いつも、祈りとりなしましょう。

お話を戻しますが、ここで、マタイの福音書を開きます。
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1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
マタイの福音書12章1-2節
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ここで、彼らが穂を摘んで食べたのがひもじくなったからだと書いてあります。

そこで、主は言われるのです。
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3 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
4 ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
5 そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」
ルカの福音書6章3-5節
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イエス様ご自身は厳格に律法を守っておられます。しかし、弟子たちの弱さゆえに行ったことを赦されたのです。

ヘブル人への手紙にはこう書いてあります。
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私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ヘブル人への手紙4章15節
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あなたの犯した罪はどんな罪でしょう。
しかし、主は赦してくださる方です。ですから、主の前にへりくだり罪を言い表し、赦しと聖めを頂きましょう。

そして、さらにイエス様は言われます。
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27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
28 人の子は安息日にも主です。」
マルコの福音書2章27-28節
++++++++++

皆さん。これは、ユダヤ人にとって、大変な言葉です。

安息日は、十戒の4番目に位置する重要な戒めです。
それはまた、ユダヤ人の独自性を示しており、他のものと、ユダヤ人の違いを示すものでもありました。
ところが、それをイエス様はひっくり返されたようなものだったのです。

ユダヤ人は、律法の中で、安息日を重要なものとしていました。
それは、安息日を守ることは、律法を守ることそのもののようだったのです。

皆さんわたしたちにとって、日曜日に礼拝に来ることはどうでしょう。
もし、それが、律法になっているなら、そして、逆に日曜日に教会さえ来ていればいいと、
まあ、そんなことを考える方は、この中にはおられないと思います。
しかし、もし、そんな考えでいるなら、それは、イエス様のお考えと随分違っています。

日曜日、私たちは、何をしに教会にくるでしょう。
礼拝です。まあ、私たちは、毎日礼拝を捧げる教会を目指しているのですがそのお話は今度にしましょう。
私たちは、礼拝を捧げにくる。
それは、祈りによって神様と交わる事であり、神様に賛美の歌声をささげる事であり、神様の御言葉を聞くことであり、献金という捧げ物を捧げる事をです。
それは、単なる儀式ではありません。
それは、何か戒めを守ることではありません。
それは、私たちと神様との関係なのです。

ですから、来なかったからといって、裁かれるわけではありません。
しかし、それは、あなたと神様との関係を表しています。

あなたの家族が、あなたの誕生日を忘れていたら、悲しく無いでしょうか。
あなたの事を覚えている。それは、家族との関係で当たり前の事でしょう。

もし、あなたが誕生日のお祝いをするからといって、友達を誘います。
ところが、友達がこなかったらどうですか?
もちろん、来なかった友達をひどいめにあわせようとかは考えないかも知れません。
しかし、それは、その友達とあなたとの関係を表しています。

同じように、礼拝にこなくても、あなたが神様から見捨てられるとか、そうは言いません。
しかし、礼拝に来ないことは、あなたが神様を選んでいないということ。
あなたにとって、神様がどういう存在かをあらわしている。
つまり、あなたと、神様との関係、言い換えれば、あなたの信仰がそこに現れているということです。

皆さん。主を礼拝しましょう。主を信じ、主に感謝し、主を礼拝しましょう。

さて、お話を戻しますが、彼らパリサイ人は、安息日を守るため、言い換えれば、戒めを守るために生きていました。
しかし、主は、戒めは、人の為にあるといわれたのです。

++++++++++
27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
28 人の子は安息日にも主です。」
マルコの福音書2章27-28節
++++++++++

安息日、を律法に読み替えるなら、律法は、人間のために設けられた、ということです。

神様は、人間を祝福するために戒めをお与えになったのです。
ですから、私たちは、この戒めをないがしろにしてはなりません。
律法に対しても、いい加減であってはならないのです。

しかし、全ての戒めはイエス様がなしとげられ、完成されました。

そして、今、イエス様は一つの戒めを与えられています。
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わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
ヨハネの福音書15章12節
++++++++++

これが、イエス様の戒めです。
ここには、律法の定めようとした神と人との関係、人と人との関係の全てが詰まっています。

ここには神と人との関係がないといわれるなら、この御言葉を見てください。
++++++++++
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
ヨハネの手紙第一 5章3節

しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
コリント人への手紙第一 8章3節
++++++++++

神を愛することは、神の命令を守ることです。
そして、その人は、主に知られているのです。

ですから、こう書いてあります。
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1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
詩篇1篇1-3節
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さて、天地創造において、安息日の前の日にはなにがありましたか?
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31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。
1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
創世記1章31節-2章3節
++++++++++
天地創造の完成です。
その次の日が安息日となりました。

完成を告げられたと書かれていることから、イエス様の十字架でのこの言葉を思い出します。
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イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
ヨハネの福音書19章30節
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イエス様の救いの業が完了し、そのことによって私たちは、本当の安息に入るのです。

安息、それは、完全な平安です。
それについて、こう書いてあります。
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苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こ
ります。
テサロニケ人への手紙第二 1章7節

ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
ヘブル人への手紙4章11節
++++++++++

しかし、また、主は言われます。
++++++++++
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりま
せん。
ヨハネの福音書14章27節

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
ヨハネの福音書16章33節
++++++++++
イエス様は、私の平安を与えるといわれました。
私たちを安息に入れるため、イエス様は、世に勝利されました。

私たちは、安息日を律法として捕らえるのでなく、本当に安息を与えようとしておられる方を見上げなければなりません。
この方は、安息日の主であり、まことの平安を私たちに与えて下さる方なのです。

お祈りしましょう。

<祈り>

[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
 (テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。 
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・フランクリングラハム大会の為に。

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シティーチャーチメッセージ20110327 安息日の主
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