礼拝でのお話
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作成日3/6
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ワーシップ
メッセージ
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シティーチャーチ
メッセージ20110306
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祈りの家
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28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書11章28−30節
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<いのり>
皆さんハレルヤ
聖なる聖なる聖なる主を称えます。
主は、いつも私たちの祈りを聞き、祈りに答えてくださる方です。
この方を覚えて、御言葉を共に開いて参りましょう。
いつものように、聖書の通読箇所から見てまいりたいと思います。
今週の聖書の通読箇所は、旧約聖書が民数記から申命記。
新約聖書がマルコの福音書です。
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3月6日(日)[ ]民26-27 /[ ]マコ10:1-31
3月7日(月)[ ]民28-29 /[ ]マコ10:32-52
3月8日(火)[ ]民30-31 /[ ]マコ11
3月9日(水)[ ]民32-33 /[ ]マコ12:1-17
3月10日(木)[ ]民34-36 /[ ]マコ12:18-44
3月11日(金)[ ]申1 /[ ]マコ13
3月12日(土)[ ]申2-3 /[ ]マコ14:1-26
3月13日(日)[ ]申4 /[ ]マコ14:27-42
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民数記は、荒野でのイスラエルの民の歩みの記録だと言いましたが、彼らは、主に導かれ、荒野で40年間過ごしました。
それは、彼らの不信仰のゆえでした。
その不信仰とは、主が約束の地に導かれるのに、それを信じなかったという不信仰でした。
彼らは、自分たちを導いて下さる主を信じ、主に従うことが出来ませんでした。
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しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
民数記13章31節
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その結果、彼らは40年荒野で過ごしたのです。
いや、その中で、不信仰の民は皆死んだのです。
不信仰。それは、大きな罪です。そして、時に死に至る罪なのです。
皆さん。信じるということはどれほど大切でしょう。
しかし、聞いたことの無いものをどうやって信じることが出来るでしょう。
ですから、私たちにとって、聖書を通してイエス様を知ることは大切です。
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しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
ローマ人への手紙10章14節
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この御言葉からは、また、私たちがのべ伝えることの大切さも知ることが出来ます。
また、申命記。
こちらは、モーセの遺言のような書です。
モーセはこの書を記し、120歳で世を去ります。
その中に人の齢は120年と書かれていることからすると、律法の通りに生きた人ということも出来るかも知れません。
新約聖書マルコの福音書は、御話のなかで見て参りましょう。
では、今日は、このマルコの福音書の11章を開きましょう。
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【 聖書箇所 】 マルコの福音書11章12-25節
・新改訳Up82(贈呈p73、英対p134)
・新改訳Vp89、英対p101(贈呈p84)
・口語訳p70
・新共同訳p84 (贈呈p84、英対p130)
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司会者お願いします。
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【 聖書箇所のテキスト 】
マルコの福音書11章12-25節
11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
11:14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
11:15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、
11:16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
11:17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
11:18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。
11:19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。
11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」
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では、主題聖句を言いましょう。
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【 主題聖句 】
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
マルコの福音書11章17節
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では、この所から、祈りの家と題しまして、御言葉を共に開いて参りたいと思います。
今回の箇所は、イエス様が、エルサレムに入られてからのことです。
ホサナと迎える民の中イエス様は、エルサレムに入り、いよいよ、十字架に向けての歩みが始まりました。
イエス様が、宿泊地であったベタニヤからエルサレムに戻ろうとされたとき、そこにいちじくの木がありました。
皆さん。神様のなさることに偶然はありません。
全てが神様の御手の中にあり、必然の中で動いているのです。
わたしたちは、よく、たまたまそうなっただけだといいます。しかし、たまたまなどということは、本当はありません。
全てが神の御手の中にあり、それら全ては、神様によって導かれている。
ですから、イエス様は言われました。
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二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
マタイの福音書10章29節
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すべては主の御手の中にあるのです。
ところで、どうでもいいことですが、おなじようなことが、ルカの福音書にも書かれています。
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五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
ルカの福音書12章6節
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こんどは、5羽で2アサリオンです。
2アサリオンだと4羽かと思えば、2アサリオンで5羽かえてしまう。
一羽おまけですね。その、おまけのような存在。
でもそんな存在ですら、神様は見ておられるのです。
皆さん、ましてや、あなたがたは、神の子どもです。
主は、神の子であるあなた方の為にどうされますか
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神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙8章28節
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主は、主を信じるあなたを愛し、全てをあなたの為に導くことがおできになるのです。信じましょう。
さて、そこにあったいちじく、それは、なんと枯れてしまいました。
このことから、私たちが、知ることが、少なくとも二つあります。
その一つは、イエス様は、信仰によって、このような不思議な力あることをなされたということです。
そして、イエス様は、このことは、私だから出来るといわれずに、こういわれました。
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22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
マルコの福音書11章22-24節
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ここに 誰でもと書いてあることに注目してください。
誰でも信仰をもって宣言するなら出来るのです。
こころの中で疑わず。
ですから、口先だけ言ってもだめです。
心の中で疑わず、言ったとおりになると信じるなら、です。
そして、この続きに主はいわれます。
祈ってもとめたものは、受けたと信じなさい。
これがイエス様が教えられた祈りの秘訣です。
それが、どんなにばかげていても、信仰をもって祈ったことはかなえられるのです。
ただ、大切なことは、祈っているあなたが信じているかどうかです。
あなたが、信じるためにどうすればいいですか。
祈ったことがかなえられると信じるために必要なことが何かを考えてみましょう。
あなたが、誰かに何かを頼むとします。
そうですね。
買い物を頼むとします。
近くのお店に、お茶を買ってきてくださいと千円をあずけます。
誰に頼みましょうか。
もしここに赤ん坊がいて、赤ん坊に千円を渡したらどうなりますか?
それは無理です。
赤ん坊にはその力がないからです。
赤ん坊は、受け取った千円をしばらくてに取って くしゃくしゃにして、あ、口にいれないように気をつけないといけませんね。
で、飽きたらぽいと捨てて終わりでしょう。
それがかなえられる為には、まずその頼んだことが理解できる人でなければなりません。
また、その力がなければならないでしょう。
赤ん坊は、頼んだことを理解することが出来ません。またその力がありません。
ですから、頼んだことを理解でき、力のある人にたのまなければなりません。
お茶を運ぶことの出来る力。ペットボトル一本なら、小学生でも大丈夫です。
でも、箱で買ってくるなら、力の強い人でないと無理かも知れません。
そして、もう一つ大事なのは、その人を信頼できるということです。
頼んで出かけていったけど、帰ってこない。
どうしたのかと思ったら、なんとどこかに遊びにいってしまった。
それだけではない、もしかしたら、そのお金を持ち逃げしてしまうかもしれない。
ですから、あなたが頼んで渡したお金を持ち逃げしない人でなければなりません。
それは、その人との信頼関係です。
では、あなたは、神様の力をどう考えていますか?
また、あなたは、神様に信頼していますか?
私たちは、この二つについて、神様をどう見ているかが大切なのです。
そのために、私たちは、聖書を読みいのるのです。
あなたが聖書を読み祈るなら、神様がどれほど力ある方かがわかります。
神様は、全世界を造られた方、全てを治めておられるかた、紅海を二つに分けられた方、そして、イエス様は、病を癒し、死人をも蘇らせた方です。
私たちは、このことを聖書から知るのです。
また、神様がどれほど信頼にたるかたであるかがわかります。
神様は一人子をお与えになるほどに私たちを愛して下さった方、御子さえ与えてくださった方が、他のものを与えてくださらないはずがないと聖書はいいます。
そして、イエス様は、その愛のゆえに十字架で死んで下さった方。
私たちを、命がけで愛して下さっておられる方です。
私たちにとって、この方以上に信頼出来る方はありません。
また、この方以上に力ある方はないのです。
祈りは、この方との交わり、この方としっかりした関係を持つためのものです。
さて、ここにイエス様が神殿にいかれた記事が書かれています。
神殿は、神の宮はなにをするところですか?
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『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』
マルコの福音書11章17節
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そこは祈りの家です。
また、詩篇にはこうあります。
ダビデの歌です。
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私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
詩篇27篇4節
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ダビデは、主の家に住みたいと考えました。
それはなんのためですか?
主の麗しさを仰ぎ見、
と書いてあります。
わたしたちは、主とまじわるために生かされているのです。
皆さん、今イスラエルには神殿がありません。
それは、AD70年にローマによって破壊されました。
ソロモンの建てた神殿、そして、バビロン捕囚のあと建て直された神殿、そして、ヘロデの建てた神殿、どれも、もうありません。
では、今、神の宮はどこにありますか?
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神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
コリント人への手紙第二6章16節
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それは、主を信じる私たち自身です。
いま、主を信じるあなたが、神殿です。
皆さん。
そして、わたしたち、主を信じるものの集まりである教会は、当然、主の住まわれるところです。
こうかいてあります。
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ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
マタイの福音書18章20節
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いま、ここに主がおられます。
いま、ここは神の宮、神の家です。
それはどんなところといわれましたか?
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『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』
マルコの福音書11章17節
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そこは祈りの家です。
しかし、いま、私たちの教会はどうでしょうか。
祈りの家となっているでしょうか。
皆さん。
わたしたちは、悩みを分かち合うことも大切でしょう。
また、交わりも大切です。
しかし、それ以上に大切なのは、共に主を見上げ祈ることです。
主が、この教会を見て祈りの家だといわれる群れになりたいと思いませんか?
わたしは思います。
ですから、祈りましょう。
何をいのりますか?
心をあわせて、主の臨在を求めて祈りましょう。
また、主の祈りも大切です。
見てみましょう。
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主の祈り
てんにましますわれらのちちよ。
ねがわくは みなをあがめさせたまえ。
みくにをきたらせたまえ。
みこころのてんになるごとく、ちにもなさせたまえ。
われらのにちようのかてを、きょうもあたえたまえ。
われらにつみをおかすものを われらがゆるすごとく、
われらのつみをも ゆるしたまえ。
われらを こころみにあわせず、
あくよりすくい いだしたまえ。
くにと ちからと さかえとは、
かぎりなく なんじのものなればなり。 アーメン。
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まず、御名があがめられるようにです。
主の御名、それは、癒しの御名、救いの御名、勝利の御名、備えある御名です。
しかし、主の御名はあがめられていますか?
日本では、偶像の名や、なにか素晴らしいことをした人の名はあがめられても、多くの人は、主の御名をあがめていません。
ですから、この日本から偽りの主権、悪霊が追い出されるように祈りましょう。
次に、このなかで御国がくるようにと祈っています。
みなさん。天の栄光が地に来るようにといのるのです。
天国に行く事でなく天国の来ることをいのるのです。
そして、主の御心がなるように、主の御心は、私たちが喜ぶこと、健やかであること、平安であること、ですから、癒しは主の御心です。私たちが満たされていることも主の御心です。
また、死人が蘇ることも、開放されることも、主の御心です。
ですから、主の御心を求めましょう。
そして、糧を与えてくださいと祈りましょう。食べ物も、必要も与えられるように、そして、御言葉が与えられるように。
また、赦しますと祈りましょう。互いに赦しあう祈りをしましょう。
悪から守られるように、そして、主をあがめましょう。
主の栄光を共に見せていただきましょう。
お祈りしましょう。
<祈り>
[[祈りの課題]]・御言葉への応答・イスラエル・エルサレムの為。
・母教会グレイスチャペル、近隣の教会の為。八幡の教会の事件で傷ついた人々の為。
・東邦ビル、牧野、枚方、京阪沿線、淀川と流域の町々、関西、日本、世界の為。
(テロからの守りの為に。テロリスト達が悔い改める為に)
・日本の政治、大阪府の府政、枚方市の市政が正しく行われるように。
・台風、ハリケーン、地震、津波等の自然災害、事故、テロの被害者の為。対策と復興の為に。新型のインフルエンザ等からの守りがあるように。備えが出来る様に。
・主がこの日本の子ども達と子ども達にかかわる人々を守って下さる様に。
・シティーチャーチの為、問題を抱えた人々の為、この群れの子どもたちの為。
・フランクリングラハム大会の為に。
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シティーチャーチメッセージ20110306 祈りの家
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